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#貝楼諸島より 参加小説『島でのんびり稼ごう!社宅つき!』

『犬と街灯』さんの島アンソロジー企画に参加しました。

#貝楼諸島より  参加小説

『島でのんびり稼ごう!社宅つき!』

「瞳の色、明るいんですね」
 そう言って、船着き場の老いた入島管理官は私の目を覗きこんだ。
「ご家系に外国の方がいらっしゃるとか?」
「いません、知りません」
 知りませんと言ったのは、もしかすると長い年月のなかで母国以外の出身者が家族になっていた可能性を、もしかするとその子孫であるかもしれない私こそが否定したくなかったからだった。管理官の口が臭いせいもあり尖がる私の声を聞いて、蒼(あお)が背中にそっと手をあてる。
「髪はそれはセンパツですか?」
「洗ってますけど」
「いえ、染めてますかあ」
「染めてません、地毛です」
 頷き、管理官は手元のシートに何かを書き込む。
「はい、それではそちらの方、お願いします」
 蒼がシートを渡す。
「えっと、同一の世帯では、無いと」
「違います、たまたま同じ苗字です」
「住民票を移すわけでもないし、今ここまで確認必要ですか?」
 おおごとにしてやれ。私はわざと声量を上げる。
「いえ、大丈夫です。蒼さんは黒目、黒髪、既往歴特になし、と。はいありがとうございました、ようこそ糸波(いとなみ)島へ」
 係員が近づき、私達の手首に薄いバンドを巻いた。私の手首にはベビーピンク色の、蒼にはペールブルーの色をしたものだった。
「あの時の感染症流行でかなり苦労しましたもので。こちらは管理上、入島に必須とさせて頂いております」
 申し訳なさそうな言葉に反して、バンドは引っ張っても簡単にはちぎれそうにもないしたたかさを持つ。この係員の口臭も強い。まるで韮の茂みを猪がかきわけて来るようで、口をゆすげば泥が流れ出るに違いない。この島のものを食べると、こうも臭くなるのだろうか。
 観光地でもないこの島には、蒼の希望で来た。私はしばらくぶりの休みを使って、ここで何もせずゆっくり過ごすことに決めた。だからあえてろくに調べずに来てしまったのだ。
 糸波島に二十年来の友人のベーコンが移住していることはミカジュンから聞いていたが、いざ連絡を取ってみるとベーコンは電波が悪いなど昔懐かしい言い訳をして、電話もメールもレスポンスが悪い。切れ切れになるやり取りの中、ありがたいことに部屋を用意してくれるという約束を取り付けた。
 入島管理局を出て左手に、島巡回ミニバス「なみぐる」の時刻表と巡回ルートマップが貼ってある。ミニバスは島の西側しか走っていない。スマートフォンを取り出してみると、3Gという文字がふらふら揺れる。
 ミニバスに乗り込むと自動アナウンスが「おとな一律百円です 料金は先入れです 一降り二乗り三発車 なみぐる発車します」と流れる。かざしたICカードは青く光って受理された。蒼のぶんもポンとかざす。
「蒼ちゃんさぁ、知っとったんやろ? 糸波島に入るんがあんなんやって」
 一気にささくれ立った心は、蒼に棘を投げつけたがっている。蒼は首を横にふり、「この島と潤、相性最悪やん」と笑った。「蒼ちゃんとさえ相性良ければいいから」と言ったところで蒼が「照れるて」と腕をつっつくので、「蒼ちゃんと糸波の相性な」と念を押しておいた。
 希望坂という名の停留所で降りる。停留所の前に、木綿豆腐のようなアパートが建っていた。希望坂停留所から見える景色には、そのアパートしか建っていなかった。後ろには椿と銀杏が茂り、アパートがそれらを背負っているかのようだ。ミニバスの音を聞いたのか、子を抱いた女性が出てきて「ハナジュン」と私を呼ぶ。
「ベーコン!今回はありがとう。こっちはパートナーの蒼」
「もうベーコンじゃないんだ。千葉って姓になったから。娘のメリ」
 子はベーコンの肩に上半身を預け、眠っている。
「でもベーコンって呼んでくれていいよ」
 ベーコンはアパートの101号室に案内してくれる。この島にはまだホテルや民宿が無いこと、現状、観光開発もしていないので、身元が明らかな人であれば借り上げ社宅であるこのアパートの空き部屋を使わせていることを、メリを起こさない程度の声で教えてくれた。
「いろいろ聞きたいことはあるけど、主人が帰ってきたら鍋するからさ、そのときに。陽がくれるまでちょっとサイクリングしてきなよ」
 アパート共有のものだという自転車を借りる。島の東は整備が終わっていない道路が一部あり、足場が悪いところもあるから行かないように、とベーコンに教わる。
 迷わないように、停留所を辿ってミニバスを追いかけることにした。道端には街路樹のかわりに唐辛子の茂みが並んでいる。いくつか過ぎる停留所とつがいのように、ベーコンの住まいと同じ豆腐アパートが建てられている。海大島ではそれらを災害後の仮設住宅として使っていた時期があった。ベーコン夫婦はあの豆腐から出ないのだろうか。
 そういえばベーコンがかつての方言を話していなかった。そういえばベーコンの口も臭いを放っていた。
「なんでベーコンってあだ名なん」
「旧姓が矢田部やったから。蒼ちゃん、小道に入らんで」
 落ち着きのない蒼のことだ。バス道から逸れたいだろうことはわかっていた。生き方からしてそうなのだ。それなのになぜこの糸波島の住みこみ仕事に興味を持ったのだろう。一つ所に腰を据えて仕事をしなくても、拾ってきたものを磨いて売ったり、素人ながら工夫して撮った写真を売ったりして、半人分くらいは上手に稼いできたはずだ。それに私がいる。蒼は無理して働かなくてもいい。
「砂利でタイヤパンクしたりせん?」
「大丈夫やとは思うけど、人のやつやし自転車はここまでにしとこっか」
 蒼はそう言い、小道に入って八つめのウンゼンツツジの茂みの前に自転車を停めた。ツツジの奥にはテツマツバや砂樫、葛藤などが、整えられることのない野良の茂みを作っている。森と呼ぶにはいまひとつ迫力が足りず、しかし植え込みとはとても呼べなかった。それは好き放題な茂みだった。葛藤からひらひらと躍り出たのは黒蝶だったのか、茂みが落とした葉だったのか、さだかではない。追いかけようとした蒼が、美しく転倒した。起き上がらず、「土に手をつくって久しぶり」と笑っている。そのまま地面をさすり、「あらじおおうがん」と呟いた。「え」と近づくと蒼が私の腕を引くので、私の眼は二十余年ぶりに地面を間近に見つめる。蒼がうねりをたたえた岩の砂を払い、「縄状溶岩」ともう一度言ってくれた。痛い痛いと言いながら蒼は岩に腕を押しつけている。
「縄模様のタトゥーいれようかな」
 蒼が人臭い私側の日々にいなくてすむならそれもいい。きっと変な柄のタトゥーは蒼を凡庸なものから守ってくれるだろう。

 夕陽がアパートの中をだいだいに染める。にんじんやさつま芋、唐辛子の輪切り、ベーコンの夫、千葉が釣ってきた魚のぶつ切りがベーコン家の鍋の中を泳いでいる。
「よく釣れるんですか、このへん」
「毎食うちんとこの会社指定のミールキットだと飽きっからね。根性で釣ってくるしかない。ま、男だからね、狩猟、狩猟」
 千葉は指で魚の骨を口からつまみ出し、皿のへりに貼り付ける。
「かっらい」
 私と蒼は辛さにむせる。鍋の魚をスープとともに啜ったことで辛みが喉全体に広がってしまった。
「西糸波は唐辛子がそこかしこに生えててさ。何にでもぽいぽい入れてたら麻痺しちゃったかも」とベーコンが笑う。ああ、唐辛子なのか、この島の口の臭いは。
「東糸波の社宅だとにんじんとかうまく成るのよ。んで、あっちの奴らがどさっとくれるわけ」
 千葉の言葉にベーコンがふんと鼻をならし、それきりメリの世話にかかりきりになった。メリ用に作られたにんじんスープを私も食べたかった。
「これって糸波の郷土料理なんですか?」
「この鍋? いやこの島にはもうそういう郷土のものって残ってないよ。方言とか食事とか祭とか、何もない。ここは人が住まなくなって売りに出された島だからね。うちの会社の人らと行政委託チームの爺さん婆さんしか今は住んでないことは確か」
「蒼がここの移住に興味持っていて。話聞かせてほしいです」
「移住ってことはイコールうちの会社に入りたいってことだよね。イコール二人で社宅に入れるし、イコール衣食住の衣以外がほぼ無料。作業着あるから衣も別に気にならなくなるし」
「潤ちゃんは海大島での仕事があるんで、来るなら僕一人です」
「別居ってこと? だめだよ、結婚してるなら一緒に住まないと」
「僕ら、いわゆる結婚ということだったら、してないです」
 ベーコンが部屋の端から「うちの社宅、夫婦しか入れないんだよね。結婚して潤がついてくればいいじゃん」とこともなげに言う。「じゃん」ってなんなのだ。彼女はいつから「じゃん」なんて言うようになったのだ。「じゃん」が気になってへどもどしている間に千葉が言う。
「そうだよ、子ども作ればいいじゃん。子どもできたらさすがに結婚するしないとか言ってらんないよ。うちの会社のイゾパラ、効くから、そっちに」
 そう言うと千葉は立ち上がり、冷蔵庫の上に積んだ箱からボトルを取り出し、こちらに差し出した。イゾパラのボトルには『糸波に伝わる男の宝 いぞの実配合』と書かれている。先ほどの千葉の話が真実なら、糸波に伝わる宝というふれこみは嘘だろう。宝を伝えられる人は絶えているのだから。
 ベーコンがイゾパラパウダーを蒼に渡し、子どもって太陽だよと笑う。千葉は子を作り稼いでこそ男だと、口から何本も魚の骨を出す。彼らの鍋から漂う野卑な匂いに、千葉の皿に貼りつけられた魚の骨に、彼らの笑いの裏側に透ける哀れみに、私たちが築いてきた心地良い日々を想像することさえしない彼らの明るい瞳に、疑いもなくまっすぐな普通を振りかざす黄ばんだ歯に、私の胸骨がぎゅうと縮められる。すべてを面倒に感じる。反論も説明も作り笑いも、彼らに与えたくない。鼻から息を吸うと、唐辛子を含んだ臭い空気が体内にのろりと流れ込む。胸骨をゆるませた今はただ、砂樫のざわざざざわという人を苛立たせる葉擦れの音が、日本語をまとっているだけだと感じられる。
 ニタニタした千葉が勃起力と言い出したのをきっかけに、蒼がいててててと腹をさする猿芝居を打ち、私たちは逃げるように借りた部屋へ退散した。玄関とユニットバスの白熱灯だけ点け、部屋を薄暗く保ったまま、私と蒼は歯を磨く。フロスをかけ、旅行用の小さなデンタルリンスをあけ、口をゆすぐ。布団とシーツは清潔だった。家事とメリの世話の間に、ベーコンが干して洗ってくれたのだろう。学生時代からベーコンは優しかった。今だって、布団を用意してくれる優しい人だ。彼女は優しくて、唐辛子を好んで食べ、千葉という姓になり、話し言葉が変わり、本当はもうベーコンというあだ名ではない人だ。
 翌日、早朝に蒼と東へ向かうことにした。海岸沿いではなく、島の中心をつっきる予定で歩く。白みがかった道は東へ行くにつれ黒くなっていく。
「イゾパラの会社、どうするん」
「社宅に住まれへんからなぁ。フルで働ける別の島、探す」
「海大島で探そうよ。やし、フルタイムは合わんと違う?」
「俺、いぞの実飲もうかな」
「話それとるよ」
「潤に養われるん、疲れた」
 何に疲れることがあるん、とは聞かなかった。海大島を出て私との日常を終わりにするということなのか、曖昧にしておきたかった。
「例えばやけど。俺だって自分のICカード持ちたいし。糸波にも自分の金で来たかった。金の話って切り出すほうが小さい奴みたいになるで嫌やけどな、自分が何もない人間なんやって思い知らされるんや、養われとるとな」
 蒼は、蒼の好きなように暮らしてこれたはずだ。
「蒼が大切やから、私が守りたくて」
 東から風が吹く。砂樫がざざと音を立てる。体内から唐辛子の匂いがせり上がる。
「一回、自分のことだっけ大切にしよう、な。お互い」
 木々が揺すられ、ざわめく。ンキーン、キューン、キュルーンと獣が鳴く。十頭ほどいるそれは猿たちだった。遠巻きにこちらを見つめ、近づくような、様子を伺うようなせわしない動きをみせる。
「刺激せんほうがいい」
 蒼がゆっくり後ずさりする。私の左腕を強くつかむ蒼の指のかたち、誰かこのかたちを腕に彫ってほしい、今すぐ。ずっと猿とにらみあっているから、そのあいだに。
 後ろにゆっくり下がりながら、猿たちを見つめる。猿の足には、薄い色のバンドがつけられている。私たちが港でつけられたような、薄い色の。

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