見出し画像

第7回:ママ友との付き合いにマニュアルはあるのか 〜 マウンティングと口伝(くでん)の権力構造

マダムです。

「国産小麦使用」って書いてあるうどん。
国産の定義ってなんでしょう?
種は輸入でも日本で育てれば国産?
「使用」の定義は?重さ?割合?
国産小麦と輸入小麦で栄養素の違いは?
成分分析に有意な差があるの?

・・・といったことを承知の上で買っていく人も中にはいるけれども、大半の人は「安全そう」というイメージだけで買っていく。
「国産」という言葉は平成に入ってからブランドとして確立しましたね。

負のイメージを刷り込まれた言葉には容疑者として鼻から疑ってかかり、良いイメージを刷り込まれた言葉には油断だらけになる、水戸黄門みたいな日本人の思考回路。

その中で「子育て」という言葉のイメージって、どうなんでしょう。

「国産」に比べて「子育て」という言葉が厄介なのは、美化された記憶で上書きされていくからです。
ほとんど子育てに関わらなかったおじさんたちでさえ、自分の子どもが無事成人すれば結果論を振りかざして「男親が口を出さない方がいい」「誰でもできる」「簡単」と言い切り、今のお母さんたちに対しては「わがまま」「権利主張しすぎ」「大げさ」等々、簡単に上から目線で批判します。

これ、どうにも納得いかないんですが。

子育てという言葉の定義が含まれるものの範囲が、食い違っていませんか?

例えば「習い事」。
近所でピアノ教えている知り合いの家へ、放課後、子ども一人で通えた時代と違って、
リスクだらけの昨今、母が仕事のない土日に大手のピアノ教室まで車で送り、レッスン中の時間を近くでつぶして、待ち時間に下の子に食べさせるものを用意する事前の手間やちょっとずつ出ていくお金、お迎えして帰ってきたら半日消えて、昼ごはんの支度に追われ・・・

親の負担が時間の面でも金銭的にも精神的にも、比較にならないほど大きくなってしまいました。

そんなお稽古事の愚痴を実家の母親にうっかり漏らすと「私も大変だったけど、なんとかなったわよ、大丈夫」なんて言われてイラっとしたり。
お稽古ごとという言葉に対するイメージの違いが、「私のつらさがあなたに分かるわけがない」といういらだちを生み出してしまっているように感じます。

ましてや小さい子どもの習い事と違い、大学受験などの教育の投資効果は、そもそもゴールが人によって違ったり不明確だったりするので、測定なんてほぼできません。

しかも時代が変わるにつれゴールポストはどんどん動きます。
個性を大切に、とか、やはりある程度の学力は必要とか、指導要領でさえ見直され、変わっていきます。

**一方で、親の自己満足と割り切るには難しいほどの金額が教育に必要とされるようになりました。 **
1970年から2017年の間に子ども一人にかかる1年間の教育費は(単純平均で)2.4万から37.1万へ増えています。

有利な人生を選べる確率を高いレベルで維持するための保険として教育を捉えると、子どもの落ち着き先が許容範囲内であれば、効果ありとみなして妥協するしかないので、明らかな投資失敗例をあまり見聞きすることなく、価値観が違えば評価も違い、結果、みんなが右往左往している有様です。

習い事も昭和の頃に比べると本格化し過ぎた感があります。
立派なホールで盛大に行われる発表会の様子は、投資家である親たちへの株主総会のようでもあり、我が子の晴れ舞台に涙ぐみ、写真屋ビデオ撮影に必死になる親へのファンサービスのイベントのようでもあります。
上手くなりたくて習っているのか、親の側の自己満足と思い出作りのために習わせているのか、もはやわからないカオスです。このヒステリックさはおそらく昔とかなり変化した部分だと思われます。

休日の練習に持たせるお弁当作りや試合の応援、筋肉をつけるための食事指導、遠征費用。親の応援はつっこんだ金額と時間に応じて狂気じみた熱を帯び、勉強にせよスポーツにせよ、成功させたくて必死なのは親の方、という光景がありふれたものになっています。

これらを馬鹿馬鹿しくて贅沢なオプションととるか、時代の必要に迫られての選択とみるかは置いといて、

はたしてお金や時間だけが今の子育ての大変さの源なのでしょうか。

おそらく違う。


いちばんの大変さは精神的な面での追い込まれようだと思います。

何をするにしても目に見えない細かなルールがたくさん隠されていること、つまり、相手が重要な情報を握っていて、こちらは従わざるを得ない構造こそが今の子育ての閉塞感の正体です。

情報の非対称性は、疑心暗鬼にすることで個人を分断し、精神的にお互いを縛りあい、情報を握る組織上部への忠誠を誓わせる仕組みを支える根幹です。

例えばバレエを習わせる。レッスンへは当然送迎。一回家に帰る時間がない。そんな親同士がファミレスでお茶することになる。いわゆるママ友会話。お金もかかる。下の子はドリンクバーでお腹がいっぱいになって晩ごはんをだらだら残す。でも、この輪に入っていないと、発表会の衣装の細かい手縫い作業や、シニョンの上手なまとめ方や、先輩ママや先生がたの情報が入ってこない。親同士でダラダラ話す間待つ子ども同士は自然と仲良くなっていく。嫌でもこの輪に残っていないと、クリスマス会のプレゼント交換の相場観もわからないし、結局なじめず習い事が続かない・・・

これは職場に置き換えても学校に置き換えてもほぼ同じで、休憩室でランチを一緒に食べてどうでもいい話に愛想よくうなずくのも、飲み会に付き合うのも、

**見えないルールがオフラインでしか公開されていないから。
**

これが息苦しさの源です。

オフィシャルな場で出てくる情報だけではうまくやっていけない、大きな決定的な大事な部分に欠けがあって、その欠けた部分は(無意識に)あえて言葉で表されていません。
その欠けを埋めるための情報を取りに行くためにはマウンティング儀式を通過しなければならないように仕組みができていて、その仕組みをみんなが容認しているのが現状です。
「口伝(くでん)」という言葉があるように、
肝心だけれど言葉にすれば簡単なその工程を、特定の人が専売特許にしてしまっているのです。

口伝は、いかん。

せめてnoteみたいに「ここから有料」と正々堂々通せんぼすればよろしい。

多様性を受け入れるとは、フェアに戦える仕組みを目に見える化する、ということでもあり、コミュニケーションを取ることと、スムーズに仕事がはかどることを分けない限り、少数派にとってフェアにはなりません。
仕事や学業については結果が出ていれば過程をとやかく言わない、同調を求めない、ということが仕事や学校における寛容さなのかな、と私は思います。

ここまで読んで下さってありがとう! 働きたい主婦が能力を活かせる仕事に就ける世の中に変わっていくよう、あなたの声を聞かせてください。