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「正常性バイアス」のこと

今回は「正常性バイアス」と呼ばれる,人間が災害時などに陥りやすいバイアスのことについて書いていく。メディアなどでもこの言葉が取り上げられることが増えてきた。防災について考えるにあたって,一つの有用な概念だからだろう。しかし,本稿ではあえて「正常性バイアス」を批判的に検討した論文をみながら,「正常性バイアス」議論の問題点にも触れてみたい。

まずは,ざっくりと概要を。

正常性バイアスとは何か

何らかの異常事態が起きた時,「これは正常の範囲内だ」と思い込んで平静を保とうとする心の働き
出典:災害時の「まさか」はなぜ起きるのか 正常性バイアスの恐ろしさ - Yahoo!ニュース

なぜ,人間は正常性バイアスを持つのか?

日々直面するさまざまな出来事。その全てに心を反応させていると,不安や恐怖を感じ過ぎ,神経が持たなくなる。そのため、ある程度の事象に対しては自らの経験などをもとに「これは正常の範囲内であり,特に反応する必要はない」との判断を下し,平静を保つ。このメカニズムが「正常性バイアス」である。
出典:災害時の「まさか」はなぜ起きるのか 正常性バイアスの恐ろしさ - Yahoo!ニュース

以上より,「正常性バイアス」は、人間が心の平静を保つために必要なものであるが、緊急時には,誤った判断をするリスクを高めるものと言える。

では,「正常性バイアス」による誤った判断を防ぐ(適切な避難をする)ためにはどうすれば良いのだろうか。

正常性バイアスの軽減のために

防災システム研究所の山村武彦所長は次のように指摘する。

「素直になれるかどうか,です。警報や周囲の注意喚起を,素直に受け入れることです。そのためにもまず,人間には正常性バイアスなどの心理的傾向があるということを知り,自分の中にもそれがあるのだと意識することが必要です。もう一つ重要なのは,自問自省することです。災害時だけでなく,日頃から『今自分はバイアスにとらわれていないだろうか』と意識することで,行動が変わってきます」
出典:災害時の「まさか」はなぜ起きるのか 正常性バイアスの恐ろしさ - Yahoo!ニュース

以上のように,山村氏は「正常性バイアス」を知り,自問自省することの重要性を指摘している。確かにその通りだとは思うが,災害時に慌てている状態でどこまで自問自省した行動がとれるかはわからない。普段,「私は大丈夫」と思っている人ほど,非常事態には動けないというケースもある。だからこそ「正常性バイアス」というバイアスの存在を前提として,避難計画を作っておくことは一つの有力な方法かもしれない。

一方で,「率先避難者」の存在の重要性を挙げているサイトがあった。

このような状況において被災地の住民がうまく逃げるためには「率先避難者」が重要になります。率先避難者とは災害時に自ら率先して危険を避ける行動を起こすことができる人です。率先避難者が避難することでその周りにいる人にも危険なのだと認識させることができ,結果として周囲の人たち全員が危機意識を持って避難することができます。
出典:正常性バイアス(正常化の偏見)とは?災害心理学について | 災害に備えるための防災メディア | 防災テック

これは「同調」という心理傾向を利用した方法と言える。「率先避難者」は多ければ多いほど効果が高まるだろう。一般に「正常性バイアス」によって判断を誤ってしまう人でも,避難すべきか迷っていることは多い。迷っているときに,逃げている人がいることは少なからず影響を与える。多ければ当然影響も大きくなる。また,自らが「率先避難者」になれば,他の人の命を救うことにもつながるだろう。

「正常性バイアス」議論の再考

ここからが本題である。矢守(2009)は,「正常化の偏見」(正常性バイアスと同義)という概念を理論的に検討している。

矢守克也. (2009). 再論―正常化の偏見. 実験社会心理学研究, 48(2), 137-149.

「正常化の偏見」については,実際には,事後(災害後)のsense-makingが大きく関与している事象であるにもかかわらず,事前(災害前)のdecision-makingのメカニズムを説明する概念として転用する混乱が生じていたと考えられる。そこで,まず,このような転用が生じるのは,「こころの前提」,「危機評価の前提」,「役割分担の前提」という3つの前提の上に立ってわれわれが事態を認識するからであることを指摘する。その上で,転用によって,現実に展開されている防災実践にどのような影響が出ているかについて,功罪両面にわたって分析する。......(以下略)
出典:矢守(2009) 要約より

3つの前提とその批判

①こころの前提
・人間が示すふるまいの前には,必ず,そのふるまいの原因となるような心的状態(認知や判断と称される心の働き)が論理的にも時間的にも先行しているはずだと考える前提。

②危険評価の前提
・災害対応に関するふるまい(避難する、避難を命じるなど)においては,必ず,危険性や緊急性に関する評価や判断がそれに先行しているという前提
・そうした主体(人間)による評価や判断が,それに対して起こるような「真の危険性」があらかじめ客体(環境)の側に備わっていると考える前提

③役割分担の前提
・「危険評価」を主導する役割を担う者,それを伝達する役割を担う者,それを単に受容する役割を担う者といった役割分担が仮定されている前提

矢守(2009)はこれらの前提に対してそれぞれ批判的に検討している。

(1)「こころの前提」への批判
・実際に,decision-makingを行う場面において,フローチャートに従ったかのような鮮明な心的プロセスが意識されているとは考えにくい。
・むしろ,事後調査において“decision-makingの内実を構成するとされる要因”が質問項目という形で当事者に知らされることにより,当事者は(災害時に)どのようにdecision-makingをしたかというsense-makingが行われる
・そして「正常化の偏見」が社会的に広まり,調査が行われるほど(当事者のsense-makingの仕方が固定化され)decision-makingとしての「正常化の偏見」が強固なものになっていく

(2)「危険評価の前提」への批判
・実は「真の危険性」を伝達しているはずの防災情報を豊富かつタイムリーに提供しても,それほど多くの人命を救えないと考えられている(牛山・金田・今村, 2004)。
・災害時におけるdecision-makingの要因は「危険評価」だけではないことが示唆されている(牛山ら, 2004)→生計,職務,家族なども重要な要因になる。
・災害時に,“防災情報を得るために部屋で待ち続けた”という当事者の行動がみられるという研究(片田・児玉・桑沢・越村, 2005)からも,情報の限界性がうかがえる。

(3)「役割分担の前提」への批判
・一般の人びとを,防災情報を受動的に受容してそれを処理するだけの役割に固定してきたことが,事前のdecision-makingにおける「正常化の偏見」という理解を助長してきた。
・これを解消する一つのあり方が,(そもそもdecision-makingが存在していない)「率先避難者」である。
decision-makingではない視野から防災実践を捉える必要がある

まとめ

かなり難しい話になってしまったが,要点を整理しておくと次のようになる。

・人間は,災害時などに「正常性バイアス(正常化の偏見)」という認知バイアスによって誤った判断をしやすいことが指摘されている。
・しかし,矢守(2009)が指摘していたように,実際の災害時には,フローチャート的な意思決定(decision-making)を行っているとは考えにくい。さらに「危険評価」だけでは意思決定をしていないだろうし,そうした評価のために防災情報を得ることに固執してしまって避難しないというデータもあり,「正確な情報」を強調することには限界がある。
・むしろ「意思決定(decision-making)」を考えない,「率先避難者」のような発想が求められるのではないだろうか。

矢守(2009)は「リアリティの共同構築」を提唱している。これは,一般の人々が防災情報を生成・伝達したり,「災害時要援護者対策」として,地域住民が共同して避難困難者の支援を行うなど,災害の“リアリティ”を皆が共同構築するしくみである。「正常性バイアス」をなくすことはできないが,早期避難にはよい影響を与えることが指摘されている。

「正常性バイアス」についての理解は確かに広がっているかもしれないが,こうした議論は現実に即していない側面があり,命を守るという観点からは,もう一歩踏み入った対策が必要である。「正常性バイアス」を知っているから大丈夫!というような方向にならないよう注意が必要だ。


*本稿は,「正常性バイアス」の再考 - A Critical Thinking Reed の内容を再構成したものです。

*「正常性バイアス」について,本稿で紹介できなかった記事
正常性バイアスを知っていますか?「自分は大丈夫」と思い込む、脳の危険なメカニズム - 日本気象協会 tenki.jp
なぜ逃げない? 災害大国の日本が陥りやすい「正常性バイアス」問題(木原 洋美) | 現代ビジネス | 講談社

*本文中で言及した文献
・片田敏孝, 児玉真, 桑沢敬行, & 越村俊一. (2005). 住民の避難行動にみる津波防災の現状と課題. 土木学会論文集, 2005(789), 789_93-789_104.
・牛山素行, 金田資子, & 今村文彦. (2004). 防災情報による津波災害の人的被害軽減に関する実証的研究. 自然災害科学, 23(3), 433-442.
・矢守克也. (2009). 再論―正常化の偏見. 実験社会心理学研究, 48(2), 137-149.

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