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【雑感】「正確さ」と「正しさ」は別モノ

「正確」であっても、「正しくない」と言えるものは世の中にたくさんあると思います。

正確」とは、一般的に次のように説明されます。

正しく確かなこと。事実と合っていて少しもまちがいのないこと。また、そのさま。

対して、「正しい」は大きく分けて3つの意味があります。その中には、前述の「正確」と同じような意味もあります。

道理にかなっている。事実に合っている。正確である。

一方で、規律や道徳的な判断がかかわってくる意味もあります。

道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。

辞書の定義に基づいて考えると「正しさ」というものを規定するのは「正確さ」だけではないですし、正確=正しいと絶対的には言えないと思います。

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かつて、優生学の歴史について勉強していた時に、こうした「正しさ」というものについて深く考える機会がありました。

本稿では、20世紀初頭に欧州やアメリカなどを中心に広がった優生学のことを、「旧優生学」と呼びたいと思います。対して、現代社会でみられる優生思想・優生学的なものを「新優生学」と呼びたいと思います。

旧優生学は、20世紀当時では「最先端の」科学でした。遺伝学や統計学などを駆使し、人類の進歩を促すことを目的としていた一つの立派な学問としての地位を確立していました。

しかし、それはのちに差別的な政策につながっていくことになりました。有名なナチスの優生政策もそうですが、特に世界各国で行われた(日本でも行われた)断種政策が旧優生学と特に関わりが深いと思います。

当時、そうした政策は「正しい」とされていました。科学的に「正確」であると考えられていました。差別が「正しさ」の名の下に肯定されたのです。(ただ、現在では、旧優生学における議論には誤りも多いことが指摘されています。)

戦後しばらくしてから、旧優生学・優生思想に対する反対意見が出てくる中で、大きく分けると二つの「正しくない」が出てきました。一つは「科学的に正しくない」、もう一つは「倫理的に正しくない」です。

しかし、現代社会でも「優生学」的なものは根強くありますし、優生思想に基づいたような声もしばしば上がります。とはいえ、そうした新優生学に肯定的な人でも旧優生学には批判的な人が少なくないのです。なぜか。それは「旧優生学」は科学的に間違っており、「新優生学」は科学的に正しいと考えている人が多いからではないかと思っています。

同時に「科学的に正しい」ものは、たとえ差別につながりかねないとしても、発信していいという考え方も広がっていると感じることがあります。その流れが、ベストセラー『言ってはいけない』(橘玲)で描かれている価値観であったり、Intellectual Dark Web(IDW)と呼ばれる人たちの動きにも現れています。

彼らは、現代の最新の科学的知見に基づいて、(自分たちにとっては)差別でないと考えられる発信・行動を行っています。まさに「新優生学」だと思います。もちろん、新優生学が「正しい」かというのは議論の余地があるでしょう。一意的に解が定まる話というよりも、議論されながらその時代にあったあり方を模索することが適切だと思います。

ただ、「正しさ」の判断において、科学的な面ばかりがクローズアップされている現状にもやや危機感を覚えています。旧優生学が暴走してしまった頃も、旧優生学は最先端であり「正しい」と考えられていたという事実は重要です。

科学に絶対はありません。当然、“最新の”知見も然りです。ですから「倫理的な」観点など、別の観点も大切にする必要があると思っています。

最近、Twitter上で「正しい」かどうかの議論が非常に一面的になされている場面を数多くみたので改めて書いてみました。

「正しさ」を見る上で大切なのは、多面的な議論ではないかと思うのです。自戒の念もこめて。

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