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多様性を認めようマン

最近気に喰わないのが『多様性を認めよう』っていう言説ね。肌の色、性別、宗教、国籍、障害、価値観、そういった違いを認めていろんなものを受け入れる社会を目指すべきだ的なこと言ってるんだけど、何か違う、そうじゃない。

多様性を認めることの本質は、もしその社会が同じような価値観や考え方を持つメンバーで構成されている場合、みな同じであるがゆえに誰も解決できないような問題を、多様性を認めることで回避あるいは打開できる可能性をその社会が持つというところにある。

わかりやすく例えるなら、周りの顔色を伺って顔を立てるよくいる大衆迎合型の政治家ではなく、強い信念と圧倒的なリーダーシップで突き進むレアな政治家でなければ大きな改革ができないというように、社会的には煙たがられる厄介なアノマリー(異分子)がその社会が次に進む可能性を持っているということだ。

つまり、多様性を認めるということは、社会が抱える問題を解決できる可能性を有するという点で社会にとっては必要不可欠な要素ではある。しかし、必ずしもワタシタチにとってプラスとは限らないし、ましてやマイナスであるとわかった場合、今現在そうしているように、ワタシタチはアノマリーを積極的に受け入れようなんてしない。

多様性を認めようマンはワタシタチが「気持ち悪い」「なんかヤダ」といったアノマリーに対する偏見や先入観を言葉にしようものならすぐに反応して叩く。しかしながら、ワタシタチに偏見や先入観をあることを認めず何もなかったかのようにした先に真の相互理解などあり得るのか。

私は『多様性を認める』という言葉は、『ワタシタチがアノマリーに権利を認める』というようなナニ様的な意味ではなく、『アノマリーそれ自身が自分のことを社会にとって重要な多様性の一部であると認める(自覚する)』という意味で捉えている。

差別はダメだから違いを認めようみたいな子どもの道徳みたいな理屈じゃなくて、アノマリー自身が自分の良さを認めてそれを主張していかないことにはワタシタチの偏見や先入観は変わらない。私はワタシタチはそういうやつらだと考えている。

ライター individualizer



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