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鎌倉殿の13人 感想②


第ニ回「佐殿の腹」

風雲急を告げる北条の館前から、第二話開始です。

ところで、このシーン振り返っていて気づいたのですけど、祐親さん「戦になるぞ」と北条を脅しながら、表情には時政を気遣う色があるのですよ!
振り返らないと気づかなかった微妙な演技に感服です。

この時代、こういった小規模な紛争はしょっちゅう。
しかも身内やご近所さんとの諍いから、というのが日常茶飯事でした。
みんな、鯉口がゆるいよ〜😰
ちなみに伊東家は3頭騎馬なのに、北条家は誰一人馬に乗っていない。(後ほど、時政のみ騎馬だと判明)
両家の財力の差が分かる場面でもある。
さぁ、どうなる北条家!?

というところでOP。
何だろうね。
同じ音楽。同じOP映像なのに、この辺りはワクワク感が半端ない。

伊東家と一触触発状態の北条家。
それを助けたのは大庭景親。
こちらも騎馬は3頭。しかも揃いの武具を付けていて、圧倒的な軍事力(財力)を見せつけます。
「身内の諍いなんて見ちゃおれないぞ」とか言っている景親ですが、そう言う貴方も兄と所領争いしてません?😒
以下、大河ドラマでは無視された景親の兄、景義をざっくり紹介します。

大庭景義
保元の乱時に義朝配下として参戦。その際為朝の矢を足に受け、歩けなくなったので引退。
ただし、「あの為朝の矢を受けたのに死ななかった!」と英雄視されていて、戦には出ないけど留守役をよく任されていたらしい。
宴会の席でも、「保元の乱の時の話をして!」とせがまれる場面がある。

この引退時に弟に大庭家を譲るのだけど、歩行困難以外は本人健在だし、息子が大きくなると息子に大庭家を継がせたいし、ということで景親との仲は微妙になっていた。
吾妻鏡では、「俺は源氏、お前は平家で、勝った方が負けた方の命乞いをしよう」と真田家の犬伏の別れのようなことがあったらしいのだけど、その後頼朝が「弟の命乞いはしないのか」と尋ねると「頼朝の採決に従います」と景義は景親の命乞いをしなかったから、兄弟仲は推してしるべし。
こういった揉め事はどこの家も抱えていて、あの三浦義村と和田義盛も決して仲が良かった訳ではないし、伊東祐親と工藤祐経の争いも、元は家督相続から端を発している。
親兄弟は、一番身近な敵だったんだよね。

その後景義は鎌倉の重鎮に、と言うより為朝との武勇伝が有名なため、鎌倉の守護神扱いに。
さらに、戦略アドバイスなどもしていて、奥州征伐では、勅許無く戦っていいか悩んでいる頼朝に「私闘だからOK」という助言を与えて頼朝に喜ばれている。

と、こんな景義ですが、晩年富士の裾野事件に連座して岡崎義実と共に蟄居させられている。
息子は和田合戦の時に和田方に付いているし、北条氏とソリが合わなかったのかも。

あ、ちなみに、島津家始祖誕生にも一役買っているので、気になった人は「大庭景義」で検索してみて。

閑話休題

さて、大庭景親の仲裁で伊東家と北条家の争いは無くなり、頼朝は北条家が預かることに。
八重は江間次郎の元に嫁ぐことも決まった。
だが、何とか頼朝と八重の関係を繋ぎ止めておきたい伊東祐清と北条宗時は、比企家で頼朝と八重の逢引を画策します。

ところで、大庭景親の仲裁が終わり北条家から帰る祐親を工藤祐経が襲うシーン。
曽我物語にも描かれた、後の大事件に関わる大きな伏線なのだけど、最後までキチンとした説明が無かったよね。
ココで伊東祐親の長男、河津祐泰は工藤祐経に殺されています。
「雑魚に構うな!」ってお父さん言ったのに深追いするから😨

突然頼朝と八重の逢引場所に選ばれた比企家。
比企能員の妻が「どうしてココなの?」と不満タラタラ。
私も「何でいきなり比企家? 流石に伊豆から武蔵は遠すぎない?」と不満タラタラ😑
いや、ホントに。
ここで道が言っている通りもっと近場に逢引場所はあったと思う。
安達盛長の家とか(安達盛長の妻は比企尼の娘で、おそらく頼朝と乳兄弟だったのでは。比企尼の娘の中で一番頼朝と仲が良く、景盛や島津家の始祖は頼朝の子という俗説が生まれたほど)。
土肥実平の家とか(土肥実平の息子、土肥遠平は伊東祐親の娘を妻にもらっている。実平の妹(姉)も祐親の妻になっている)。
いっそ、大庭景義の家とか(懐島郷(現・神奈川県茅ヶ崎市)に隠居していた)。
比企尼という存在を説明するためだとしても、ちょっと無理矢理すぎる。
もっとも、比企家で逢引を祐清が提案したならあり得るか🤔とも思ったり。
祐清の妻は比企尼の三女なので、母親に手を貸してほしいと頼むのは有りだと思う。

もう一つ、比企能員の妻が不満タラタラなのも納得がいく。
彼女は比企家の人間ではない。
比企能員には妻が複数人いたから誰がモデルなのか分からないけど、渋河兼忠の娘ぐらいかな?
渋河家は上野国の有力御家人。他にも児玉党(武蔵国の最大派閥)・片山行時の娘や三浦氏の娘なども妻にいたらしいけど、みんな比企家の人間ではない。
この頃の女性は結婚しても婚家に入らず、所属は実家のままだった。
工藤祐経の妻や八重が実家の意向であっさり離縁しているのは、妻の所属が実家だから。
だから「比企尼が頼朝の乳母なんて、私には関係ないわ!」となってもおかしくない。

もっとも、宗時は他にも意図があって頼朝を(八重をエサに)比企家へ招き寄せようとしていたみたいだから、一応整合性はあるかなぁ😅
それを察した頼朝は、行くのを渋ったみたいだし(頼朝に八重への思いが無いわけではないことは、後で分かる)。
ただ、こういうちょっとした違和感を色々理由を付けて納得していったことが、後々私の中で尾を引いていくことになる😮‍💨

最後に、この回は直垂三段活用が私にとって嬉しい回でした。
通常時、袖や裾、胸元に垂れ下がっている紐を、
1.縛って、足首や手首に巻く。
2.袖を縛った紐をそのまま首に掛けて襷掛けにする。
3.片袖を脱いでその袖を胸元の紐で結ぶ
特に3番目は知らなかったので、ほほう🧐としげしげ眺めてしまいました。
江戸時代には武士の正装でも、この時代にとってはジャージかジーパンだものね。

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