見出し画像

被災地の声と復興ボランティアの形

東日本大震災の復興ボランティアで陸前高田、大槌、釜石に行きました。

今我々が行って物理的な復興のお手伝いが出来ることはとても限られていると思います。
それよりもむしろ、被災者の方々や語り部さんから当時のお話を聞いたり、復興の状況を教えてもらったりと、むしろ我々が学びに行く、という目的の方が大きいと思います。

震災から約8年半。
メディアでは東北の被災地のニュースが本当に減りました。
でも被災地では違いました。
宿泊した釜石のホテルでつけたテレビでは何度も復興に関連したニュースが流れていました。
被災地ではまだまだ復興の途上なんだと改めて実感しました。

印象的だったのは、私が勝手に想像していた
「こんなにも復興が進みました」
という予想に反して、まだまだ道半ばなんだという衝撃。
町の復興がいかに難しく、そして複雑かということを皆さんのお話から知りました。

僕は妻と震災から数ヶ月の時に何度かボランティアに行きました。
その時は今では想像もつかない状態で、とにかく人が必要。
民家から瓦礫や土砂をひたすら出したり、側溝をさらったり。
今考えると、そこには津波で流された方のご遺体があったかも知れないわけです。

そんな時に比べれば、町は見違えるほどきれいになっていました。
でも、まだ盛り土の工事中で住めない地域がたくさんあったり、延々と続く巨大な防潮堤の工事があちこちで続いていたり。
盛り土が終わった地域では市役所や民家や商店が建設中でした。
まさに、町を復興している途中という感じでした。

印象的だった被災者の方のお話があります。

震災直後、金もない、家もない、仕事もないという状態で行方不明の家族を毎日探すという極限状態。
そのときになぜ耐えられたのか、なぜ別の地域に移住しなかったのか、とよく聞かれる。
今思えば地域の仲間がいたからだった。
あの地獄絵図のような状況で、それでも地域の仲間が同じ境遇の中で一緒に声をかけあって頑張っていたから、不思議と何とかなると思えた。

このお話を聞いて、自分自身の地域の繋がりを考えました。
災害の時に精神的に救ってくれるのは保険でもお金でもなく、地域の人の繋がりなんだと。
町内会や学校、学童での活動はこういう時に生きてくるんだと。
実感として理解できました。

もう一つ、印象的だったお話です。

津波が押し寄せた陸前高田で3階建の建物の屋上で一夜を過ごした米沢さんのお話です。
米沢さんは、ご両親が避難した市民会館が津波に飲み込まれていく姿をその屋上から呆然と眺めていたそうです。

米沢さんは、彼が3月の寒さに震えながら一夜を明かした屋上に僕らを連れてきてくれた上で言いました。

ここからの風景を是非覚えていて欲しい。
(米沢さんのビル以外は全て取り壊されて今は更地になっています。)
そして3年後、5年後にまた来て欲しい。
そして是非立ち寄って声をかけて欲しい。
そうしたら、またこの建物に登って、屋上からの景色を一緒に見ましょう。
その時にはこの周りに野球場やサッカー場、市役所ができて、この建物は綺麗な緑に囲まれています。
そんな新生高田をみてほしい。
1人だけではなく、家族や恋人を連れてきて欲しい。
そして津波の恐ろしさを伝えていって欲しい。
これが最後の私のお願いです。

正直、僕の文では被災者の方々の心に迫るメッセージの10分の1も伝えられません。

だから被災地を見ること、聞くこと、伝えていくこと、これが今できる復興の一つの形なんだと思いました。

#東日本大震災 #復興 #ボランティア #釜石 #陸前高田

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?