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◇Drogheda Ⅱ

 Newgrangeへ行く途中渡ったボイン川、そのボイン川河口にDroghedaは位置する。
 アイルランドに興味が無い方は先ずこの国の位置からぼやけている可能性がある。アイルランドからみると、「アイルランドの隣」にイングランドは在るが、アイルランドはイングランドの隣りに在ると表現されることが悲しいが圧倒的に多い。
 その影響もあるのか、アイルランドでは英語のイメージを持たれる。実際にはイングランドとの繋がりはなく、自国の言語を持っている。アイルランド語を辿るとゲール語に辿り着く。ゲール語名を強引に英語にあてている為発音が難しいことが多い。*北海道の地名にこの関係は似ている
 Droghedaもドロヘダ・ドローヘダ・ドロエダとカタカナでは様々な為、アイルランド地名はアルファベット表記を基本択んでいる。

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 Droghedaの観光案内では自らをあまり宣伝せず古代遺跡への玄関と観光起点に留まっていた。しかし、実際散策して見ると足が止まる風景に出会う。
 上の写真はLaurence St.の東端にあるSt.Laurence Gate(セント・ローレンス門)。14世紀に造られたこのような門は、元は町の四方に在ったそう。
 830年代にはヴァイキングに襲われ、その後はノルマン人に征服され、その後はイングランドに手を出され圧政に苦しむ。
 門の中に入ることは出来ないが、外観だけでも十分に歴史に耐えたことを伝えてくれた。その歴史を生きた門が現代生活の中にも生き、車が通り抜ける風景は印象的であった。

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 St. Peter's Roman catholic Church 聖ピーター・ローマカトリック教会
 1641年9月イギリス軍人オリバー・クロムウェルがアイルランドを侵攻し、住民を大量虐殺する。その街の中心に建っているのが聖ピーター・ローマカトリック教会。
 此処には、大司教セント・オリバー・プランケット(1625年-1681年)が眠っている。彼はDroghedaに長く住み学校開設他地域に貢献しながらも、当時カトリックは禁止されていた為、最終的にはロンドンでプロテスタントの人々に手によってイングランドに対する反逆罪に問われ無念にも処刑される。ご遺体(聖遺物)はドイツ、ローマ、Armaghへ渡り、1921年6月29日に聖ピーター・ローマカトリック教会にやっと帰られた。

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 ゴシック様式のファザードはこの地域で産出する石灰石で造られている。

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