ジョーカー表紙

映画『ジョーカー』アーサーはチャップリンになれなかった

 映画『ジョーカー』はジョーカーの映画ではない。映画評論家・町山智浩がトークショーで下記のように言ったことからわかるように。

「1970年代のアメリカ映画が好きだったトッド・フィリップスはその時代のアメリカ映画を作りたかったんです。でもそれだとなかなかお金が出ない。アメコミネタにすればお金が出るということで、ジョーカーを利用したとはっきり言ってますね」

ジョーカーが現代に蘇った理由

 昨年2018年の全米映画興行ランキングの1~10位のうち、半分の5作品がアメコミ、3作品がシリーズ物、1作がリメイクとなっている。唯一原作がなく連作でもない作品は『ボヘミアン・ラプソディ』のみになっているが、クイーンという強大なバンドを基にした作品という点に着目すると、昨今の映画づくりで重要なのは乱暴な言い方をすれば、オタクによって強固に作り上げられた既存のコンテンツを選択することだということがよくわかる。

 そう考えると、ジョーカーという名演たちに支えられてきたコンテンツが再び"金の成る木"として現代で再消費されていることは当然のことのように思える。 

ボヘミアンラプソディ

映画『ジョーカー』の特異さ

 その中でも『ジョーカー』が特異なのは、そのコンテンツのオタクではなく何十年前の映画オタクを相手取った点にあって、監督はジョーカーという世界的なヴィランを巧みに利用して、過去の名作を次々と現代のスクリーンに蘇らせていく。

 本作で重要な役目を果たすロバートデニーロが主演した『タクシードライバー(1976)』、『キングオブコメディ(1982)』は言わずもがな(もはや『ジョーカー』はこの2作のリメイクのようなもの)、傷心した主人公のアーサーを茶化すエリートたちは『ある戦慄(1967)』のチンピラたちを思い出させるし、落書きだらけの地下鉄で仮面を被った男たちが暴動を起こす様はまるっきり『ウォリアーズ(1979)』の世界のようで、映画の過去にタイムスリップさせられる感覚を覚える。

4作品.001

 そこにはバットマンへのノスタルジーは何もない。
 だって、ジョーカーじゃなくても良かったのだから。
 DCでなくてもアメコミでなくてもいい。
 監督はただ、過去の名作を下敷きに1970年代のアメリカを舞台にした男のドラマが描きたかった。
 それがDCフリークたちを怒らせたのか、困惑させたのか、歓喜させたのかはわからないが、バットマンや過去のジョーカーを知らない人たちでも十二分に楽しめる映画になったことは間違いない。

------ここからちょっとネタバレ------

 映画のシナリオ(ネタバレ含む)はこうだ。

 ゴッサムシティ(ニューヨーク)に暮らすアーサーは報われない貧しい人生を過ごしながらもコメディアンを目指し日々を前向きに生き抜いていたものの、生きる価値としていたピエロの職を失い、その扮装のまま突発的に殺人を犯してしまう。殺人ピエロによる犯行が貧困層から富裕層への報復の象徴として社会の中で認知されていく中、心の拠り所としていた家族と恋人の存在が母と自分の妄想だったこと、憧れのコメディアン・マレーに吊し上げられたことを知ってしまう。怒りと絶望に襲われたアーサーは、見世物として呼ばれたマレーの番組への出演を了承し、生放送の舞台に立つと自らを〝ジョーカー〟と名乗り、彼を虐げてきた社会の悪意への憎しみを吐き捨てるとマレーを射殺する。そして貧困層の怒りを代弁するシンボル殺人ピエロ、ジョーカーとして崇められる存在となったアーサーは、彼に触発されて暴徒化した市民に囲まれながら笑顔を浮かべ、満足気に自らの血で笑顔のメイクを施す。

ジョーカー笑顔

ジョーカーとチャップリン

 劇中でアーサーはどんな救われない状況にいても(障害のために)延々と笑い続ける。アーサーの母ペニーが語ったように、彼は子供の頃からどんな時でも笑顔を絶やさなかったらしい。

 そんな彼のモデルとなっているのは喜劇王チャールズ・チャップリンだ。彼の母親もまた精神疾患にかかり、幼い頃家族は極貧の生活を強いられきた。そんな中彼は俳優を志し、コメディアンとして大成する。

 先述の『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』と同様、この映画はチャップリンへのリスペクトを包み隠さず表現している。

 アーサーが人生への最後の望み、一発逆転を賭けて父親だと信じていたウェインに会いにいく直前に劇場で目にして楽しんだのはチャップリンの映画であるし、彼が劇中で口にした「俺の人生は悲劇だ。いや違う、喜劇だ」というセリフはそのままチャップリンの名言「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」という言葉に通ずる。映画『ジョーカー』で語られるアーサー=ジョーカーは、人生の苦しみも全て笑いで切り抜けてやろうという決意を持った男なのだ。

    しかし、彼はチャップリンになれなかった。

チャップリン

差別としての笑い

 僕はチャップリンの考えが好きだ。本当にどうしようもなくて苦しい時、助けてくれるのは視点を変えた時に生まれる笑いだからだ。視座を高いところにおいて、チンケなことでドタバタしてる自分を眺めた時に一瞬だけ、全部どうでも良くなってしまうガス抜きとしての笑い。

   笑いとは根本的に差別的なものである。共通の文脈や常識から外れた愚か者を馬鹿にするところから笑いは生まれるため、悲劇を喜劇として捉え直すには、自己(笑われる存在)から他者(笑う存在)に視点を動かすことが必要となる。

 ただ、アーサーにその能力はなかった。彼が差別する存在なれずに、常に差別される存在だったのは、彼の視点が常に自分の中にあって、主観する世界の範囲しか考えることが出来なかったからだと思う。また真面目すぎて、一生懸命生きている自分を馬鹿にするような真似が出来なかった。

   言い換えると、彼は相手に立ったり俯瞰して物事を捉えることが苦手なため、自分(≒悲劇)から視座を転換した時に、そのギャップから生じる差別・笑い(≒喜劇)の本質を捉えることができなかったのだ。チャップリンの言葉に沿えば、彼は自分の人生をクローズアップで近くから見つめることしかできず、ロングショットで眺められなかったのだ。

    だから、他人を笑わせるコメディアンになることが出来ずに他人に笑われ、彼の悲劇はいつまで経っても悲劇のまま形を変えず残ってしまうことになった。もちろん、彼の人生が悲惨すぎて笑えないものである前提はあるにせよ、その様子は彼がコメディアンとして舞台に立つシーンや、マレーの生放送で立ち振る舞うシーンで痛いほど描かれている。

    結局彼は、アーサー個人としての幸せも掴めず、コメディアンとしての幸せも掴めないことを、映画全編を通じて思い知らされることになる。

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笑われる存在から恐れられる存在へ

    何故アーサーはジョーカーになってしまったのか。これも笑いの構造から説明できるように思える。

    先ほど、共通の文脈や常識から外れた愚か者を馬鹿にするところから笑いは生まれると書いたが、その愚か者がまるで理解できない存在だとしたらどうだろうか。差別する側が差別される側から狂気や敵意を感じた瞬間に笑いは、得体の知れないモノに対する恐怖に転換されることになる。例えが適切かどうかわからないが、あのオウム真理教も認知され始めた当時はコミカルでおかしな宗教団体として社会に生暖かく受容されていたと聞く。その後だんだんとその狂気が顕となり、危険な存在として恐れられるようになったのは、誰もが知るところである。

    そう考えると、コメディアン(笑わせる存在)を目指しながらも見世物(笑われる存在)にされてしまったアーサーが、復讐として怪物(恐れられる存在)として生まれ変わったのは自然な流れだったのだと思う。全てを失ったアーサーはかくして、欲望と怒りの容れ物としてのジョーカーになった。

    彼のモデル、チャップリンの他の名言に、「何のために意味を求める?人生なんて欲望だ。意味なんかじゃない」という言葉があるのだが、なんだか『ダークナイト』でヒースレジャーが演じたジョーカーの思想と似ている。

    アーサーはチャップリンになれなかったが、人生に生きる意味を求め続けて何も手に入れられなかった男が達する考えとして、やけに納得できる気もする。

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映画の役割

 このような社会的(に捉えられる)な映画が公開されるなら、この映画が熱烈なリスペクトを捧げる『タクシードライバー』がそうであったように、現代の風俗のまま現代社会の風刺をがっつりとやってくれるのかと思ったが、『ジョーカー』がジョーカーというコンテンツとして、過去の名作チャップリンへのオマージュとして捧げられたフィクションとして成り立ってしまったのは物足りなく感じる。ここまで身に迫るドラマが描けるのであれば、ジョーカーの名を借りなくても十二分だったろうに、って。
 また、「この映画を観て、感化されて犯罪を起こす奴がいるかもしれない。危険だ」という声があるらしい。
 その議論の答えの一つは北野武が記者に「あなたの映画は暴力的であり、暴力を助長すると思いませんか?」と尋ねられて発した「じゃあ、何でおなみだ頂戴の良い話だらけなのに、一向に世の中は良くならねえんだ?」という言葉に委ねるとして、映画に感化されて愛情に包まれた世界を作るために僕は『アバウトタイム』を後30回は観ようと思った。

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