見出し画像

【読書】『「考える頭」のつくり方』(外山滋比古)

「考える」ために必要なものはなんだろうか。

この本には「考える頭」を作るメソッドはまったく書かれていない。むしろ「見つかっていない」とまで断言している。

代わりに、この本を通して最も考えさせられたのは、「考えるために知識は必要なのか」という問題である。

われわれ日本人の独創性があまり高くないのは、知識が多すぎるからであり、本を読みすぎるからである。(p.15)

「読書」は肯定的なものとして捉えられることが多い。実際、わたしも読書を中心に、多様な情報や意見に触れることを日ごろから大切にしている。

だが、外山氏は、日本人が「読書」ばかりやっているから、独創性がない=「考えていない」のだと指摘する。

逆に、「知識がなければ考えるしかない」のだとも指摘している。この指摘には思わずハッとさせられるものがあった。


知識偏重の教育

思考力低下の最大の要因は、知識偏重の風潮である。(p.67)

外山氏が指摘する通り、「知識偏重」型の教育をやってきたことで、独創性や思考力が失われてきたという意見は多い。私もおおむね同意している。まぁ、そうした問題点を解決するための方策が「ゆとり教育」だったはずなのだが......。あまり理解されなかったのである。

いまの学問とは、知識を記憶する作業が主である。だから、学校へ行っていると、しだいに記憶人間になっていく。記憶によって知識が増えると、新しいことがあらわれても、記憶している知識で判断していけるから、自分で考える必要がなくなる。知識が増えれば増えるほど、自分の頭でものを考えなくなり、当然の結果として、自分で考える力は衰退する。(p.146)

ここでの指摘は「学問」というよりも、高校教育までの「勉強」をめぐる問題であるような気がする。だが、「勉強」だけでなく「学問」をやる人も、改めてこうしたことを内省しておく必要はあるだろう。


だが、こうして二つの記述を並べて考えると、思考力低下の要因は「知識を増やした」ことなのか「知識を増やすことに偏重した」ことなのか、はっきりしない。もし、後者なのであれば、知識を増やしても「考えようとする態度」を失わなければ知識を増やしても良いはずである。

本書では、全体を通して「知識」がかなり否定されるが、私としては、結局のところ「知識」も「思考」も、どちらも大切にした方が良いんじゃないかなと思う。正しい知識による判断が必要な場面も多くあるからだ。ただ、読書などの「知識」に頼りすぎず、「思考」を大切にするように心がけてみたいと強く思わされた。特に、読書などで得た「知識」を積極的にアウトプットする場面を作ることで「考える頭」を志向してみたいと思う。


「思考の整理学」を読んだときには、やや読みづらくて挫折したのだが、今回の本はかなり読みやすかった。良書だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?