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2020年に聴いた音楽を振り返る

激動の2020年が終わる。今年は家にこもる時間が増えたからか久しぶりに色々な種類の音楽を聴いた一年だった。新型コロナの影響で音楽産業は大きなダメージを受けたが、それと同時に音楽のカタチが大きく変化した一年でもあった。自分の聴いてきた音楽を振り返りながら、ざっくりと一年間考えてきたことを振り返る。

『令和二年』(amazarashi)

とげられぬ夢 やむを得ぬ故
恨めしく睨む空 令和二年
風切りの映画 新譜のツアー
中止の入学式 令和二年

/『令和二年』- amazarashi(2020)

世界中が「新型コロナウイルス」という新たな感染症の拡大に揺れる中、それを直接のテーマとした楽曲はいくつもみられた。たとえば、打首獄門同好会の『新型コロナウイルスが憎い』はそのキャッチーなフレーズが耳に残る作品。斉藤和義の『2020 DIARY』はコロナ禍の社会を厳しく見つめた詩が特徴的な作品である。こうした様々な曲の中で特に印象に残ったのは、社会派の楽曲を数多く送り出してきたロックバンド・amazarashiの『令和二年』である。感染症に揺れたこの社会の中で、不満や不安、やるせなさ、そして苦しみ、悲しみなど、様々な気持ちを抱えながら必死に生きていく私たちの心にそっと寄り添うような作品。きっと、何年後かには、この『令和二年』を聴きながらこの一年のことを思い出すんだろうなぁ。

『4分33秒』(John Cage)

ジョン・ケージの『4分33秒』(1952年)といえば、演奏者が一切の音響を出さない楽曲として、ケージの作品の中でもおそらく最も有名な作品。同曲のWikipediaにはこの楽曲について詳しく記されている。そして、この作品を「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」が常任のキリル・ペトレンコの指揮で”演奏”した。

「沈黙」がこれほどまでに力を持って感じられたのは初めてかもしれない。思い返せば、緊急事態宣言が出された4月。休日の街は非常に”静か”だった。その一方で、「大きな声」を出していた人も少なからずいた。”声の大きい”人たちは、たいてい誰かに怒っていた。ネット空間では数多くの「炎上」騒動があり、感染者を攻撃する行動もしばしばみられた。そうでなくともギスギスとしたやりとりが散見された。実社会でも、緊急事態宣言下のワイドショーで「自粛しない人」ばかり連日取り上げられ、「自粛警察」と呼ばれる攻撃行動も一部ではみられた。みんなが「怒っている」ように見えた。

しかし、大多数の人びとは、本当のところ「沈黙」していたんだとも思う。まじめに感染予防をして、まじめに外出自粛をした。心の中では色々な想いを抱えている人はたくさんいる。しかし、それを安易に「攻撃」に変えないことこそが "真の強さ" なのだろう。もちろん、不満の声をあげることが必要なときだってある。しかし、当然ながら「沈黙」すべき時も存在するし、そっちの方がよっぽど難しいことなのかもしれない。

さて、ベルリン・フィルの『4分33秒』は、いったい何を想いながら黙っているのだろうか。そして、私たちはこの『4分33秒』の沈黙から何を考えるべきなのだろうか。少なくとも私には、「黙らされてしまった彼らの行き場のない怒り」が見えてくる。

『朝顔』(折坂悠太)

ここに 願う 願う 願う
君が朝を愛するように
ここに 願う 願う 願う
その庭を選び今に咲く

/『朝顔』- 折坂悠太(2019)

2020年は個人的に多くのドラマを観た一年だった。社会全体としては『半沢直樹』(TBS系)の続編が大ヒットし、TBSドラマでは他にもキャリアウーマンとおじさん家政夫のドタバタ日常を描いた『私の家政夫ナギサさん』や刑事二人が様々な日本の社会問題を背景とした犯罪に立ち向かう『MIU404』などが高い満足度や高視聴率を記録した。また、三浦春馬さんの遺作となった『おカネの切れ目が恋のはじまり』も最終話での独特の空気感が強く印象に残っている。

また、多くのドラマが新型コロナに揺れる社会を反映していた。例えば、新型コロナ禍での「ニューノーマル」な社会における人のつながりのカタチを描いたドラマ『#リモラブ ~普通の恋は邪道~』(日本テレビ系)や、逆にアフターコロナの理想的な世界を描いた『姉ちゃんの恋人』(フジテレビ系)などは、直接的にこのトピックに向き合ったドラマであった。

一方で、病院薬剤師という立場から一つ一つの「いのち」の重みを描いた『アンサング・シンデレラ 病院薬剤師の処方箋』(フジテレビ系)や、監察医や刑事という立場から一つ一つの「いのち」の重みを描く『監察医 朝顔』(フジテレビ系)の第2シーズンは、新型コロナ禍で多くの命が失われた2020年だからこそ、少し違った重みを感じるドラマであった。

前置きが長くなったが、折坂悠太の『朝顔』はドラマ「監察医 朝顔」の主題歌である。ドラマに登場する万木朝顔(上野樹里)のキャラクターを反映させたような詩が印象的だが、この詩もまた、昨年の第1シーズンのドラマの中で歌われるときとは異なった重みを感じるようになった。

「ここに願う 願う 願う」と繰り返す詩は、どこかもう「願うことくらいしかできない」という悲しみややるせなさを内包しているように思える。第一波の際にはみんなで頑張れば乗り越えられるという気持ちにもなったものだが、第二波・第三波と進むにつれて、少しずつ無力感が広がってきたように思う。「協力してください」という言葉が空虚に思えるのは私だけだろうか。そこにあるのは、慣れや怠慢ではなく「あきらめ」に近い感情だ。

もうすぐ2020年が終わり、2021年が始まろうとしているのに、どこか期待が持てない。でも「願う」ことだけはやめられない。自分にとって、この折坂悠太の『朝顔』という曲はそういう独特の諦念を感じられる曲であった。

『エイリアンズ』(キリンジ)

踊ろうよ さぁ ダーリン ラストダンスを
暗いニュースが日の出とともに町に降る前に

/『エイリアンズ』- キリンジ(2000)

自分の Apple Music のプレイリストを見返していて気づいたのだが、外出自粛の期間中に一番聴いていた曲は、明らかにキリンジの「エイリアンズ」(2000年)であった。今年偶然に出会った一曲。なぜと言われるとよく分からないのだが、2020年の上半期はずっとハマっていた。この独特の「地に足がつかない」感じのムード感がその時の自分にぴったりだったのかもしれない。

キリンジの原バージョンはとても好きなのだが、女優・のんがカバーした演奏(2017年)も好んで聴いていた。のんは『あまちゃん』(2013年)でアイドルを演じていた当時から特別に歌が上手いというわけではないのだが、この曲に関しては彼女の純朴な歌声がかなりしっくりくる。

『明日があるさ』(のんとも。M)

明日があるさ 明日がある
若いボクには 夢がある
いつかきっと いつかきっと
わかってくれるだろう
明日がある 明日がある 明日があるさ

/『明日があるさ』- 坂本九(1963)

『あまちゃん』の話題でふと思い出したのだが、のんは今年、大友良英・Sachiko Mというあまちゃんの音楽メンバーと「のんとも。M」というユニットを結成した。その中で、小泉今日子・尾美としのりという『あまちゃん』でのんの両親を演じた二人などと共演した『明日があるさ』の動画は、なかなかノスタルジックであった。

今冬には、のんと橋本愛の「あまちゃんコンビ」が映画『私をくいとめて』で共演することが話題となった。『あまちゃん』に登場した若手の俳優・女優の中には現在も活躍している人が非常に多く、有村架純、松岡茉優、福士蒼汰など、2020年のドラマで主演を務めていた人もいる。

『明日があるさ』の登場から50年以上の時が経っている。この曲がはじめに歌われたのは東京オリンピック(1964年)を翌年に控えた高度経済成長期の社会である。誰もが「明日があるさ」と歌える時代であった。50年以上の時が経ち、二度目の東京オリンピック(2020年)が実施できなかった2020年。この曲の言う「明日があるさ」という言葉の意味合いも変わってきたように思えてならない。

高度経済成長の時代を生きていない現代の若者のメンタリティは、当時歌われたような「より良い明日」といった意味での未来ではなく、「今日と同じくらいの明日」といった意味での未来を志向するものに変わってきてはいないだろうか。言い換えれば「低期待」の時代になっているように思うのである。それは、新型コロナ禍で生活満足度が大きく低下したのは若年層よりも高齢者であったという内閣府調査にも裏付けられるように思う(参考)。

まったく同じ曲でも歌われる時代によって意味は異なって聞こえる。『明日があるさ』もまた数年後には違った音楽に聴こえるのかもしれない。

『生きてることが辛いなら』(森山直太朗)

生きてることが辛いなら
嫌になるまで生きるがいい
歴史は小さなブランコで
宇宙は小さな水飲み場
生きてることが辛いなら
くたばる喜びとっておけ

/『生きてることが辛いなら』- 森山直太朗(2008)

2020年春は例年よりも自殺者数が大幅に減少したが、夏頃からは著名な芸能人の自殺もみられ、女性や若年層を中心に自殺者数が例年よりも増加したのだということが広く報じられた。

これまでも「自殺大国」と呼ばれてきた日本社会だが、1990年代後半に急増した中高年男性の自殺者数もここ数年は減少傾向にあり、年間3万人と言われていた自殺者も気づけば2万人ほどになっていた。その一方で、全体の自殺者数の減少に反して、これまでも現状維持あるいはやや増加傾向にあったのが若年層や女性の自殺である。そして、この2020年はそうした層での自殺が例年と比較して増加傾向となった。実数としては中高年の男性や高齢層での自殺が最も多いのだが、そういった層はコロナ禍においてあまり自殺者が増加していない。

多くの人びとは「自殺」という社会問題をどうにか自分たちの「分かりやすい」形で理解しようとする。今年、自殺に関して報道されていた多くの記事がそうであった。「貧困」「失業」「人間関係の不和」など、ありきたりな剥奪動機ばかりが並べられて、それで「理解した気になる」ような報道が多かった。

120年前に社会学者・デュルケームが『自殺論』で考察したような社会的な観点はまずみられなかったし、近年の心理学や精神医学で有力視されている「自殺の対人関係理論」のパースペクティヴさえもあまり取り上げられなかった。大村英昭らの『新自殺論』(2020)という著作の中では、ゴフマンの "face" 概念に社会を見出し、そこから自殺を理解しようとする試みがされていたが、そうした見解が社会で広く理解されていたとは言い難い。

また、自殺報道をめぐっては「ウェルテル効果」という言葉が広がったが、大手のマスメディアを悪者視するだけにとどまっていたことも気になる。近年の研究では「SNS上での拡散の度合いでウェルテル効果の影響が異なる」といったことが示されているが、そういったことはまず報じられない。まぁ「Twitterで芸能人の自殺を拡散しているお前らも悪い」なんて報道をしたら、それこそバッシングの種になることも容易に予想はつくが。

前置きが長くなってしまった。自殺問題については言いたいことがだいぶあるもので。

森山直太朗の『生きてることが辛いなら』は「死にたい」という人の心に寄り添うような歌である。冒頭から「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」と歌われるが、この「小さく死ぬ」とはどういうことなのだろう。この「小さく死ぬ」という言葉の解釈が人によって違うために、この曲は「死を助長する」と批判されることもある。だが、結局は「嫌になるまで生きるがいい」と歌っており、生きることを強く励ますような歌ではある。YouTubeのコメント欄を見てもそれがわかる。

最近は、簡単に「自殺」を否定できないと感じることが多い。明るい未来がはっきり見えるわけでもない社会で「生きてればいいことがある」なんて正論は通用しないように思う。自ら死を選んだ人のことを責められない。「死ねるという選択肢があることでより良く生きられる」という言葉もわかるような気がする。

それでも自殺は減ってほしいと願うし、減らすべきだとも思う。自殺が悪くないと肯定することはできない。しかし、「死にたい」「消えたい」と語る人にどんな言葉を届けることができるのか、あるいは「死にたい」と考える自分の気持ちをどうやって食い止めるか。その答えがこの一年で余計にわからなくなってしまった感じはある。

『Brand new planet』(Mr. Children)

この手で飼い殺した
憧れを解放したい
消えかけの可能星を見つけに行こう
何処かでまた迷うだろう
でも今なら遅くはない
新しい「欲しい」まで もうすぐ
新しい「欲しい」まで もうすぐ

/『Brand new planet』- Mr. Children(2020)

個人的には久しぶりにミスチルにハマった一年だった。上半期には、ドラマ『コード・ブルー』にハマったことも相まって『HANABI』をよく聴いており、その流れでアルバム「SUPERMARKET FANTASY」の曲に割とハマった。下半期には、ドラマ主題歌である『Turn Over?』と『Brand new planet』をかなり聴いた。Apple Music のプレイリストによれば、2020年を通して一番自分が聴いた曲は『Turn Over?』らしい。

ここで取り上げる『Brand new planet』は "アフターコロナ" の世界を描いたドラマ『姉ちゃんの恋人』の主題歌である。歌詞では繰り返し「可能星(かのうせい)」という言葉が歌われるが、これがタイトルの "new planet" と重なり、さらには「新しい『欲しい』」という言葉とも重なる。だが、無限の可能性を信じるような昔ながらの応援歌ではない。最近の応援ソングの傾向にミスチルもしっかりと則り、頑張ることに疲れている人に寄り添うような「低温の応援歌」に仕上がっている。

「まったく新しい星」を意味するタイトル通り、この世界は新たなウイルスの登場によって、まったく新しい世界になることを強いられた。しかし、そうした急激な変化にすぐに適応できる人ばかりではない。そうしたギャップに苦しみながら、さまざまな「憧れ」を「静かに葬ろうとした」り、「この手で飼い殺した」りする人は少なくないだろう。自分もそうだ。多くの憧れをあきらめた。病気にもなってしまった。人とのつながりの多くを避けるようになった。夢も希望も捨てたと言っても過言ではないかもしれない。

ミスチル的に言えば、新しい「欲しい」までもうすぐなのだろう。だが、そんなものを期待できないほどに、自分の心は荒んでしまっているような気もしている。今年よく聴いていた曲には、きのこ帝国の『春と修羅』(2013)という曲もあったが、実際に生きている中では、この『春と修羅』で歌われるように「なんかぜんぶめんどくせえ あいつになにがわかるってんだ」って感じの方が強い。だが、音楽を聴く間くらいは新しい「欲しい」を信じてみようかなと思ったりもする。そういう自分も「めんどくせえ」のだが。

『静かな雨の夜に』(谷川俊太郎・松下耕)/『わが抒情詩』(草野心平・千原英喜)

いつまでもこうして坐っていたい
新しい驚きと悲しみが
静かに沈んでゆくのを聞きながら
神を信じないで神のにおいに甘えながら
はるかな国の街路樹の葉を拾ったりしながら
過去と未来の幻燈を浴びながら
青い海の上の柔らかなソファを信じながら
そして なによりも
限りなく自分を愛しながら
いつまでもこうしてひっそりと坐って居たい

/『静かな雨の夜に』- 谷川俊太郎(1952)

新型コロナウイルスの感染拡大によって、「合唱」文化は非常に苦しい状況を強いられた。自分も合唱人だったが、気づけば一年ほど歌っていない。歌うことはめっきりと減ってしまったが、色々と聴いていた演奏はある。特に自分は男声合唱が好きであり、北海道大学合唱団の『時代』(中島みゆき)や、お江戸コラリアーずの『白い雲』『くちびるに歌を』(信長貴富)は、自粛期間なんかによく聴いていた。

ただ、その中でも『静かな雨の夜に』は今年一番ハマった曲であり、これもおそらく、今年の自分の心性と近いものがあるのだろう。自分が今どこに向かっているのか分からず、どこか落ち着かない日々が続く中で、「いつまでもこうして坐っていたい」という詩には確かに強く共感する。谷川俊太郎がこの詩をしたためた1952年頃は朝鮮戦争の影響を受けた「特需景気」の時期だろうか。この時代の詩が70年後を生きる自分の心に響くというのは、よく考えてみれば不思議な話である。

ところで、同じように今年改めてハマった作品に、草野心平の詩を題材にした『わが抒情詩』(作曲:千原英喜)がある。戦後まもない社会の風景を綴った詩でありながら、その心象風景はむしろ現代社会に生きる人に近いのではないかと思う。全文(参考)を読むとなおそういった印象は強まる。谷川俊太郎にしろ、草野心平にしろ、未来人の人の心を読むのが上手である。いやもしかしたら、当時の人も同じように苦しんでいたのかもしれない。

以下に、合唱で作曲された部分の詩を一部引用するが、こうした詩もいまの自分の心に大きく重なる。

くらあい天(そら)だ底なしの。
くらあい道だはてのない。
どこまでつづくまつ暗な。
くらあい道を歩いてゆく。

どこまでつづくこの暗い。
道だかなんだかわからない。
うたつておれは歩いているが。
うたつておれは歩いているが。

おれのこころは。
どこいつた。
おれのこころはどこにゐる。
きのふはおれもめしをくひ。
けふまたおれは。
わらつていた。

ここは日本のどこかのはてで。
きのふもけふも暮してゐる。
都のまんなかかもしれないが。
どこをみたつてまつくらだ。

/『わが抒情詩』- 草野心平(1948), 千原英喜(2009)

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ダラダラとnoteを書いていたら2020年も残り10分。2021年はどんな一年になるのだろうか。もしかしたら、365日生きることなく終わってしまうかもしれない。そんな不安もある。だが、とりあえず生きることを許される間だけでも、一生懸命に生きてみたいし、いい音楽やいい詩とまた出会える一年になることを願ってみようとは思う。

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