物語の価値を測るために、虚構性の強度というバロメーターがある

先日、キングオブコントの決勝戦を見ていた。最後まで残った三組の中でハナコが圧倒的に面白かったし、優勝もハナコが勝ち取った。

そこから、こんなツイートをした。

↑一部誤字があり、お見苦しくて申し訳ないのですが……。

ハナコが面白かった要素は色々あるけれど、最も大きなファクターとして簿記うは「虚構性の強度」をあげたい。

コントも演劇も小説も時間芸術であり、それらを一括して「物語」と呼ぶことにすれば、物語の価値を語るには様々なバロメーターがある。それは端的に「面白さ」であったり、「教訓の有無」であったりすると思う。そして、その価値の一つに「虚構性の強度」がある。

虚構性の強度が強い作品というのは、別にファンタジー性が強い作品というわけではない。リアリズムを感じる作品でも、写実的な作品であっても、虚構性は生まれると思う。僕たちを、ここではないどこかへ連れていってくれる作品。そういうものを、虚構性の強いものと呼びたい。その物語を体感している人たちが、物語の中に「現実」との繋がりを少しでも見出してしまえば、虚構はそこから決壊してしまう。虚構性の強い作品は、その決壊が起こらないようにあらゆる点で事前の準備が行われている。

ハナコのコントのおいて、その虚構性を支えているものとして第一にあげられるのは、コント台本自体だろう。シュールで独特な世界観は、ちゃんとその世界の中で言葉が閉じている感じがした。また、身体の使い方も素晴らしかったと思う。最初に走り出すシーンは本当に走っているかのようにシンクロしていたし、その後も身体の使い方に迷いがなかった。ただ、流れるように彼らは演技をしていた。それが、僕たちをこことは全く別世界の、彼らのコント空間へと連れて行くことに成功した。

コントや演劇であれば、この虚構の強度は身体の使い方に現れると思うが、小説などの文芸作品だと、いわゆる「文体」と呼ばれるものに表出するのではないだろうか。もちろん、物語の内容に最もそれがよく出るのだけど、あくまでそこはクリアしていて、その物語を支える要素として、文体が重要だと考える。

なんてことを僕はこれまであまり意識してこなかったのだけど、次に自分で作品をつくるとき、あるいは他の人の作品を手直しする機会がある場合は、ちょと気にしてみたいなと思う。

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