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髪の毛

「あと一回髪を切ったら、さよなら」

 彼女は、長い髪の毛先を自分の眼の前に持ち上げて、僕に示しながらそう言った。彼女の瞳は、ファストフード店の窓から差し込む強すぎる光を反射して光っていた。毛先にわずかに残る、金色。これがなくなったらもう別れる、そう彼女は宣言したのだった。僕はズーーと音を立ててシェイクの残りを吸い上げながら、その瞬間を見届けた。
 僕らが付き合い始めてすぐに、彼女は金髪に染めた。

「そんなことする必要あるのかな……お互いもういいなら、すぐにでもいいじゃん」
「いや、それじゃダメなの」

 彼女も自分のコーラを吸い始めた。別れ話だというのに、テリヤキバーガーのセットを頼んでポテト用のケチャップもつけてもらうあたり、ああ、彼女だな、と感じる。
 どちらから言い出したというわけでもなかった。ただなんとなく、お互いがお互いに興味を失い始め、徐々に会う機会も減って行き、これは、きちんと話をつけたほうがお互いのためにもなるな、と思ったから、最後に会ってから一ヶ月近く連絡を取っていなかったこのタイミングで、僕が話を持ちかけたのだ。

「なんか、未練でもあるってこと?」
「だから、そうじゃなくて」

 さっきから何回も説明してるじゃん、と言わんばかりに面倒くさそうな顔をする彼女だが、僕はそれに関する説明を一切聞いていない。「それ」とはつまり、なぜ髪を切るまで別れるのを待つのか、という点だ。
 彼女は再びコーラをズズズと吸って飲みきって、こちらに向き直った。

 休日の昼下がり、あまり広くないこの店で、席はほとんど満員だった。
 僕らがいるのは窓際のふたり席で、僕から見て奥の六人掛けの席に、中学生くらいとみられる五人の集団がおり、カードゲームか何か、荷物を広げて話をしている。左斜め前のふたり席には、主婦かパート仲間と思われるおばさんふたりが話し込んでいた。お互いが話すとき、それぞれの発する言葉を汚いものとして見るような表情をした。自分の中に溜まった汚い何かを吐き出すように喋り、お互いにその汚さを確かめ合って共感し合っているようだった。

 彼女はしばらく考えてから、何かを表明するように言った。

「なんか。髪の毛って体の一部だし、私の体がまだ別れてないのに、私が別れちゃったらダメなきがする」
「はあ……じゃあ切っちゃえばいいんじゃない」
「それじゃダメなんだって!」

 彼女が少し大きな声を出したから、周囲にいた人々がこちらをちらちら見はじめた。
 そもそも、髪を染めるのも切るのも自分次第でどうにでもなるのだから、そんな風に「別の意思を持った何か」みたいな言い方をする彼女の気持ちが、僕にはわからなかった。それは、よくある男性と女性の「身体感」の違い、みたいなもので説明がつくものだろうか。

「まあ、でもどちらにしろ別れるんだから、どうすればいいの?」
「だから、これを切る気になるまでは一応、付き合ってることにする。だから、週一は会うようにしよう」
「その『切り時』ってのはさ、何か基準があるものなの?」
「そりゃまあ……私次第だよ」
「うーん、わかるようでわからないな……」
「いいの!だからとりあえずそういうことで」

 彼女は無理やり話をまとめたが、僕らは席を立つ雰囲気にもならなかった。そこから僕らは、大した話もしなかったが、なぜかお互いに改めて少し打ち解けあったような感じがした。別れることが決まって、何かしらの緊張の糸が切れたのだろうか。日が傾き始め、彼女の顔全体を照らし出すように光が差した。彼女は何度も、眩しそうにしてはわざわざ何度もその眩しい窓の外を見た。

 奥の席の彼らは相変わらず夢中になって体を乗り出してゲームの話をしていたし、おばさんたちは相変わらず、汚い何かの話に花を咲かせていた。彼らは、お互いをお互いにどう思っているのだろうか。生きる上で欠かせないと思っているか、あるいは一方はそうであっても、もう一方にとってはただの遊び相手、いくらでも代わりの効くただの話し相手なのかもしれない。もちろん、お互いにそうである場合もあるだろう。
 静かに、僕ら全員を照らしながら太陽が歩いていた。

 僕と彼女は、それから一時間くらい話してひと段落したので、出ることにした。店の前に出ると、彼女は伸びをしてこちらを向いて

「じゃ!」

と言って、すぐに僕の帰る方向と反対側を向いた。

 彼女の髪の毛が揺れて、先っぽの金色がふわりと風になびいた。あの金色が、僕だ。彼女が今日髪を切っても、来年まで切るのをためらっても、僕はそれでいいと思った。

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