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エリック・カルメンから日本のファンへのメッセージ

『The Essential Eric Carmen』は、2014年4月にリリースされたエリック・カルメンの45年間の軌跡を集大成したオールタイム・ベスト・アルバム。日本盤の発売は本国盤に遅れること3か月となったが、3か月待ってでも日本盤を手に入れる価値は十分あった。
豊富なボーナストラック、そして情報量豊富なライナーノート。
これを実現するには、このアルバムを担当した、エリック・カルメンのファンだったというSONYの洋楽レジェンド・ディレクター白木哲也さんの熱い情熱があったことはいうまでもない。
エリック自身も、日本盤のボートラの選曲には非常に協力的だったという。日本のファンの長年にわたる愛と敬意に、深く思いを寄せてくれていた。
私もE.C.F.C.JAPANの広報担当として、非常に拙いながらも日本のアーティストたちのエリックへのリスペクトを伝えてきた。
エリックは、このコメントの後半で、やや唐突に「第二次世界大戦中の日本」に触れている。これは、私へのメッセージだと受け止めている。
私がメンバーとして加わった2010年当時、実のところ少々差別的なふるまいをする人もあったように感じている。また、第二次世界大戦で日本がアメリカの同盟国ではなかったことについての言及もしばしばなされていた。

それをスルーするという手もあっただろうが、私は傷ついて耐えるという性格ではないので、英語がほとんど使えないというのに、かなり頑張って論戦を張ったつもりだ。そして、メンバーの理解も得てきたという自負はある。エリックは、そんな様子を見ていたのだと思う。それで、最後にメッセージをくれたのだと勝手に信じている。

エリック・カルメンの初の来日公演となった1979年の第10回世界歌謡祭のときの思い出を饒舌に語っている。
アメリカ代表として、歌謡祭に出演したシシィ・ヒューストンに同行していた若き日のホイットニー・ヒューストンについても饒舌に語っている。

ericcarmen.com 2014年2月12日「The Essential Eric Carmen / Complete Track Listing」より Eric Carmenのコメント抄訳をご紹介します。原文はericcarmen.comでご確認ください。
この抄訳は、ericcarmen.com主宰のBernie Hogya氏の承諾を得ています。
権利関係がからむため転載・引用はお断りします。

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僕の日本での最初の公演は、スペシャルゲストスターとして出演した1978年(注釈・実際は79年の間違い)のYamaha World Song Festival。10000席の武道館は売り切れ。最高潮の3日間のフェスティバルだ。Yamahaは55人編成のオーケストラとの35分間のショーのために、僕とバンド、 Davey Johnstone、Cooker LoPresti(Elton’s band)、Duane Hitchings (Rod’s band)、シンガー達、指揮者(Barry Fasman)と僕のドラマーRoss Salamoneを飛行機で東京に呼び寄せた。これは僕の人生の中で信じられないほど素晴らしい経験だった。

たしか『マラソンマン』で演奏を始め、オーケストラが入ってきたとき、文字通り浮足立ったよ。そのステージは本当に素晴らしくて、オーケストラも良く、僕のバンドは最高の演奏をした。僕らは「ビートルズセット」と名付けたこの30分プラスアンコールのステージで屋根を吹っ飛ばした。

僕らが東京に着いたとき、広い地下商店街をしばらく歩いてから地上に出た。そこで僕は3×6インチの僕のポスターがすべてのデパートのウインドウと、すべてのバスの側面に貼られているのを見た。ホテルの「歓迎・エリック・カルメン」の歓迎札より、「歓迎・ボリショイバレエ」の文字の方が小さかった。見たところちょうど同じ時間に到着して、同じように地下街を抜けてきたようなので、僕らはボリショイバレエ団のダンサーたちに「Hello」と声をかけようとした。僕らは知らなかったが、中にはロシアから亡命したアレクサンドル・ゴドゥノフもいた。ボリショイのダンサーたちはKGBの監視員に厳重にガードされ、僕らが「Hello」と言っても誰一人として頷くこともできなかった。僕らは同じホテルに宿泊したが、僕の方がボリショイバレエ団より序列が上だと知ったときは驚いたよ。

武道館の日本の聴衆は僕がかつて演奏した中で最高に好い反応だった。どこかに録音したテープ(オーディオとビデオ)があるはずだ。あれは僕が決して忘れることの出来ない、とてつもなく素晴らしい経験だった。

ある日、タクシーに乗ったとき、タクシーの運転手はラジオでモーツァルトを聴いていた。僕は「ここはもうカンザスじゃないだな」とはっきり悟ったよ。ここでは一部のエリートだけではなく、国全体で、誰もがクラシック音楽を教えられ、聴いていた。犯罪もまったくない。僕はニューヨークにいるのが好きだが(アメリカでお気に入りの街だ)、すべての人が丁寧で、礼儀正しく、何事もやってくれるので助けを待つことなかった。風邪をひいた人はマスクをして、他の人にうつさないようにしていた。それ以前も以後も、我々アメリカ人が完全に「野蛮人」だと感じた経験は他にはない。

フェスティバルの間に、僕は彼女の母・Cissyに同行したホイットニー・ヒューストンに逢った。彼女は同時15歳で、僕が逢った中でもっともかわいくて、つつましやかな少女だった。生き生きとした表情のティーンエージャーで、まだ誰にも発掘されていなかった。彼女は僕と逢ったことはなにか特別のことだと感じた。何年後に彼女がアリスタと契約したとき、はじめて彼女の歌を聴いた。彼女はたとえ電話帳を歌ったとしても聞く人を鳥肌立てることができるとはっきり感じたね。この美しい、才能ある女の子がスターダムに乗るだろうことは容易に想像できた。

僕は何度も何度もホイットニーに逢ったが、いつも彼女は、初めて東京で出逢ったときのように愛らしくて謙虚だった。彼女の死はまさに悲劇だ。感受性が豊かで繊細な人間に対して、音楽業界が何ができる証明したようなものだ。なんと恐ろしく、無意味な喪失だろうか。

僕は最初の旅では10日間東京で過ごした。アメリカに帰って、世界について一般とはまったく違う考えを持つようになった。僕はそれ以前も、以後も、あんなに温かくて、素晴らしくて、繊細で、親切な人たちに逢ったことがない。あれ以後、日本には幾度も行った。僕は日本での経験をいつも大切に胸に抱いている。第二次世界大戦中、従軍していた人たちが僕とまったく違う受け止め方をするのはわかる。僕が言えるのは、戦時中に国家が行った行為で人間を判断してはいけないということだ。僕は日本の人々を心から愛している。そして、彼らが僕の音楽を理解し、僕を優しく受け容れてくれたことに感謝する。