「日の名残り」

原題: The Remains of the Day
監督:ジェームズ・アイヴォリー
製作国:アメリカ
製作年・上映時間:1993年(現在特別再上映) 134min
キャスト:アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、ジェームズ・フォックス、クリストファー・リーヴ、ヒュー・グラント

 カズオ・イシグロ氏の本を読んだ後、数年して映画化された作品をネットで観ていた。今回期間限定再上映は映画としてのスタイルは同じであっても本来のスクリーンで楽しむことが出来うれしい。
 原作本がある場合の映画化では、未だに本と映画の内容に差異がある云々を耳にすることがあるがそれは原作者自身が映画監督にならない限り解消されない部分であり問題外。どちらが良い、と比較する類ではないと私は考えている。偶然にも読後感に近い印象がこの映画監督の映像で再現され(監督とイメージの共有があり)原作の存在は気にならずに映画を観られた。

 初回と違う観方が二点あった。国は違うがマガジン「Dublin」の『Sligo いよいよスライゴー』に記したあの通りからエントランスへ続く風景、日本建築と異なり石の重厚感と冷たさを抑えるように配置された内装等を映画冒頭で観たときは、やはり鑑賞の時臨場感に違いが出てくる。
 もう一点は本の再読同様に映画も時間を経て観ると見落としていた幾つかの部分に気が付く。

 執事スティーヴンのダーリントン卿に仕えていた1920~30年当時を中心とした回想と家主を失い屋敷が人手に渡りながらも名門オックスフォードのダーリントン・ホールに使える現在1956年を描きながら、ヨーロッパと新興国アメリカ、第一次世界大戦後ナチスとイギリスの絡み、体制と個人といった政治面、父と子、不器用な愛等の人間の性(さが)、作品の中心に通る貴族社会を見本とした『品格』と重層的に構成していく。

 それほど遠くない第一次世界大戦後のイギリスでは階層社会は歴然と残り、それはこうした屋敷という小社会にも家令を筆頭として執事、料理人、従僕、下男、ハウスキーパー、レディーズメイド、メイドとあった。定められた階層の中で生きることへの不満等を描く作品ではない為、こうした部分は広大な屋敷を動かす人々という形で淡々と彼の仕事風景が挟まれていく。
 会議だけが外交ではなく、夕刻に開かれる会議後の食事もまた外交の重要な位置にある為に招く側は銀食器は鏡のように磨き、カトラリーの配置にまで細心の注意が払われる。このような一つ一つのもてなしの総合評価がここではダーリントン卿に最終的におりてくる。陰である従僕の彼らはその評価を自分たちの誇りとしているように映る。どこかの国にある小学校運動会での「みんな1位」とは違う。みなが主役でなくとも満たされる部分はある。

 スティーヴンの父もまた執事であった。最後まで執事を全うしようとする姿、執事を誇りとしている姿に息子の彼は理解しつつも年齢故に失敗をしてしまう父を立場上庇い続けることはできず苦悩する。父との関係はそれほど深くは扱われていないが、映画の前半と後半でスティーヴンが変化を見せる辺り父の存在は大きく影響している。

 映画「マイ・フェアレディ」でも描かれるようにイギリスでは階級によっても言語が変わり「話し方」で氏が知れる。日本の家紋にあたるネクタイのデザインもまた家柄で変わる。服装でも階級が透けて見える部分を20年ぶりにスティーヴンと思うような結婚生活を送られなかったケントンが会うシーンで垣間見る。

 執事という仕事柄、身に付いてしまった品格であっても人を使う側と「使われる側」が違うことも悲しいまでにアンソニー・ホプキンズ氏は演じる。
 「The Remains of the Day」一日のよき時間は、日が暮れる間際ともいわれる為か後半スティーヴンがケントンを訪ねるシーンに夕暮れが描かれる。それは風景だけでなく、年齢を重ねたスティーヴンとケントンにとっても人生の良き時間である筈。
 影として「主張をせず」人生の大半を終えようとしている時、仕事から離れた個人の時まで「こころのまま」振舞えないスティーヴンは振り返った全てを後悔するのだろうか。
★★★★

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ave_maris_stella

真夜中の秒針の音を消して、静かに誰かにこの言の葉が届きますように

映画Ⅱ 映画館上映を中心に

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