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サコさんとともこさん対談〈その1〉

先日、といってももう2か月近く前になってしまったのですが、京都精華大学のウスビ・サコ学長と去る6月16日に対談させて頂きました!
これまで、何度かサコさんのインタビュー記事や映像を拝見して、共感することが多く、またマリ共和国、アフリカ、フランス、中国、京都/日本といった様々な文化圏でのご経験を背景に、とてもクリアな目で日本や世界を見つめておられて、大きな刺激を受けています。
ずっとお話を伺いたいと思っていたところ、貴重なご縁を頂いてついにオンラインでお目にかかることができました。

『コロナと教育』『民主主義と政治』『SDGsと世界と未来』という大きく3つのテーマで対話をしたので、3回シリーズでお話の内容をみなさんとシェアしたいと思います。

※この対談は6月16日に行われました。

【第一部:コロナと教育】

日本とデンマーク コロナとの向き合い方

ニールセン北村朋子:こんにちは。初めまして ニールセン 北村朋子と申します。よろしくお願いします。

ウスビ・サコ:よろしくおねがいします。サコです。

ニールセン:今日はお忙しいところありがとうございます。ほぼ同じ年齢なので、ちょっと親しみを感じてます(笑)

サコ:ありがとうございます。

ニールセン:今、日本でもコロナがだいぶ落ち着いてきたと思うんですけども、どんな感じですか?
日本の状況を友達に聞いたら、もう満員電車も元に戻っているし みんな会社に普通に行っていると東京の友達から聞いたんですけど。

サコ:ちょっと日本はおかしいくらい、みなさん、コロナがなかったかのように動いてしまってるから、ちょっと危ないなと感じています。
やっぱりみなさん、多少ビビってはいますが、家でずっと仕事したり、家にいて家族とゆっくり時間を過ごすことには、たぶんあまり慣れてなくて、抵抗感があったんじゃないかなと思うんですよね。そういう意味で、やっぱり外に行きたいとか、逃げたい気持ちがあるんでしょうね。

日常に二面性を持たせたいというのもあるのでしょう。家の顔と、仕事の顔。コロナのときには自粛生活だったので、一つの顔しか持てなくて、みなさんそれを嫌っていたのではないかと思います。

ニールセン:サコさんのAERAの記事にもありましたが、私も、友人と話していたら、時間が食事と子供たちのためだけになっちゃうという文句みたいな感じになっててそのあたりは結構、デンマークの雰囲気とは違うなと感じました。

サコ:そうなんですよ。

ニールセン:デンマークの場合は、それぞれ大変ではあるんですけど、同時にそれを楽しんでいるようなところもありました。学校で授業できないんだったら、じゃあ家で科学の実験だ!パンを天然酵母から作って焼くぞ!という感じで。まぁこれまでできなかったことができるいい機会と受け止めていた人は比較的多いと感じたんです。

サコ:家で子どもがゆっくり過ごしたり、子供が学校に行かないから学力が落ちるって言っている人がいたけど、そんなことはないですよね。学校に行かなかった分、家で一緒にいろんなことをやったらいいし、2週間の休みなどそうあることではないので、思い存分楽しめばいいし、その間で親子の距離を縮めたらいいのにと思うんです。でもみなさんは、あまりそういう状況に慣れてなくて、義務感だけが発生していて、きっちりと三食つくって食べることにも縛られていて。まあ 一食は親が作って、一食はゆっくりみんなで作ったりして、あるいは別のもので代替えしたらいいと思うけど、みなさん食事に対して、なんやろ、結構神経質に作ってるんですよね。そうすると作る方も食べる方も結構大変じゃないでしょうか。

ニールセン:どこかにお手本みたいなもの求めているかもしれないですよね。家でのごはんはこうあるべき、それができないとダメ親みたいな感じで。

サコ:そうなんですよ。日本人はお互いに厳しくて、ある意味フレーム化されてるから、食事イコール味噌汁が出て何々か出て、というのでないとダメだとかね。そんなことないと思うんですよね。それぞれ、毎日ほかにもやらなきゃいけないこともあるわけだし。さっきおっしゃっていたように、みんながきっちり三食作らなきゃいけないってことなってくると、みんな身体がもたないと思うんですよ。もっと 臨機応変にやればいいのにと思うんですが、日本のみなさんはなかなかそうできないみたいですね。

日本とデンマーク 教育について

ニールセン:教育にについて話したいのですが、私がちょうど小学校の高学年になった頃に、日本は 塾がだんだん出てきて、私が小学校の5年生くらいの時、クラスに45人いるうちの5人とか7人ぐらいが塾に行き始めたんです。そこからどんどん塾に行く子が増えていって、塾に行くのが当たり前みたいになっていたんです。
でも公教育は税金でまかなわれていて、国が子供たちを育てるために教育する場所だから、そこで必要なものが得られないのは、なんだか詐欺みたいに感じるし、塾に行かせないといけないような教育しか国が提供できないのはやっぱりおかしいと思うんです。

デンマークで子育てしてみたいと思ったのは、塾のような考え方がないということも大きかった。それに、子供が子供でいられる時間がきちんと守られていて、それがいいなと思ったんです。
デンマークの場合は、親が育てるというよりも社会で育てるっていう感覚ですし、子供はとにかく遊ばせて、遊びからいろんなことを毎日吸収しなさい、むしろ勉強はもっと大きくなってからでいいんだっていう感じなので、逆に子供たちの方が早く大きくなって勉強したいって思わせる雰囲気があります。

日本の場合、やはり格差があると感じます。塾に行ける人と行けない人が出てきてしまうという。この日本の現状を、どうご覧になっていますか?

サコ:そうですね、日本は目に見えない競争の原理がありますね。成績もオープンにせず、それぞれ生徒や親を呼んで見せたりして、表面的にはちゃんとひとりひとりを大切にして気にかけてるように言いますが、でも成績を子供に渡す時に、「あなたはこことここが弱いよね」っていう風に言うんです。

本来は、教科書どおりに勉強をやっていればみんなそれなりに学べるのだろうけど、子供によって吸収するスピードが違ったりするので、他のできる子はたぶん、塾に行ってるからできているんじゃないかというような話になってしまって、結局、次に先生にここが弱いと指摘されないように塾に行こうとか、親もやっぱり塾が大事だというようになってしまう。

先生の成績評価や成績の伝え方も、そういう状況を引き起こしてしまう原因になっている可能性が高いと思うんですよね。「おお、いいじゃない!」とか「もうちょっとこういうところを頑張れ!」とか、あるいは「将来何になりたいの?」とか、いろんな話し方ができると思うんですよ。でもやっぱり先生は一方的に、「あなたはちょっと国語と数学ができてない、だから今度は頑張ってね」って言うけど、じゃあどうやって頑張ったらいいのかについては示してくれない。その答えを出してくれるのが塾になってしまっているんですよね。だからみなさん、塾に行ってしまうんです。

基礎教育というのは、おっしゃるように基本的には国民を育成するためのひとつのベーシックアイテムだと思うんだけど、でもその国民に対する期待っていうのはどういうものなのかなというのもありますし、国民を育てるため学校がちゃんと平等にみなさんを扱わないといけない。表面的には平等のように見えるのですが、でもいろいろな場面で大人が使う言葉を子供は敏感に感じ取って、やっぱりそこから感じる不足分を学校の外で補おうとしてしまうのではないかと思います。

ニールセン:なるほど。確かに教育で何を教えるかということについて思うのは、デンマークは国が今どういう状態で、将来的にどうありたいかっていうビジョンが比較的はっきりしていて、その国のあり方や、デンマーク人ってなんぞやっていうことを常に政治でも民間でも学校でも議論をしていますね。移民も入ってきますから、アイデンティティを問うという意味合いもあるのかもしれません。

一例として、デンマークは2050年までに化石燃料から完全に脱却するというエネルギー政策ビジョンがあります。
また、義務教育での英語教育のビジョンを教育省に聞いたら、デンマークはこういう小さい国だけれども、比較的海外からも信用してもらえるような国づくりをしているから、国際関係で大国が面と向かって言えないような場面で本音を引き出すファシリテーターの役割をデンマーク人はたぶん担える。現時点で世界共通言語となっている英語をきちんと話せれば、間に入っていろんなやり取りを引き出せるだろうし、そのためにはクイーンズイングリッシュがきれいに喋れることや、シェイクスピアがわかることだけが重要ではなくて、アフリカ英語もインド英語も南米英語も全部わかるのが理想、だから、そういう英語を使った経験のある人に先生になってほしいという話をしていたんですよ。

つまり、国がどうありたいかをちゃんと教育に落とし込んで、それを実際に教室で子どもたちにも、「君たちは将来こういう可能性がある。だから英語を学ぶんだよ」と伝えているんですよね。
      
一方、日本は近年、あまりどうなりたいかというビジョンも明確でなく、だから教育になかなか反映されないということなのかなと感じています。

サコ:たぶん日本はビジョンはあるにはあるんですよ。例えば、21世紀に生きる日本人とは何か、みたいな立派な文章が、文科省からはたくさん示されています。長いですけどね(笑)。学習指導要領も作られて、その下にカリキュラムや教科書も全部決められているけど、おっしゃるように、じゃあみんなでそれについてもう一度考えてみましょうとか、それをシェアしましょうとか、子供たちが、何で自分たちが数学をこれくらいの時間で、歴史はこれくらいの時間で、英語はこれくらいの時間で学びましょうとなっているかはわからないんですよね。だから子供たちは、学校に行けば学校が全部それを管理してやってくれると考える。でも実はそれは学校の問題ではなくて、自分たちの将来の問題なので、例えば自分がもっと別の未来を描いてるんだったら違う学びを追加することもできるんでしょうけれど、コミュニケーションが足りてないんですよね。学校は文科省からおりてきた指導要領を一所懸命、何があろうが、台風が来ようが、コロナが来ようが守ろうとするわけですよ。でも、子どもたちに、なぜこのように教育がつくられているかとか、これを学んだあなたたちは将来どうなっていくのかとか、どういう世界に生きていくのか、ということは教えてくれないんです。 そうすると、ちゃんとした教育を受けたい人たちは塾に行ったりする。

最近は塾でもフィンランドとかデンマークとかノルウェーの教育を参考にしているところもあります。また、英語教室も増えていて、そこでは結構インド人を雇ったりアフリカ人を雇ったりしてるんですよね。でも学校ではダメなんだよね。学校では教科書通りに英語を発音せなあかん、と教えられる。つまり、柔軟性にかけているということだと思います。それと、コミュニケーション不足なんだよね。だからどういう日本人になることをイメージしているかっていうことをちゃんと教える、しっかりと伝えるということが肝心なんです。途中で方向性の修正があった時もちゃんとコミュニケーションを取るということが大事だと思うんです。それがないから、みなさんは言われたままに動いて、言われたままに嫌いな勉強もする。でも、勉強の本当の目的がわかれば、勉強をもっと楽しく感じるかもしれないんだよね。でもその説明がないので、イヤイヤやってる。そうすると、全く頭に残らないし、全く実にならないんですよね。

ニールセン:たしかにそうですね。私も今年18歳になる息子がいるんですが、義務教育の間もずっと英語はとても得意ですが数学はすごく苦手で、でも、先生に一度も「数学もうちょっと何とかしろ」と言われたことがないんです。

デンマークはさすがレゴの国なので、世の中も人間もレゴみたいなもので、英語が突出してできる人もいれば 数学かすごくできる人もいて逆にいろんなものができない人もいて、凸凹になっている。だから、自分が将来やりたいことがでてきたら、自分が苦手な部分はそれが得意な人と一緒にくっついて補うようにすればいいんだよ、好きなこと、得意なことをどんどん伸ばしていけば必ず君は必要とされるから、好きなことをとにかく一所懸命頑張って、まあ他の苦手な分野は得意な友達に聞いたり、落第しない程度にやってればいいからっていう感じなんです。
逆に、みんな平均点になっちゃうと全員表面がツルツルだから誰ともくっつけなくて結構つまんないと思うよって、先生が言うんですよね。子どもたちも自分が得意なことがあるっていうことをすごく誇りに思っていて、苦手なこともちょっと恥ずかしかったりはするけれども、でも、自分には得意なものがあるからっていう感覚を持てている気はしますね。

サコ:それなら安心感はどこかで得られてますよね。
ぼくは日本でもそういう風にすればいいと思うんですよね。でも、先生はそういうことを子供に素直に言えないし、子供にとっても、苦手科目があるのを認めることが、自分が弱いっていうことを認めてしまったということにもつながるから、苦手を克服するために一所懸命やりますっていう約束事になっちゃうんですよね。たぶん、どうやって得意なものを伸ばしていくかっていう方法を持てていない。平均的な人間を作ろうとしているようですが、実際には平均的な人間なんていないんですよね。全員、同じようにある程度のレベルまで上がらないといけないと考えるところに、大きな問題があると思います。

ニールセン:こちらで教員養成大学の先生と話した時に、日本やフィンランドはそうですけど、PISAっていうテストに重きをおいたりしていますよね。デンマークも一時期、議論があったんですけども、結局今はそれほど神経質にはなっていません。その理由を、アーチェリーの的を例えに説明してくれたんです。

PISAの正解というのは、的で言うところの真ん中の赤丸で、ここだけが正解。けれど、デンマーク的には当たればこの的すべてが正解で、もしかしてこの真ん中の赤丸には当たっていないかもしれないけれど、この的の端っこに当たってることが、10年後の正解や常識かもしれない、それがイノベーションの卵なのかもしれないから、赤丸以外を不正解にしてはいけないんだという議論をしていたんです。それがとてもおもしろいなと思ったんですよね。そういうことが許容できるからこそ、小さいながらもおもしろいことができる国になってるんだなと感じています。

日本でも、たぶんこの的のいろんな場所に当てられる子供はたくさんいると思うんですね。だからそれもなんとか正解にしてあげたいなって思うんです。

サコ:そういう意味でもっと広く評価してあげたり認めてあげたりしたらいいんじゃないかなと思うんですよね。今それができていないから、結局、平均的な人間にどうやって自分もなるのかというところに陥ってしまうんでしょうね。

私は昔、中学生にサッカーを教えていた時、ミニゲームばかりしてたんですよね。すると、親からクレームが出て、ミニゲームではなくてもうちょっと基礎をやれと。でも、得意な子もそうでない子もいるんです。なんでもかんでも平均的にできるんじゃなくて、いろんなメリハリがあるからチームになれるんです。「チームでみんな同じことができるなら、みんな同じポジションやって終わりやん!」って説明したんですけどね(笑)。日本の親はまあそういうところがありますね。

一般教養はなぜ必要なのか

ニールセン:あともう一つ気になっているのが、日本の教育は大学も含め、哲学とか人文科学とか近代史をあまりやっていないなと思っていたのですが、デンマークに来てここでは全く逆だって気づいたんです。こちらではすごく大事だから力を入れています。日本の傾向についてどうご覧になっていますか?

サコ:日本の学校の産業化じゃないけど、産業界と学校の距離っていうのはけっこう今、近くなってるんですよね。学校出た人は就職するという前提で。だいたい今どの大学に聞いても、95%とか98%の就職率なんです。だから、それぞれの人が望む望まざるに関わらず、労働市場に人材を売り込むというところが大学の重要なポイントになっている。

一般教養っていうのはすぐに効果が出ない、もしくは出るとは限らないし、ひょっとしたら全く出ないかもしれない。でもその人にとっての人間形成の過程で非常に重要だったりするわけですよね。だから、文科省の言うことを聞くのか、いやちょっと待って、一般教養はやっぱり大事なんだからとやるかどうかですね。
      
私の大学では数年前から哲学を必修に入れたんです。1年生は必ず 哲学をやる。これは非常に重要で、それと、言葉をやるんですね。やっぱり自分の言葉をつくっていかなきゃいけない。自分のヴォイスを持たなきゃいけない。日本の小中高の教育は、他人の言葉を使って自分を表現しようとするわけですよね。そうすると、合わないんですよ。苦しいし。

でもやっぱり自分にも実は言葉があるんだっていうのを発見することを、今うちの大学では1年生でやっていて、ダイアログをするんです。最初は「Who am I? 私は誰?」ってところからはじめるんです。けっこう、みんな考えたことないんだけどね。でも、いきなり「あんたは誰だ?」っていうことを考え始めたら、すごくいろんなものが出てくるんだよね。それを他の人に伝えてみるっていうところで、言葉の大切さとか、どういう表現で他の人に伝えるかということが見えてくるんです。もしかしたら、詩で自分のそういうことを伝えたほうがいいかもしれないし、もしかしたら歌詞がいいかもしれないし、和歌がいいかもしれない。そういう風に言葉の多様性と自分に合う言葉、自分がどういう言葉を使っていくかというところも見えてくるんです。

私は、この社会を形成していった背景には近代史というものがとても重要な役割を果たしていて、私の大学では美術とか文学とか歴史とか、いろいろなことを教えているので、近代思想史も教えるわけです。こういったものを組み合わせて、京都精華大学に入った学生全員が、共通教育という形でそれを学んでいます。

問題は学生ではなく教員の方で、日本の哲学の先生も、哲学の歴史はちゃんと把握しているけど、哲学について自分なりに語れるかというと、そうでもないんです。先生にヴォイスがないということが、実は問題なんですよね。

これについては、私たちにも長年議論してきた背景があるんですけど、今やっとそういう教え方ができる哲学の先生を雇ったり、世界思想史の先生を雇ったりできるようになったんです。

でも、ここで難しいのは、文科省はこういう部分で大学を評価するのではなく、大学を出る時にきちんと出口を通る準備ができているかどうか(就職率)で判断することなんです。それによって、助成金が維持できるかできないかってことも決まってくるので、今の日本社会にとってやはり重要なのは、本当にこの人が「社会人(就職する人)」になれるかということなんですよね。これ自体はかなり、近代の、どちらかといえばエゴのようなものかなと思うんです。生産者しか世の中にはいらない、つくらない、生産者しか人間の価値がない。これはどちらかと言うと、今の市場原理なんですよね。だから、我々はマーケットバリューは求められているけれど、ヒューマンバリューは求められていないんです。これからはどうやってヒューマンバリューをもっと大切にしていくかが重要だと私は思っています。

ニールセン:確かにそうですね。市場経済、市場原理主義がもう終わりになってきているのに、今もそこを求めて人づくりをしていくのは、やっぱり今の時代や社会のしくみには合っていないと思います。日本の場合も若い人の人口がどんどん減っていく中で生産性だけを追い求めていっても、世界的にも今そういうバリューではなくなって、サコさんがおっしゃるようなヒューマンバリューという観点に変わってきていますよね。

私も今お話を伺っていて鳥肌が立ったんですけど、言葉ということに関しては、ここ数年日本の大学生とワークショップやセッションをやることが多くて考える

ところがあったんです。母国語である日本語に不自由を感じるという人がすごく多くて。自分をどう表現していいかもわからないし、自分自身が何者かもわからないし、自分の意見なんて聞かれていないと言われてずっと授業を受けてきたから、いきなり「あなたって誰ですか?」って言われても困ると。

サコ:それはありますね。

ニールセン:自分を殺してずっと授業を受けるように言われてきたから、いきなり大学に入ったり社会に出たりで「何者ですか?」って聞かれても言葉に詰まる(笑)。

サコ:困りますよね(笑)。

ニールセン:私は、日本にいた時、最後の5年間は映像翻訳家をやっていたんですけど、 映像翻訳って、元々の言語から日本語に訳していく上で、 英語や元の言語が分かることも大事なんですが、やっぱり、日本語でいかに情報の受け取り手に伝わるかということの方が大事だから、むしろ、日本語をすごく勉強する機会になったんです。日本語っていろんな表現の仕方があるので、自分にしっくりくる言葉をじっくり時間をかけて選ぶ事ってすごく大事なんだなってその時に感じたんです。

ちょうどそういうことを考える「手習い塾」っていうのを来週からやるんです。母国語である日本語を今更?ってきっとみんな思っているけども、日本語と向き合ったり辞書を引いてみたり、類語を調べてみたり、同じ意味合いでもどんな言葉があるのかとかを考える機会にしようと思っています。また、自分の考えを醸成していくためには、いろいろなものを読んだり、情報に触れたりしないといけないけれど、日本の場合はメディアリテラシーも情報リテラシーもあまり勉強しないので、そういうことも取り上げようと思っているんです。だから、京都精華大学の言葉の授業に私、とても興味があります。今度京都に行ったら、ぜひ授業を見てみたいです。

サコ:ぜひぜひ。言葉演習という授業をやっています。

言葉は大事ですよね。普段、日本ではあまり自分と向き合ったり、自分に語りかけるということがないということでしょうね。他人にも、あなたの人格とまではいかなくても、自分について尋ねたことがないから、それをずっと避ける人生を送ってるわけですよね。でも実は、自分と向き合うというのはとても重要だと思うんですね。私たちは言葉を学んで、言葉の運用能力を身につけて、それを使って自分はどうしたいのかをよく考えたらいいですよね。

ニールセン:Twitterとか、日本のメディアの問題だと思うんですけど、一言で言語化できないことをすごく悩んで若い世代も多いと実感しているんです。別に一言でまとめられなくてもいいし、文章にできないなら、先程サコさんがおっしゃったように和歌とか詩とか歌でもいいし、絵とかコラージュとか写真とかで伝えてもいいと思うんです。それと、まとめるのは別にポストイットじゃなくていいんだよ っていつも話すのですが(笑)。なにか考えを出してまとめてくださいっていうと、必ず模造紙とポストイット持ってきて作業を始めるんです。その(模造紙とポストイットっていう)アイデアはどこから来るの?っていつも聞くんです。

すごく歌が得意だっていう子がいたりするから、「じゃあ作詞作曲してそれで表現してみて」ってお願いすると、「え!?いいんですかそれで?」みたいな反応があります。それまでは、とにかく一言にまとめて、しかもその言葉にインパクトがないといけないと思い込んでいるから、それが探せない自分はあまり価値がないぐらいにとても 自分を卑下していたりするんです。こんな自分なので、何をしている時が楽しいのかも分からないんですっていう人にたくさん出会ってきました。

サコ:そうだね、そういうトレーニングを受けてないからね。これからもっとコミュニケーションが大事になりますよね。

私も以前書いたんですけど、日本人のおもしろいところは、目に見えないことに一所懸命なんですよ。たぶん職人気質だと思うんですけどね。手を抜かない。だから職人としては本当に100%やるんです。でも 職人なので無口で説明しなくても、使ってみたら価値がわかるだろうというところが重要視されてきた。だから日本のいいものというのは、日本が得意気に売るのではなくて、他の人がそれを見て、これすごいいいよねって言ってくれて売ってくれた時代がずっと続いていたんですよね。だから まあある意味、商売は上手ではないのだと思うんです。

でもこれからのグローバル化時代の中では、ちゃんと説明できなきゃいけない。私はこういうものが欲しい、こういうことがしたい、こういう視点を持っている、こういうヴィジョンを持っているということをしっかりと言わなきゃいけないと思うし、相手に伝わらないと意味がないので、このあたりがこれからとても重要になってくると思うんですよね。

私は、若い人たちには、きちんとやるのも大事だけど、ちゃんと相手に物事を説明して伝わるというのも大事だよと言いたい。現状は、なんかモノ自体は結構手が込んでいて、説明は曖昧で、でも、モノを見たらすごい価値が分かるみたいな。そういうんじゃないんですよね。そこをちゃんと、よく考えないといけないなって思うんです。

ニールセン:そうですね。デンマークでも今の日本についてあまり知らないんですよ。情報が古くて、英語で今の日本を伝えるソースがないからだと思うのですが。国営放送に聞かれることでさえ、時には、いやそれはもう何十年も前の話だから、とかいうことがあります。彼らの情報収集能力の問題もありますが、日本からの情報発信がなさすぎるということも原因になっていると思うんです。

サコ:日本はやっぱり自分を説明したり、自分を売り込むのがちょっと下手だったけど、今からやっぱり変わっていかないといけないっていう認識はたぶん持ち始めていると思いますね。ただ、その情報発信の担い手があまりいないんです。
なぜかというと、カリキュラムの構造がそのようにできていないからです。例えば小学校、中学校ぐらいからとてもプレゼンテーションが上手な人がいるとか、あんまりそういう状況ではないんですよね。適当にやって、あまりうまくはないけど、まぁいっか!みたいな感じでお茶を濁してきた感じがします。

でも、この、言葉とか伝えるとかそういうものがいかに大切かっていうことをやっぱり理解する必要があると思うんですね。

ニールセン:そうですね。デンマークでもびっくりされたのが、コロナになって、リモートワークとかオンライン授業について日本では苦労していると報道されていることです。今でもデンマーク人は日本をIT先進国だと思っていますから、「え!?そんなはずないでしょ!?日本はIT先進国なのにどうして!?」となるんです。

サコ:そうですね。私たちも、学生のみなさんは一人もしくは一家に一台コンピューターがあるだろうとか、通信ディバイスは持ってるんじゃないかと思っていたのですが、蓋を開けてみたら実は結構タブレットがないとかwifiが引かれてないというのがわかって。本来、家でも必要なことを、みんな職場や学校に頼っていたんですよね。これからはコミュニケーションの手段も変わってくるし、通信のためのツールやインフラは必要になってきますよね。


【第二部:民主主義と政治】は明日アップしますのでお楽しみに!



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