回る世界で僕らは踊る

落とすと鳴る不思議な世界
見ていられるのと愛でられるのと
今日も回る

お久しぶりです。長らく更新をしていませんでした。
多分これを書いた後もまた坊主になってしまうんだろうな、とか考えたり。

音楽を作り、それを生活の一部として生業としてからいくつか経ったけれど、手を出していない音楽の領域があった。
なんとなく高尚なものなのかな、とか
手入れや敷居が高そうだな、とか。
しまいにはそんなんで音なんか変わらないだろうよ、とか。

出会いと体験は少し遡りちょうど一年前。
知り合いの紹介で雑誌「音楽現代」のレビューを書いている年上の方を紹介して頂いた。
その方はその後もご縁があるのは別の話。
その方の仕事場の一部は音楽鑑賞をする部屋にもなっていて、大きなポール型のスピーカーに、防音設備。
そして未だかつて聞いたことのなかったレコードがあった。

黒い(中には黒くないのもあったが)円盤を回るテーブルに乗せ、針を落とす。引っ掻いた音を様々な機会で増幅させスピーカーから射出する。
要は引っ掻いた音を大きくして聴く、それだけのなんとも古典的な、アナログなものなんだろうかとその時は感じた。

今までやれハイレゾだこのスピーカーはうん万円するものだなんて感じで曲を作り、音の研究をし、少しは耳が肥え、勉強してきた方だと思っていた。
その日、伺った方が荒井由美の「翳り行く部屋」のレコードを持っていたため、是非聞かせて欲しいと言ったところ、快く聞かせてくれた。
それがこの世界への第一歩だった。

今まで聞いてたのとは違う音像。
その場にいるかのような声と音。
何より、ただ音が大きいだけではない、実体がそこにはあった。

その音楽を聞いた時、ステレオイメージャーなどで広げた音が如何に嘘の空間かと言うのを突きつけられた気がした。
それだけこの原体験は衝撃だった。

後日このことを彼女に伝えると、彼女も興味を持ち、もう一度遊びにおいでと快く迎えていただけたので、今度は彼女がプレーヤーを買ったら聞くために買ってあったレコードを2枚ほど持って行って聞くことにした。
その音はmp3やストリーミングでは全く違う0Hzからの音が全て聞こえた気がした。

それからというもの、どうしても好きなアルバムをポツポツとレコードで揃えていくことにしていった。
ただし、最初に買ったのは自身のルーツ
「UNDERWORLD」の「1992-2002」。
この一曲目の「big mouth」という曲でダンスミュージックを知り今の制作に繋がっている、言わば血液のような音楽がある。
(もし良ければストリーミングでも聴けるので聞いてほしい)
ただしこのアルバムが厄介で日本だと何故かプレミアがついてしまっている。
海外の方がたまたま掲示板で譲ってくれることが書いてあり、大変良心的な価格で譲って頂けた。
ここからレコードを買っていくこととなる。

そして一昨日、ついにプレーヤーが我が家に届いた。

最初に聞いたのは「the Beatles」のホワイトアルバム。
当時、レコードしかなかった時代の音楽をレコードでちゃんと聞くことの意味を見出したかった。

その後もJack JohnsonやCornelius、もちろんUNDERWORLDも聴いた。
最新の音楽のレコードについても聴いたがこの経験、体験は何にも変えられないものがあるんだなと感慨深かった。

何が違うのか。最近のデジタル制作での音楽にはもちろんノイズなんてのらない。それをレコードにプレスするのだからもちろんレコードにも始まりの「サーッ」という音なんか入らない。そこには今まで聞いていたのと全く同じ「音」が聞こえてくる。
ただそこには音のダイナミクスが確かにあった。
CDやデータにはある0クリッピング。ピークが来ると音が歪んでしまい、ノイズとなる。
ただしアナログにはそのクリッピングが基本的にはできない。音量を上げようとするなら深く溝を彫って(レコードでは切ると言うらしいが…)いけば音量は自ずと大きくなるのだから。
その分大きい音と小さい音をうまく共存させ、平面ではない、3Dの音像を作っていくことに集中が出来る。

昨今、終わったと言われる音圧戦争。
ただそれは「ラウドネス」と言う別の言葉にただ置きかわっただけのような気がしてならない。
そう言う「冷戦」から目を覚まさせてもらえたような気がする。

忘れかけていた「音」そのものの一音一音を大切に積み上げていくことの本当の価値を思い出させてくれた気がする。

今後もすごく良いと思ったアルバムを少しずつ揃えていきたい。

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