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スイミーとリーダーシップ(1)

スイミーのことは知ってるよね?

1963年に出版されたオランダ出身のアメリカの絵本作家レオ・レオニ作の絵本で、日本では谷川俊太郎が訳した正式な題名は『スイミー ― ちいさなかしこいさかなのはなし』と言うものだ。
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スイミー の あらすじ(Wikipedia:CC-BY-SA/ja

著作権:クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植

スイミーは小さな魚。仲間たちがみんな赤い魚だったのに、スイミーだけは真っ黒な小魚だった。しかし、泳ぎは仲間の誰よりも速かった。大きな海で暮らしていたスイミーと仲間たちだったが、大きなマグロに仲間を食べられてしまい、泳ぎが得意だったスイミーだけがなんとか助かる。

仲間を失ったスイミーはさまざまな海の生き物たちに出会いながら放浪するうちに、岩の陰に隠れてマグロに怯えながら暮らす仲間そっくりの赤い魚たちを見つける。スイミーは一緒に泳ごうと誘うのだが、マグロが怖いからと小魚たちは出てこない。

そこでスイミーは、マグロに食べられることなく自由に海を泳げるように、みんなで集まって大きな魚のふりをして泳ぐことを提案する。そしてスイミーは自分だけが黒い魚なので、自分が目になることを決意するのだった。かくして小魚たちはマグロを追い払い、岩陰に隠れることなく海をすいすい泳げるようになったのであった。
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絵本では、スイミーだけが真っ黒な小魚で、仲間は赤い魚だったのだが、お魚たちのイラストを使って説明したいので、ココで使う図版の中では、あえてスイミーは赤い小魚に、仲間は真っ黒な魚として取り扱うが、説明がややこしくなるので、スイミーは黒いお魚としてリーダーシップについて解説していくことをあらかじめご了承いただきたい。大人の事情なんだなとスルーして欲しい。

さて、「こんな短いあらすじだけではわからないよ、もっと前後関係を詳細に理解しないと」と思われるかも知れないが、子供向けの絵本なので、もう、これ以上の情報は無い。これをメタファーとしてリーダーシップについて考えてみよう。

スイミーはさけんだ 「みんな いっしょに およぐんだ。 うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」

さて、この時、スイミーのリーダーシップについて考えてみたい。

スイミーは、兄弟たちのすべてをマグロに食べられてしまった唯一逃げ延びた生き残りだ。もうスイミーを知る仲間はいなかったのだ。たまたま、岩陰にスイミーにそっくりの小さな魚の兄弟(と言ってもスイミーとは兄弟ではないはず)たちをみつけて、 初対面にもかかわらず「みんな いっしょに およぐんだ。 うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」と叫んだのだ。うん、なんだかリーダーシップを発揮しているように聞こえるじゃないか。

なぜ、小さな魚たちは、初対面のスイミーの言うことなんかを聞いたのだろう?

絵本だからか文字数の制限があって、そこの説明は割愛してあるのだろうから、そこは想像力で行間を埋めていきたい。いくよ。

リーダーシップを発揮したとは言え、スイミーの言うことを聞く義理も理由も何もなかったはずなのだ。スイミーには、彼らに対する影響力はなかったはずで、アクセプタンスも得られず、小さな魚たちに言うことを聞いてもらえる権限も権威もなかったはずなのだ。

この初めての出会いの時には、スイミーは小魚たちからはアクセプタンス(受け入れ度合い)を得ることができていなかったために、「岩陰から出よう」という最初の提案はむべもなく断られる。アクセプタンスは次回以降で詳しく解説するので、ここでは「アクセプタンスを得ることができなかった」=「受け入れてもらえなかった」とでも理解していただき先に進みたい。

いったい、スイミーと彼らの間には、なにがあったのだろうか?

ココであらすじから重要な情報が読み取れる。

岩の陰に隠れてマグロに怯えながら暮らす仲間そっくりの赤い魚たちを見つける。スイミーは一緒に泳ごうと誘うのだが、マグロが怖いからと小魚たちは出てこない。

赤い小魚たちは共通の問題(ペインポイント)を抱えていて、マグロに食べられてしまう不安におびえていたのだ。そしてスイミーは、彼らの不安に共感できる恐怖の体験の生き残りだったのだ。
「わかる、わかるよ、でも僕は生き延びたんだ、マグロに襲われたけどスイスイすばやく泳いで、へっちゃらだったよ」と言ったのかも知れない。たぶんね。

それでも赤い小魚たちの多くは「おまえは泳ぐのが速いから逃げ延びられるけど、僕らはおまえみたいにスイスイすばやく泳げないから、食べられちゃうよ」と不安に思ったままかも知れない。そう、今はまだスイミーのリーダーシップにはなんら権限も権威も付随していないので、誰もスイミーの言うことを聞く理由も義理も何もないのだ。アクセプタンスはゼロだ。ちょうどこの下の図のように皆にそっぽを向かれても仕方が無いのだ。(図では絵本とは赤と黒を逆にしてあります、赤い小魚がスイミーという設定、ややこしくてゴメンね)

どうだろうか、皆さんもご自分の組織の中で、これまでとは外部環境が大きく変わってしまい(ココではマグロが襲ってくる環境)、新しい環境に適応しなければ、生き延びることができないにもかかわらず、変化することを嫌い、現状維持にしがみつく上司や同僚はいないだろうか? そして、変革のリーダーシップを発揮しようと、変わることの必要性を訴えるあなたはいつの間にか孤立し四面楚歌になっている、と言う経験を今まさにお持ちではないだろうか?

赤い小魚達の中には、色は違うけどそっくりの小魚のスイミーに好印象を持ったのもいただろうし、一緒に海を自由に泳げたら素敵だなぁ、と共感したかも知れない。

そんなスイミーに期待をして、「スイミーと一緒なら大丈夫かも知れない」と思った魚もいるかも知れない。スイミーは自分の恐怖の体験を語り、共感を得ることで、だんだんと信頼を得ていったのかも知れない、いや、きっとそうなのだろう。そうに違いない。(と言う設定で、スイミーとリーダーシップについて語っていますので、深くは突っ込まないでね)


すると、下の図のようにだんだんスイミーの話に興味持って聴いてくれる仲間が増えてきた。もちろん一夜にして仲間が増えることはない、道のりは決して平坦ではなくきわめて険しいのだ。

この時にスイミーは、彼らの不安(ペインポイント)を払拭する提案をする。それが、「みんな いっしょに およぐんだ。 うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」と言う叫びだ。この提案に共感した小魚たちは、下の図のように、スイミーに信頼を寄せることになる。

スイミーが叫んだところの「みんな いっしょに およぐんだ。 うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」に従うのだとしたら、スイミーの兄弟達を残らず食べ尽くしたマグロがうようよする大海原へ、岩陰から飛び出すことになる。それは、自分の生殺与奪権を(自分自身の責任で自分の身を自分の命を守る今までの岩陰生活)、スイミーに権限を委譲して、すなわちスイミーに生殺与奪権を手渡して、スイミーの言うとおりに行動することを意味するのだ。それが以下の図になる。

この時はじめて、スイミーは何も持たない小魚だったのが、皆の行動管理と生殺与奪権という権限を委譲されて、委譲された権限が生み出した権力(=指揮命令権、この場合はどちらかといえば影響力=魚関係じゃなくて人間関係が生まれるのに近い、これは次回以降で詳細に解説します)を行使して、小魚全員の命を守るサービスを提供する必要が出てくる。それが以下の図だ。

スイミーが全員の命を守るというサービスを提供し続けられる限りは(誰もマグロに食べられない限りは)、スイミーは仲間から信頼されて、権限を委譲され続けることになる。この時はじめてスイミーに権威が発生することになる。人(魚たち)は権威を持つ人(スイミー)の助言を受け入れるようになる人間関係(この場合は魚関係)が構築される。

はじめは権威も権限も何も持たないスイミーのリーダーシップだったが、岩陰におびえる小魚たちに共感され、信頼を受けて、権限を委譲されたことで、小魚たちへの指揮命令権を持つようになる。代わりに彼らの命を守るという「みんな いっしょに およぐんだ。 うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」と言うサービスを提供することで、スイミーには権威が産まれたのだ。気をつけたいのは、皆から預かったせっかくの権限をずっと使わないままでは、以上した甲斐がなく、権威が失われていくし、また、権限を委譲してくれた人たちへ(魚たち)サービスを返さないで、他の用途に権限を流用してしまっても、やはり権威は失墜する。

スイミーはおしえた
「けっして はなればなれに ならない こと。 みんな もちばを まもる こと」

みんなが いっぴきの おおきな さかなみたいに およげるように なった ときに スイミーは いった。
「ぼくが めに なろう」

あさの つめたい みずの なかを ひるの かがやく ひかりの なかを みんなは およぎ、
おおきな さかなを おいだした

さて、ココで考えて欲しいのは、スイミーのリーダーシップは役職ではないと言うことだ。だれか偉い人(組織であれば経営陣や上司たち)から、権限を委譲されて、リーダーを拝命したのではなく、自ら買って出たことだ。いや、リーダーシップという方法論・手段を駆使した、と言って良いのかも知れない、それがココで話題にしたいリーダーシップなのだ。

この時のスイミーのリーダーシップには、自ら買って出た勝手なものなので、当然ながら何ら権限はなかった。だから権威も産まれない。もはやリーダーシップと権限と権威は切り離して考えて欲しい。実は全然別の物なのだ。

岩陰に隠れてマグロの不安におびえる小魚たちにしてみれば、スイミーなんか取るに足らない、まさしくちっぽけな存在でしかなかったはずだ。

だからスイミーが何を言おうとも、関係ない。こうしたことは皆さんが所属する組織でも同様に起きうることだ。経営陣から権限を委譲された部長であれば、その権限を駆使して、指揮命令を下し組織を動かすことができる。

しかし、スイミーのように何も権限も権威もないままで「生き延びるためには今までのように岩陰に隠れていてはダメだ」と説いて、「これからはマグロがいるのが当たり前という以前とはまったく違った環境の中でも生きていかなければいけないんだ」ことに共感してもらわなければならない。でも、権限も権威もないあなたの話を聞いてくれる人はそれほど多くない、あるいは全くいないかも知れない。

これはつまり(無理矢理に変革のリーダーシップと話をつなげてみると)、環境の変化(マグロがいるのが当たり前と言う環境)に適応できる自己変革能力(仲間と協力して行動様式を変えること)を獲得して、大きな魚のふりをするという知恵で生き延びる、という変革のリーダーシップそのものの比喩と捉えることができるのだ。

この過程を見る限りでは、リーダーシップは単なる手段なのだ。最初から権限や権威がついて回るわけではない。ココで、あらたにリーダーシップについての定義をしてみたい。

権威と権限からも切り離された「リーダーシップ」とは、


みんなの合意を得て、困難に立ち向かい、大勢の仲間を動かす手段である

(参照:ロナルド・ハイフェッツ教授〜NHKリーダーシップ白熱教室〜)

メンバーから信頼を得て、権限の委譲を受け、リーダーとして任命されて、その権限を駆使してサービスを提供することで、さらに信頼が高まり、リーダーシップを認められるようになり、初めてリーダーは権威を手に入れることになる。リーダーシップは役職ではないので、最初から権限も権威もついて回らないのだ、スイミーのように。

「じゃ、うちの部長の権限って、いったい何なの、何であんなに偉そうにしているの?」とお嘆きのあなたへ。

別にそんなあなたを慰めるつもりはサラサラありませんが、そんな話やアクセプタンスの詳細を次回以降のどこかに書きたいと思いますので、たくさんいいね!やスキやシェアをしていただくと書きたくなります(笑) よろしくね。

つづく↓

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