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【雑感】ドラマ『中学聖日記』で描かれた”禁断の純愛”と二人の成長

今回は、ドラマ『中学聖日記』という作品を見て感じたことについて書き残しておきます。結局、「禁断の純愛」って何だったのだろう? そんなことを考えて書いています。

2018年公開のドラマ『中学聖日記』は、かわかみじゅんこの同名漫画を原作とし、女優の有村架純さんが演じる教師(末永聖、以下「聖」と記載)と俳優の岡田健史さんが演じる生徒(黒岩晶、以下「晶」と記載)の "禁断の純愛” を描いたドラマです。

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画像出典:https://realsound.jp/movie/2018/12/post-294426.html

※以下、各話の内容にも言及しているのでご注意ください。

「禁断の恋」

「禁断の恋」というものは、『ロミオとジュリエット』の時代から描かれ続けているものと言えるでしょう。心理学を学んでいる人間だからか、「禁断の恋」と聞いてふと思い出したのは「ロミオとジュリエット効果」(Driscoll, Davis, & Lipetz, 1972)です。簡単に言えば、未婚のカップルが両親などから反対されるほど愛が燃え上がっていくという恋愛心理学で提唱された現象です(※1)。

※1 余談ですが、この「ロミオとジュリエット効果」は、越智(2015)の中では「ブーメラン効果」(簡単に言えば、何かを禁止されるとそれをやりたくなる現象)や「錯誤帰属」(今回の例では、禁断であることでドキドキする感情を恋愛のせいだと考えてしまうこと)が原因であると紹介されています。

ただ、近年の研究(Sinclair, Hood, & Wright, 2014)ではどうやらこの効果を確認できなかった(再現できなかった)ようです。「社会的ネットワーク効果」という別の知見にしたがった結果が得られ、干渉が多く、周囲からの承認が少ない関係性は本人にとっても「質が低い」と感じられることが示されています。つまり、"禁断のまま" では幸せな恋はできないということです。

だからかもしれませんが、『中学聖日記』の中でも周囲からの反対があったために二人の恋が燃え上がっていくというような描写はなかったように思います(見落としただけかもしれませんが)。印象的なのは、二人が晶の父に逢いに行った島から帰ってきた第10話でしょうか。父のアドバイスもあり、二人の恋は「周囲に認めてもらいたい」という方向へ進みます。その結果、とんでもない茨の道を進むことにはなるのですが……

繰り返しになりますが、"島" というある意味で「社会から切り離された空間」の中で愛を深めた二人が、「認められないならば逃げる」という「かけおち」的な方向ではなく、"それぞれができる形" で「周囲に認めてもらえるように "戦う"」という方向に進んでいくのです。女優・吉田羊さんが演じた原口さんという、聖の相談相手だった女性が聖に向かって「戦え」という言葉をかけているのも一つの重要なシーンだったと思います(第10話)。

この点については、『中学聖日記』というドラマについて「ロマンチックな『純愛物語』は、もう1つ別の次元、2人の女性による『戦いの物語』へと昇華した」と評する以下の記事にもつながる部分だと思います。また、最終話での「自分自身の正解を探す」という原口のことばは、聖自身の「戦い方」にもつながっていく大切なメッセージだったと思います。

とはいえ、教師と生徒の恋はやはり「禁断」であり、許される行為だったわけではありません。特に、聖は(その社会的責任の重さもあり)多くのものを失います。「禁断の恋」は一つの「不正解」でしょう。その意味では、最終話の中で、夏木マリさん演じる塩谷先生(聖がもともと勤務していた中学校の教頭)が、夏川結衣さん演じる晶の母親に対して「あなたは間違っていない。間違っているのは末永先生(聖)」と言い切っているのも印象的でした。

ただ、教師と生徒の恋愛がまったくの「不正解」で終わったかと言われれば、そうとも言えないのがこの『中学聖日記』の興味深いところです。ドラマの結末について書くのはやや気が引けますが、結局、二人の「禁断の恋」は、聖と晶という二人の人間を大きく成長させ、最後には「禁断ではない恋」へと姿を変えたわけです。

「禁断の恋」のせいで失ったものは本当にたくさんありましたが、その一方で「禁断の恋」があったからこそ得られたものもあります。それは、「無償の愛」にとどまりません。二人の人間が大きく成長し、社会の中で戦う力を得た、それがこの「禁断の恋」の大切な結末でした。それは、塩谷先生が二人の恋を「かけがえのない経験になる」と言ったことにも通じる気がします(最終話)。

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そういう意味で、「禁断の恋」そのものが「不正解」だったとしても、その経験が人生においてまったくの「不正解」になるとは限らないということでしょう(だからといって「禁断の恋」をしていいとまで言うつもりはありませんが)。あくまで個人的な意見ですが、『中学聖日記』は「道を踏み外した人も、それに真摯に向き合うことで "救われる"」というメッセージをも持っていたように感じます。

「純愛」

ところで、この『中学聖日記』で描かれた二人の恋愛は「禁断」というだけでなく「純愛」と形容されることが多いようです。この「純愛」という言葉、なんとなく分かっているようで分からなかったので少し調べました。

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画像出典:https://realsound.jp/movie/2020/05/post-557900.html

「純愛」については、Wikipedia の解説がたいへん豊富です(2020年6月12日閲覧)。「純愛」の主な定義は「邪心のない、ひたむきな愛」ですが、自己犠牲をいとわない愛、肉体関係をともなわない愛(プラトニック・ラブ)、無償の愛などの意味合いで用いられることもあるようです。評論家や社会学者の見解などもおもしろいものが多く掲載されています。

この中で、社会学者・土井隆義の指摘の部分を引用したいと思います。

社会学者の土井隆義は、純愛ブームの渦中にある諸作品は各々の世代ごとの異なるメンタリティによって支えられているとし、かつての純愛ものはさまざまな周囲との軋轢などの社会的障壁を克服することによって至高の愛が達成されるという構造をとっているのに対し、ゼロ年代の純愛ブームではそういった社会的要否は排斥され、反社会的でも非社会的でもない脱社会的な構造になっているとしている。

出典:Wikipedia より(閲覧日:2020年6月12日)

土井がどのように「純愛」を分析したのかは原典がないので分かりませんが、『中学聖日記』の純愛は「さまざまな周囲との軋轢などの社会的障壁を克服することによって至高の愛が達成される」というかつての構造をとっている(社会的要因をていねいに描いている)ように思います。「禁断の恋」と「純愛」には重なる部分も大きいのかもしれません。

ただ、よく考えてみれば、『中学聖日記』では、二人は社会的障壁を克服したというよりも、社会的障壁に "従った" 、言い換えれば "負けた" ようにも見えるわけです。最終的に、聖は晶と「もう二度と会わない」という決断をして誓約書にサインし、晶も電話ごしで聖に「二度と会わない」ことを伝えます。5年の月日を経て二人は再び会うわけですが、これを「二人が社会的障壁を克服した」と表現するのはどうもしっくりこないなぁと思います。

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そもそも、5年後に二人が結ばれることができたから「ハッピーエンド」だったのでしょうか。いや、実は、最後に再び会えたのは「おまけ」に過ぎなくて、本当の意味での "純愛" はその前のシーンにあったんじゃないだろうか。自分はそんな風に感じています。

そもそも『中学聖日記』での "純愛" のはじまりは、晶から聖への愛でした。「相手のことが好き」という "純粋な" 気持ちからはじまります。そこから、二人の恋愛感情は「つながりたいけどつながれない」というところを軸に進んでいきます。当たり前かもしれませんが「好きだからつながりたい」ということです。だからこそ、二人がつながるのを阻害する母親などは「社会的障壁」とみなすことができるでしょう。そのようにして第10話ぐらいまで進んでいきます。

しかし、最終話。二人は「好きだからこそ、つながらない」という主体的な選択をします。聖が晶の母親に「黒岩くんを心配するお気持ちがよくわかりました」と伝えてサインした誓約書を渡すシーン、そして晶が聖に向かって「がんばれ」と叫ぶ観覧車のシーン、晶の「聖ちゃんがこの先ずっと笑っていられますように」というメッセージはその象徴でしょう。それぞれが、相手の幸せを願って "つながらない" という道を選びます

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大きな障壁を乗り越えるのでも、壊すのでもなく、相手の幸せのためにその壁を受け入れる。最後に聖や晶が "戦った" のは、社会的障壁ではなく、自分の心、もっと言えば「自分の気持ち」だったのでしょう。純愛モノの定番とも言える「"反社会的な" 戦い」はほとんどしなかったのです。

たしかに、非常に "現実的な" 選択ではあります。「純愛」は現実離れした "理想" のような描かれ方が多いと思っていた自分としては意外性もありました。ただ、自分の感情を乗り越えて、相手の幸せを "現実的に" 願う姿勢こそ「純愛」なのかなぁと。それこそが『中学聖日記』が描きたかった「純愛」なんだろうと感じます。

(紆余曲折はあれど、最終的には)人を傷つけない。障害に酔わない。ルールを破らない。許されぬ恋は、許されぬ恋なのだと。大切なのは、まずは相手と、周りで支えるすべての人たちの幸せを願うことなのだと。それが、新井順子プロデューサーをはじめとする制作者たちが描いた2018年の禁断の恋の結末だった。

出典:『中学聖日記』ラストシーンに込められた“人生の奇跡” 有村架純と岡田健史の再会が意味するもの

ちなみに「純愛」は英語だと「Pure Love」よりも「True Love」と訳されることが多いそうです。『中学聖日記』で描かれた「純愛」は、最初こそ「Pure Love」だったかもしれませんが、最後にはまさに「True Love」、言い換えれば “本当の愛” を描いていたんだろうと思います。

"本当の愛" というのは、まっすぐに相手のことだけを考える純粋な気持ちだけではなく、自分たちの周りにいる人、自分たちを支えてくれる人のことも尊重しながら、相手の幸せを一番に願った選択をできることなのだろう、そんなことを考えさせられました。そういう意味では、”社会的障壁" であった聖の母親や晶の母親の行動もまた「純愛」だったように思えてなりません。

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「禁断の純愛」から「成長」へ

と、ここまで「禁断の純愛」を描いた作品という観点から考えたことをいろいろと書きましたが、こうやって思い返すと、ロマンチックな純愛物語というよりは、二人の「成長物語」のように見えるんですよね。自分がフルで視聴したのが6話以降のみだからというのも大きいかもしれませんが……

なお、同じような趣旨で「なりたい自分」というキーワードからこのドラマを読み解いている記事もあります。

聖は「自分の足で立てる自分」を手に入れ、そして晶は「人を大切にできる自分」を手に入れました。ある意味で、"禁断の純愛" があったからこそ、手に入れることができた「自分」です。ただ、こうした「なりたい自分」は二人の純愛だけの産物とは言えないでしょう。

この "禁断の純愛" に対して "障壁" となって止めようとした二人の母親がいたから、また、聖の場合には原口、晶の場合には父親という、彼らを心から応援してくれる存在もいたから、この "禁断の純愛" は「成長」へとつながったのではないかと思います。

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二人の「成長」にはどちらか片方が欠けてもダメだったような気がします。壁も、味方も、成長には欠かせない存在だと思います。大人は若者の成長のために何をすべきなのか、そんなことを考えるきっかけにもなりました。

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おわりに

「禁断の純愛」ということばから、感情におぼれた不幸な物語というイメージを持ってしまって最初は見ようとしなかった作品でしたが、見ることができて良かったなと思える、まっすぐでとても深い作品でした。

と、偉そうに書いているものの、ドラマ前半はまだ見ていないので、機会を見つけて前半もしっかりと見たいと思います。

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画像出典:https://www.tbs.co.jp/chugakuseinikki_tbs/report/31.html

※本記事では複数の画像を引用しています。問題がある場合にはすぐに削除いたします。出典元の記載がないものは、ドラマ映像が出典となります。

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