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2月26日の礼拝の内容です。

名古屋北教会・礼拝説教   創世記28:10~28「ヤコブの祝福」    2023.2.26

 先週の2月22日の水曜日は、灰の水曜日であり、教会暦は、イエス・キリストの苦しみを覚える受難節に入りました。私たちは、この時期に、私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス・キリストの苦しみを覚える時です。神の子イエス・キリストは、私たちのすべての苦しみや悲しみや悩み、そして罪を味わってくだいました。そして、十字架へと向かうのです。私たちが負うべき罪を、イエス・キリストは、代わって負ってくださり、十字架につけられて苦しまれ、そして死んでくださったのです。もちろん、3日目には復活してくださるのです。神の救いとは何かと思いながら、この受難節を過していきたいと思います。

 今日は、創世記から神のみ言葉を聞いていきたいと思います。聖書の神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神といわれています。今日は、このヤコブをとりあげてみます。このヤコブの歩みを通して、神を知ることを考えていきたいと願っています。私たちが神を知るということはどのようなことでしょうか。それをヤコブの歩みからみていきたいと思います。ヤコブは、父イサクと母リベカの子として生まれました。ヤコブは双子として生まれてきました。兄はエサウ、そして弟がヤコブでした。父イサクは、イスラエルの族長でした。父イサクの後継者は、兄のエサウが継ぐはずでした。長男が後継者となるのです。そのような流れでした。しかし、実際には、後継者になるのは弟ヤコブでした。どうして、そのようになってしまったのでしょうか。

 兄エサウは、赤くて、全身が毛皮の衣のようであったとあります。やがて、巧みな狩人で、野の人になったとあります。ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くことを常にしていたとあります。双子でありながら、二人はまったく違うのです。族長としての権利といいますか、それは長子としての権利と祝福につながっていきます。母のリベカは、ヤコブを溺愛します。父イサクはエサウを愛するのですが、その理由は、エサウがとってくる狩りの獲物が好物だったからです。

 そして、問題が起ってきます。弟ヤコブが兄のエサウの族長としての権利を奪おうとします。エサウが狩りに出かけました。しかし、その日は何もとることができませんでした。空腹で帰って来たのです。ヤコブは煮物をしていました。空腹で帰ってきたエサウは、ヤコブにその煮物を食べさせて欲しいと頼みます。ヤコブは食べさせてもいいが、その前に族長としての権利を譲って欲しいといいます。エサウは、目の前の煮物しか見えていません。簡単に「いいよ」といって、煮物を食べてしまいます。目の前の食べ物欲しさに、簡単に族長として権利を渡してしまっています。そして、族長のとしての祝福です。父イサクは、自分が高齢になり、後のことを考えて、エサウを呼び、族長としての祝福を授けたいといいます。しかし、その前に、狩りの獲物の肉が食べたいから食べさせてくれ。食べた後で、祝福を与えるいうのです。祝福してから、その後で食べればよかったのに、逆になっています。それで、エサウは野に狩りに出かけていきます。

 そのことを知った母のリベカは、すぐにヤコブをよんで、すぐに対応するように言います。家畜を料理して、それをヤコブが父イサクのところに行きます。ヤコブは、父イサクのところに行くことをためらいました。それは、自分がエサウではなく、ヤコブだと分かってしまえば、大変なことになるからです。しかし、母のリベカは、無理やりに行かせます。自分がその責任を取るとまでいっています。リベカが用意してくれた家畜の肉の料理を持って、ヤコブは父イサクのもとに行きます。その前に山羊の毛皮を着て行きます。結局、父ヤコブは、一時疑いました。お前はヤコブではないかと、ヤコブの肌を触るのです。エサウが毛深いからです。見抜くことができなかった父イサクは、肉料理を食べてから、祝福を与えてしまいました。その後で、エサウが野から帰って来るのです。すべては終っていました。ヤコブは兄エサウがもらうはずの族長の祝福を奪ってしまいました。

 母リベカにしても、弟ヤコブにしても、父イサクの族長の権利と祝福が欲しかったのです。ヤコブにしてみれば、自分の願いが適ったわけです。すべてが手に入ったとなるはずでした。しかし、現実はそう甘いものではありませんでした。すべてを奪われた兄エサウは激怒して、弟ヤコブを殺してやるとまで思わせるのです。このまま、ヤコブが家にいれば、兄エサウから殺されてしまう危険性が起ってきました。ヤコブが生き延びるために、自分の家から逃げて行かなければなりません。遠く、母リベカの兄ラバンのもとに逃げることになります。

 今日の聖書の箇所は、ヤコブが逃げていく場面です。ヤコブはすべてを失ってしまったのです。族長の権利と祝福も家も、そして、兄エサウから命を狙われているです。ヤコブは振り返りながら、もしかしたら、兄が追いついてきて、自分を殺そうとするのではないかという恐怖を味わいながらの逃避行でした。それまで、ヤコブはイスラエルの神のことは知っていたと思います。父イサクが、神を信じていたからです。ヤコブは神のことを知識として知っていただけでした。ヤコブは自分の家から逃げて、遠くハランまで逃げて行きます。その道の途中で、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことになります。ヤコブは石を枕にして、その場所に横たわります。ヤコブにとって、人生の中で一番つらい時だったと思います。先は見えない。すべてを失ってしまった。兄から命を狙われている。自分のしたことですが、このような悲しい結果になってしまったのです。

 その場所で、ヤコブは夢を見るのです。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神のみ使いたちがそれを上ったり下ったりしていたのです。つまり、神が天から地に下りてくださったのです。そして、ヤコブのもとにやって来られるのです。そして、神はヤコブにいわれます。

創世記28:15
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

 このように神は天から下りて来て、野宿しているヤコブに語ってくださったのです。ヤコブは、その神の御声をはっきりと聞くことができました。ヤコブは眠りから覚めていうのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」と。

 ヤコブは、この神の声を聞いて、立ち上がっていくのです。ヤコブは神を知ったのです。神と出会ったのです。その後、ヤコブの人生は波乱の歩みをしていくことになります。その苦難の時には、神の言葉を思い出し、立ち続けて歩むことができました。神はどうして、アブラハムを、イサクを、ヤコブを、イスラエルの人々を選ばれたのでしょうか。申命記7:7では、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他の民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他の度の民よりも貧弱であった」と書かれてあります。神は、地上で最も数が少なく、貧弱だったイスラエルの人々を、神の民としてくだしました。最も言えば、最も罪深い民だったからともいうことができると思います。ヤコブは、自分の人生の中で、最も辛い状況の時に、神と出会うことができました。神ご自身が、ヤコブに語りかけてくださったのです。そして、ヤコブは本当に神と出会うことができました。神を知ることができました。

 さて、私たちはどうでしょうか。私たちの人生はいろいろです。1人1人違う人生があります。教会に導かれた時、洗礼を受けた時、どのような状況だったでしょうか。自分自身の歩みを振り返った時に、一番辛かったのは、高校生の時でした。友人の自殺などいろいろな困難があり、深い絶望の中にありました。そのような中で、聖書の言葉に救われて、東京神学大学に入ることができ、この名古屋北教会に夏期伝道実習に来ることができ、素晴らしい出会いがありました。そして、神学校を無事に卒業して、今は、瀬戸永泉教会の牧師として働くことができています。時は流れていきます。愛知県に来て、名古屋北教会の先輩方の死に遭遇することがありました。いつか人は死ぬものだということを実感しました。やがて、私もその時を迎えるのでしょう。それまで、地上の時間が許される限り、牧師としての働きをしていきたいと願っています。今日は、このような機会を与えてくださり、感謝しています。名古屋北教会のために、集う教会の皆様のために、そのご家族のために、また山田牧師ご一家のために、神の祝福が豊かにありますようにと、祈ります。

祈り 神よ。名古屋北教会に招いてくださり、教会の皆様と共に礼拝を守ることができましたことを心から感謝します。神との出会いに感謝します。イエス・キリストとの出会いに感謝します。そして、名古屋北教会との出会いに感謝します。神のみ言葉をいつも心の中に蓄えて、より豊かな人生の歩みをすることができますように、守り導いてください。ここに集う1人1人が、神との出会いを大切にし、生涯が神と共にあることができますように導いてください。名古屋北教会の上に、山田牧師ご一家の上に、あなたからの恵みと祝福がより豊かにありますように祈ります。この願いを、イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

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