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夢を与える不必要な仕事

マカオにあるシルクドソレイユの演出家の作品ザ・ハウス・オブ・ダンシング・ウォーターに出演していましたアクロバットパフォーマー奥村あつしです。
このサーカスなどのショーはかなり盛り上がりいつでも人の心に多大な影響を与えることができますが時として不必要なものと言われるときがあるんです。

それまでは必要だと言われていたのに!!

この10年という短い間にも自粛という形で必要ではないと言われた時がありました

最初に結論

結局一番人間に必要なものを提供できるから。


このことについて少しお話をしようと思いますので

  • 自分の仕事に不安を感じている方

  • 人の意見に左右されやすい方

  • 自己肯定感を増やしたい方は

読んでいただけると幸いです。


目次

  1. この仕事を選んだ元々のわけ

  2. エンターテイメントと時代を考える

  3. 最初の夢

  4. 家を出たきっかけはコンプレックス

  5. 舞台俳優としての活動

  6. 災害に最も影響を受け需要が一変する職業

  7. 改めてこの仕事を選んだわけ


この仕事を選んだわけ


人に夢を与えたい。


そんな面接で言ったら一発で不採択されそうなくらいアバウトな事を言ってしまいますが自分たちと関わってくださる方々にその時間だけでもいいから今の抱えているものを忘れてもらいたい。
そしてかつて子供の頃に自由に思い描いていた夢や憧れを少しでも思い出してほしい。
そんな夢物語言いたいがためにこの仕事をしています。
正直こんなことを心から思っている人が五万といますがなかなか人前では言えないんです。
なぜかというと
誰でも言えるからです。
そう!逆に言えば誰でも言えるんです。


使い所とタイミングが大切


思考を教える団体などだったらその理念もしっかりとしていて厚い本を取り出して皆で共有することはできるのですが個人の俳優や表現者の理念は長々と聞いてはくれません。そもそも自己満としか捉えられない。
なのでオーディションのような現場では夢は熱く語るけど簡潔にまとめた理念や自分がいかに使い勝手がいいかを表現していく方がいいのです。
もちろん俳優や営業の方は少しおかしいくらいがちょうどいいので少しくらいなら押し通してもいい時もあるかもしれませんが(笑)

かつての俳優の末路

オーディション三昧の1年目に夢を与えるということを寝てても言えるくらい言ってました。
それが一番いいと思っていた役者をしている理由だったからです。
自分に明確な目的がないときはこの夢を与えたいという文言が一番しっくりくんですよね(笑)
それしかないから。


反対にこのことをいってしまうと自分のことも相手のことも何にも考えていなんだなと捉えられてしまうので注意が必要なんです。
誰も教えてくれませんからね。特にこのエンタメの世界は個人プレイなので自分で築いていくしか方法はありません。
あとは事務所に入って社長やマネージャーとのタッグで仕事をしていくしかないんですが面白いやつだなと思われない限り事務所にも所属できません。
なかなか演技力云々の前に人間を鍛えてかないとなかなか人とも会えないのがこの世界です。
逆に人間を鍛える現場なのでしっかりぶつかっていければそれなりに成果を残せる世界なんです。

エンターテイメントと時代を考える


エンターテイメントの始まりは諸説ありますが神様への捧げ物から来ているとわれています。
作物が収穫できた感謝を込めて神様がいらっしゃる天に向かって踊ったりするのです。それが花火へと発展していったり大きな神輿へと発展してお祭りになったと割れています。
お芝居もこの派生で人が神様を演じるようになり演劇ができていきました。
日本では昔から神様への舞から生まれ歌舞伎を通して庶民が見えるようになり落語や手品を見せる和妻などが発展していきました。
歌舞伎は特に現代でいうファッションリーダー的存在だったので歌舞伎役者が着ている着物に似てる着物が売れるようになったり俳優の似顔絵が売れるようになり絵師が爆発的に人気になったりして庶民の生活には必要不可欠なものになっていました。


最初の夢

子供の頃から人に夢を与えるということに憧れていました。
星座をその目で近くで見たくて宇宙飛行士になりたいと思った時も親は当たり前のように否定せず星座の本買うためのお金をくれました。
僕はずっと星座を覚えるために細く見ていました。

小学生の頃吃音症の症状が現れ人とうまく話すことができなくなったので喋らなくてもいい事をしたい。そう考えたときに絵を描く事を始めました。
インターネットも周りにない当時、学生生活の中で自分で決めて漫画を描き始めました。
画材も買って描いていくのですがなかなか自分の描きたいように描けない。
そんなもどかしさがあり何度も書くのもやめてしまったりしました。
夢を与えると言うことから自分がなかなかやり切ることができないのがとても苦痛でした。
人に伝えられないし話せない。そして絵も描ききれない。それでもなんとかしたいジレンマ。

家を出たきっかけはコンプレックス

吃音が出過ぎて喋ること自体が嫌になって苦しんでいた時にふと直したいと思うようになりました。
今までは思わなかったかというとそうかもしれない。
そこまでの余裕が僕にはなかった。
親が話せない僕を心配して人に相談し始めた。
それが嫌だった。
なぜか嫌だった。
人に言われることが嫌だったわけでもなかったが僕自身の悩みで親を動かしたことがなんとなく嫌だったんです。

もうこの姿は見たくないと思って僕は治す事を決め田舎徳島県を出ることになりました。

エンターテイメント業界にと思っていたわけではなくこの時は仕方なかったんです。自分が何になりたいとかではなくこの吃音をどうにかしたい。
それ一心でした。

舞台俳優としても活動

映像でもお仕事をさせていただきましたがダントツで舞台の方が多かったです。
この舞台というナマモノはその時じゃないと観ることができません。
今ではDVDなんかのデータに残してあとで観ることができますがこの舞台というのは数百年も昔から変わらないやり方でお客さんに観てもらっています。
同じ時間を共有しています。
2度と戻らない時間をお客さんは使ってくれています。
とても貴重な時間をですねえ〜。本当にありがとうございます(笑)
これは本当にすごいことなんですね。

そして生で行われる舞台にはハプニンングが付き物です。
セリフが飛んでしまったり(笑)カツラがズレたり(笑)あるべきものがなかったり(笑)編集されたものとは違ってそんなハプニングを回避しながらお芝居を続けていくのです。
もちろんハプニングはない方がいいですがハプニングがあるというハラハラしながら役者は様々なことを乗り越えていくのです(笑)
そして応援してくださるお客さんも舞台というもの含めエンターテイメントというものを必要と感じてくれていることを感じます。

災害に最も影響を受け需要が一変する職業


災害が起こるたびにこの職業は一気にいらないものへと変化します。
もちろん命とどっちが大切なんだ!?って言われたら命です!
それは言うまでもありません。
エンターテイメント含めテレビで流れるCMまでも自粛という選択を迫られました。
この違う人に演じたり人を驚かせたりする職業は人の命の危機に陥ったときに全く機能しなくなるのだなと感じました。
力不足と言われればそれまでですが仕事をしようとすると不謹慎だと言われます。
同じ境遇だからこそこの不謹慎という言葉が堪えました。
日本の文化がこうして何百年も続いてきて日本が特別他の国と比べて災害国と言われていますがこうした問題が起こった時どのようにして復興してきたんでしょうか?今はまた世界的災害に襲われて日本は少しずつ復活しているように思われますが安全を守りながら人々に笑ってもらうようにしながらそれでいて声を出させないようにして体を動かして自粛で固まった体をほぐしてもらいたいと思いながらそれでいて人との距離をとる。
正直かなり難しい(笑)
矛盾がかなり多いですからね。
人の評価を気にするエンタメが増えたような気がして災害よりも人の目の方が怖いと思ったこともあるのが正直なところです。
今まで通りに楽しいことを提供すると言うことが難しくなっています。


改めてこの仕事を選んだわけ


ここで改めて人に対して笑ってもらったり興奮してもらったり健康にしてもらったりする職業を続けているのはやはりこの仕事が一番人にとって大切なんじゃないかなと思っているからです。
今はかなり難しく考えてしまいますが今までも人に見て頂くというのはかなり難しかった。
それは変わらないしこんなときだからこそ見えてくることが気がしています。
学生の頃に意味わからず使っていた『夢を与えるため』はいい言い続ける意味があるのではないかと思っているのです。
人気者でもないし多くの人の心に刺さるようなことはできないかもしれない。
それでも1人でも多く1秒でも長く人に笑ってもらえるようなことが僕たちにできるのではないかと考えこの仕事を選んでいます。
もちろんお芝居やパフォーマンスよりも大切なことがあるのはわかっています。
その時は人間として人の助けをしていきたいと思っています。
夢を与えたいと思った人間は夢を与える存在であり続ける必要があるんです。
人間笑いが1番!
ということで今日も笑って過ごします。
変な文面で読みにくかったと思いますが読んでくださってありがとうございます。
笑って許してください(笑)

作者
奥村睦巳おくむらあつし
1986年11月20日徳島県出身
幼少期から吃音症に悩まされ克服するために上京し役者へとなる。
話せないことがきっかけで何回も挫折するも人も縁に救われ役者を続ける。
27歳の時に男子新体操で培ったアクロバットを使ってアクロバットパフォーマーとして活動を開始する。テーマパークや浅草、他劇場で活動する。
30歳の時にアルゼンチンのサーカス『フエルサ・ブルータ』の日本人メンバーとして500名の中から選ばれる。ここでパフォーマー兼MCとして喋る人間として確立し10ヶ月公演をやり遂げる。
その後沖縄のコメディショーに約1年出演後2019年にシルク・ド・ソレイユの演出家の作品『ザ・ハウス・オブ・ダンシング・ウォーター』の個人契約でマカオで半年の契約を勝ち取りショーに出演する。
現在大阪にてパフォーマー兼MC,そしてパーソナルトレーナーとして活動中


#この仕事を選んだわけ

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