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言わない「言霊」。

声に出した言葉は、魂が宿る「言霊」となる、と言われる。

「音」は空気を震わす振動。喉を震わせ、己の耳から入り、自分以外の誰か、何かに届く振動。届く先に何かしらの影響を与え、現象となって現れる、と言う。

「言霊」となる前はどうだろう。心で思ったこと、が先に在るはずだ。
では音とならない「言霊」は、「霊」=「魂」。
心で思ったことは、「魂」そのものではないだろうか。


先日、娘3が、こんなことを言った。厳密には、ピアノに行く道中に、メールで送ってきた。

「ピアノに行きたくない」
「人生やめていいですか」
「てか、もうぜんぶめんどくさいです」
「最近学校でも楽しくないし」
「スイミングだっていやだし」


ピアノの習い事の直前、宿題やった?の私の声掛けに、一気にテンションだだ下がり。難しい、習ってない、分からない、無理、できない。宿題を拒否するありとあらゆる反応をして、挙句の果てに、「ピアノ行かんっ」て言い出した。

娘3のピアノは、実は、1年前から始めて、何度も放棄しそうになりながらもその度になだめ、すかし、なんとか続けていたものの、冬になる頃、リタイアの決断をした経緯がある。
そして3年生になってからまた始めたい、と言い出し(-_-;)、幾度も対話を重ね、勇気づけをしてリスタートを切った。

今回のリスタートにあたっては、1年前のわたしとは違う覚悟があった。
・弱みを受け付けない
・何と言おうと、1年間は続けさせる
・泣いても拗ねても取り合わない
・自分で「やりたい」と決めた気持ちと対決させる
やってたらできる見通しはある。やり遂げる環境はあり、他者に依存するものではない。1年間、やり通した時の達成感を、味合わせたい。

以上の覚悟から、
わたしは、娘3の「行きたくない」を冷静に、はねのけた。
はねのけた結果の、あのメール。

口から発せられたものではないにせよ、心で娘3の「魂」の想いに違いはない。立て続けに送り付けられるひと言限りのメールを開くたび、わたしは天を仰ぎ、ズキンと痛む胸の痛みとやりきれなさをぐっと噛みしめ、そして返信、しなかった。

娘3が無事にたどり着いたか、ピアノの先生に確認し、あとは先生に任せることにした。


ーーーー30分後、ピアノレッスンを終えた娘からメールが来た。


復活(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


だって(^^;)
あーー、また振り回されたなーって思った。
そして、あんなこと言ってごめんね、って言ってくれた。
確認すると、やっぱり、ピアノも、スイミングも、学校も、楽しいんだってさ。ほっと胸をなでおろし、脱力する。


ほんとは、不安で仕方なかった。
娘3の自立を促す必要な関りだと自分を勇気づけ、覚悟を持って娘3を突っぱねた。それでも、何かあったらどうしよう、わたしの対応が間違ってたらどうしよう、大丈夫かな、という不安に押しつぶされそうな気持ちでいた。小3の子があんな言葉を発するなんて、と。

ピアノの先生の適切なフォローと、先生に任せられるという信頼関係があったことに、本当に救われた。そして今回は、わたしの対応も結果オーライかな、と。

「解」のない子育ては、いつだって手探りだ。


ちなみに、ピアノを一度やめるまでの関わりは、
・弱音を吐いたら受容し、寄り添う
・基本的にはやめたいならやめれば、というスタンス
・自分で始めたから、やめるのも自分次第
・やめた時、何を失うかを考えさせる
・続けることのメリットを伝える
という感じ。


子どもは、「思ったこと(魂)」を心にとどめずに発することがよくある。でもそのとき、発する相手をちゃんと選んでいるな、と思う。「魂」を受け取ってくれる相手かどうか判断して、言霊を発しているなって。子どもはみな、ほんとに賢い。


1つ、試してみた。
心で思うことを、「言霊」にせずに、ひたすら思ってみる。大人だから、「言霊」にすることはとても憚られるけど、心に確かに生じる、いわゆる「負」の言葉。「内なる悪い子ちゃん」が発する声を「魂の叫び」とし、思いっきり叫んでみた。心、の中で。


(いなくなれ!)
(どっかいけ!)
(死ねばいいのに)
(こんなやつ、いなくなってしまえ!)
(この人がいない人生を歩むために、がんばろう!)


流石に、こんなことを心で叫んでいたら、その相手を目の前に、わたしの表情は硬く、不機嫌極まりなかった。今までは、(そんなこと思っちゃいけない!)という「内なる良い子ちゃん」の声に遮られ、「内なる悪い子ちゃん」がちょこっと顔を出しては出番なく引っ込んでいたところ、今回は思い切って、思いっきりこの「悪い子ちゃん」にフォーカスしてみたわけ。だってこれも、「魂」だから。

そしたら、とっても不思議なことが起こった。

娘3ほどの短期のリカバリ力はなかったが、それでも翌日には「うちなる悪い子ちゃん」は勝手に影を潜め、その翌日には、心から、その相手を大切に思う想いが芽生えた。

新鮮だった。

自分の感情にフォーカスしきることで、負の感情が昇華されたのだろうか。「言霊」にしなかったことで、わたし自身の問題として昇華できたということだろうか。誰も傷つけずに済み、また、自分も無傷だった。


「言霊」の本質は、「魂」にある。
言葉にしない「魂」をどう扱うか。
発する「言霊」にどう責任を持ち、発せられる「言霊」をどう受け取るか。

どちらにせよ、自分の想いはすべて「魂」であることを理解し、それを「言葉」にしていいか否かを判断できるだけの成功経験と失敗経験を、子どものうちにたくさん積んでおければいいな、と思う。

子どもは時に、残酷だ。
それは幼いほど、魂がむき出しだからに違いない。

ジェットコースターのような魂の言動に、傷つき、心を痛め、対応に迷い、不安になる大人がいる。子どもとリレーションを築いている大人ほど、そのジェットコースターに同乗する機会が多く、振り回され、疲れてしまうことが多いと思う。

子どもは、魂の言動を発する相手を選んでいる。
大人はその子どもから選ばれている事実をまずは自覚しよう。傷つき、心を痛め、対応に迷い、不安になりながらも、子どもと共に成長しよう。

そのために、いろいろ一人で抱え込まないようにしてほしいなって、切に思う。

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育児日記

これまでの経験で、なんとか自分の役割に気づくことができました。与えられた役割を全力で全うするため、「わくわく」と「ドキドキ」のど真ん中を走ります。 サポートでの勇気づけ、素直に嬉しいです\(^o^)/