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青臭いことを語る尊さ

祖父の戦争の記憶

私の祖父は「シベリア抑留」の経験者だ。
終戦直後、旧ソ連によりシベリアに連行され、4年半もの間、極寒の地で強制労働に従事した。

先日、その祖父と一緒に、天皇陛下の即位をお祝いする一般参賀に参列した。
前評判どおりのすごい人出で、2時間立ちっぱなしで行列待ちをしたが、「暑い」、「まだかな」と弱音を吐くアラサー(=私)をしり目に、祖父は92歳でありながら、終始、凛とした佇まいを崩さなかった。

参列の後、祖父と一緒にコーヒーを飲んだ。
その時に「シベリア抑留」のことを尋ねた(初めて尋ねたわけではないが、祖父はかつてはシベリア抑留についてあまり語りたがらなかった)。

祖父は、ぽつりぽつりと、
・1945年8月、森の中で旧ソ連軍に武装解除させられ、捕虜としてシベリアに連行されたこと。
・極寒のシベリアで、木材の伐採作業に従事することを強いられたこと。
・収容所の環境が劣悪で、ノミやシラミも湧いたこと。
・食事は、少しの黒パンとほとんど具の入っていないスープしか与えられなかったこと。
・過酷な生活のために衰弱して亡くなった人も少なくなかったこと。
・空腹に耐えきれず野草を食べることがあったが、それが毒草であったために亡くなった人もいたこと。
・作業中、伐採した木が倒れてくるのをよける体力がなく、下敷きになって亡くなった人もいたこと。
・いつ日本に帰れるのかわからないということが、とてもつらかったこと。
などを話してくれた。

祖父の可能性のこと

祖父は、シベリアから日本に帰国した後、大学に行って勉強をしたいと思ったそうだ。
しかし、祖父の生家は決して裕福ではなかったので、進学は諦めて警察官になった。
祖父はとにかく真面目で、聡明でもあるので、大学に進学していれば多くのことを吸収し、祖父の可能性はもっと広がったであろう。
祖父は教育熱心な人だが、おそらく、自分自身が十分に教育を受けられなかった悔しさが根底にあるのだと思う。

祖父は、20歳から25歳ごろにかけて、「シベリア抑留」を体験した。
戦争が起こっていなかったからといって祖父が大学に進学できたかはわからないが、少なくとも、20代前半という伸び盛りの時期に4年半にわたってシベリアで強制労働に従事をすることはなかった。
全ては仮定にすぎないが、そのことで喪失した可能性は確実にあるはずだ。

私はといえば、同じ歳の時分はノンキな大学生活を過ごしていた。
たかだか60年ぐらいしか違わないのに、祖父と私とでは、置かれた状況があまりにも異なる。
その事実は、重く受け止めるべきものだ。

「法の理念」のような青臭いこと

「基本的人権は尊重されるべきである」とか、「自由はみだりに侵されてはならない」とか、「人は平等である」などというと、なんだか青臭い。
これらの理念(法の理念)は人類の多年にわたる努力の結果として獲得されたものであり、不断の努力によって保持していかなければならないなどといえば、いっそう青臭い。

でも、たとえ青臭いと思われようとも、ときに、「個人の尊厳」とか「基本的人権の尊重」などといった理念を、まじめにいわなければいけないときもある。
また、これらに悖る(もとる)ような動きに対して、注意深く異議を述べていかなければならない。
いつもは平和ボケしている私も、祖父の話を聞いて、そのようなことをまじめに考えた。

正論はときに嫌われるし、反感も呼ぶ。
だが、「法の理念」には、「ならぬものはならぬ」と言い切ることができる強さがある。
その強さは、ゆたかな社会を実現するためには不可欠なものである。

新しい時代と「法の理念」

「法の理念」の持つ青臭さは、これからの時代において、いっそう重要性を増していくように思える。

グローバルな市場原理が「搾取」を生むとか、金融の高度化が富の偏在・格差の拡大を助長するとか、貧富の差が拡大して社会的な分断を生むとか、環境容量の限界を超えた経済活動が行われて気候変動が進行しているとか、生物の多様性が喪失しているとかいわれる。
社会主義や共産主義を実現したいという人でなくとも、今の資本主義はどこか問題があると考えている人は少なくない。

「神の見えざる手」に任せるだけでは持続可能な経済成長は実現できないという危機意識は、確実に世界的に共有されつつある。
2015年には、国連で「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択され、「持続可能な開発目標(SDGs)」の達成に向けて各国が行動することが宣言された。
SDGsの採択に加え、ESG投資(環境・社会・コーポレートガバナンスに配慮した投資)に対する関心も急速に高まっている。
SDGsの採択やESG投資の広がりにより、資本主義の参加者の意識も変わり、資本主義がより持続的なシステムにアップデートされることが期待される。

20世紀は資本主義と社会主義の世紀であったともいわれるそうだが、21世紀は、資本主義の暴力性を「正しさ」によって適切に制御することが問われる世紀ではないか。
そのような時代だからこそ、経済的価値のみならず、社会的価値(社会に対するインパクト)も重視される。
社会的価値を追求するとなれば、「目指すべき社会とは何か」とか、「社会において尊重されるべき価値とは何か」といった問いについてまじめに思考する必要が生じる。

そして、「法の理念」は、これらの問いに対する大切な指針となる。
だからこそ、これからの時代を考える上で「法の理念」のような青臭い正論は大切であり、それを語ることは尊いことなのだと思う。

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