春の四重奏曲
【春の四重奏】
作・Aventurine
登場人物
高梨実(父)
高梨早苗(母)
高梨さくら(娘)
舞台設定
2022年3月の土曜日午前9時30分。
都内の高梨家のリビング。
実、朝食後、新聞を読みながらコーヒーを飲む実。さくらはスマホを片手にむすっとした表情でコーヒーを飲む。実はちらりとさくらに目をやり、新聞に目を戻す。早苗は、バッグに荷物を詰めている。
実 今日は遅くなる?
早苗 8時過ぎかな。1時にロケで、そのあと、メディアセンター。
実 ん。
早苗 フリーランスはお声がかかったときが花だからね。
実 ん。さくらは?
さくら ・・・
早苗 いつもの合唱の伴奏。晩御飯は?
さくら いる。
実 帰りは?
さくら わかんない。
●さくら、スマホカバーを荒々しく閉じて出て行く。
実 は。なんだ、あれは。
早苗 ご機嫌ななめ。今朝は格別。
実 昨日は遅くまでガタガタがたがた。
早苗 ・・・匠くんよ。
実 どうしたんだ?
早苗 なんかモメてたね。
実 え?どうした?
早苗 さっきちらっと聞いただけだけど、匠くん、なんかマズいことになって
いるみたい。
実 ん?マズい?
早苗 うん・・・あのね・・・
●さくら、足音荒くリビングに戻ってくる気配を察した2人。
早苗 しっ!(実に目くばせする)
実 ん。
●2人の様子に気づいたさくら。
さくら なに?
実 ん?
さくら いま、なんか言ってたでしょ。
実 別に。
早苗 何も言ってないよ・・・まだ。
さくら まだって、もうっ、感じ悪っ。
実 それはお前だろ。朝から何なんだ。
さくら なんでもないよ・・・。
実 何でもないやつが夜中にギャンギャン騒ぐのか!
早苗 (なだめるように)やめてよ、もう。
さくら ふん。
早苗 さくら。あれだけ聞こえたら心配するなっていったって無理でしょ。
さくら (ぷいっとそっぽを向く)
実 ・・・匠くんとなんかあったのか?
さくら (とがめるように)お母さん!
早苗 (そしらぬ顔)
●さくら、自分の席に座る。
さくら お父さん、匠のことは心配ご無用でございます~。お父さんにはご 心配いただくようなことは一切ございませんのでっ。
実 ふん、あの、かわいかったさくらちゃんは、どこに行ったんだかな あ。
さくら どこだろうね。どこ~?どこ~?パパのかわいいさくらちゃ~ん?
早苗 やめなさいよ(苦笑)。
さくら また、お父さんの手ほどきでピアノが好きになったさくらちゃんって話しするんでしょ。
早苗 ははっ。
実 さくら。婚約者にもそんな態度なのか?
●さくら、父をきっと睨む。
さくら あのね、匠のこと、素人のお父さんがとやかく言うのはやめて。CDデビュー直前にコロナだよ。どうしろっていうのよ。
実 ・・・・
さくら 音楽業界全体、止まったんだよ?
●早苗、椅子に座りながら。
早苗 それはそうなんだけどさ・・・。
さくら なに?お母さんまで言う?
早苗 (不満そうに)う~ん・・・
さくら なによ!匠は頑張ってる!匠のせいじゃない!そりゃあ匠、不器用だけどさ・・・もう、不器用なだけ!
早苗 ま、不器用は不器用だわね。
さくら だいたい、売り方がマズいのよ! なんでシューベルト歌いに「千の風」よ? あのマネージャー、匠のこと全然わかってない!
●スマホから高らかに響く匠のシューベルトの歌声の呼び出し音。
さくら はい、高梨です。はい、お世話になっております。あ、はい、今日の合せはAスタジオですね。わかりました。え? あ~、大丈夫ですよ。
●さくら、電話をしながら出て行く。
実 忙しそうだな。
早苗 やっと動き出したからね。
実 で、匠くんの方はどうなんだ?
早苗 アルバム、リリースしたときはいけると思ったんだけどね。
実 さくら、最近、なんも話さなくなったからさ・・・。
早苗 うん・・・
実 まだぱっとしないのか。
早苗 ・・・なんかさ、スタッフが交代したり、企画が流れちゃったり・・・で、さくらががんがん言っちゃったってことなんじゃないかな。
実 そうか。
早苗 うん。イベントもプロモートもできないし、予算もカットされちゃったし・・・。配信リリースの話もなくなったみたいなの。
実 ふ~む。
早苗 だから、いまできるのはSNSでファンをつなぐことくらいなのに・・・なのになんだかねえ・・・合わないんだろうね。
実 おいおい、合わないったって、仕事だろう。
早苗 だからプロ根性が足りないって、さくらが怒るわけよ。
実 匠くん・・・なあ。
早苗 エンターテイメントには向いてないかもね。
実 昔から芸術家気質というか、学者気質だもんな。
早苗 うん。
実 修士のときに読ませてもらった『シューベルトの属七和声の重層的展開の考察』とかいう論文。あれ、面白かったぞ。
早苗 でもさ、それ、ウケる? ファンに? その解説なんかイインスタで滔々とやっちゃうんだよ、彼は。
実 見てるのか。
早苗 そりゃ、気になるじゃない。
実 怒られるぞ、さくらに。
早苗 知ってるよ、さくら。「どうだった」ってよく聞かれるもん。
実 へえ、そうなんだ?
早苗 つまらないってはっきり言った。
実 (あきれたように)へっ?
早苗 ファン目線で考えろって言った。
実 (うへえ、という顔)
早苗 で、さくらがテコ入れして、今日のファッションとかもやってた。
実 え?(苦笑)匠くん、いっつもさえない灰色のパーカー着てたじゃないか。ぱりっとしてカッコいいの、演奏会の時だけだろ。
早苗 (苦笑)あと、婚約式のとき。
実 ああ(笑)
早苗 あのルックス生かして、貴公子キャラでいこうって、さくらがコーディネートしたりして、結構よかったよ。でもさ・・・。
実 でも?
早苗 匠くん、根っから真面目だし、シャイだし。ファンサービスとか意識すると、ますます硬くなっちゃうんだよね。
実 ファンってどのくらいいるんだ?
早苗 フォロワーは2000人くらい。だけど、固定ファンは20、30人かな。
実 そんな数じゃあ配信リリースしたってペイしないな・・・。
早苗 そっ。このままだと、数少ないファンだって取りこぼしちゃうよ。
実 でも、ま、ファンってお前みたいな年頃のおばちゃんばっかりなんだろ。
早苗 ふんっ、小金を持っているのはおばちゃんなのよ!
実 ふっ、母親みたいなのにキャーキャー言われてもやる気出ないよな。
早苗 そこをきっちり抑えてから広げていくの。
実 (苦笑)
早苗 客観的に見て、歌い手としてはそそるんだよ、とっても。あの声、あの顔、あの立ち姿! クラシック界にあのルックスはいないよ。スタア性は十分。あとは本人次第・・・なんだけど、なんだけど、なんかね・・・。
実 なんかね?
早苗 なんかちょっと・・・なんだよね。ここぞってところを微妙に外す。だから流れをつかめないの。
実 まだ言ってるのか、あの話。
早苗 だって、いい話だったじゃない。あのタイアップ。なんの文句があるのよ。
実 なあ・・・それ、いまからでもなんとかならないのか?
早苗 無理よ。デビューの時のピュアな発展性でタイアップが取れるの。いまじゃ2年たっても2000人しか引き寄せられない人って評価になっちゃったんだから。
実 ちっ、広告屋のプロデューサーさまはシビアだなあ。
早苗 あのときならねえ・・・。
実 だからといって、このままじゃマズいだろう。
早苗 マズい、非常にマズいと思う。
実 そんなんで、さくら、いつ結婚できるんだ?
早苗 それはさくらの問題。
実 そうはいっても、心配じゃないのか?
早苗 ・・・潮時だと思ってるよ、本音のところではね。
実 ええっ、いいのか、さくら、28だぞ。
早苗 いい。
実 あの歳で1人になったって・・・。
早苗 (ふん、とうなづく)
実 でも、一人っ子で一人ってのは寂しいだろ・・・。
早苗 (ちょっとむきになって)音大時代から知ってるんだから、私だって情はあるよ。匠くん、いい子だもん。
実 ああ。
早苗 だけど・・・切るならいまだと思ってる。
実 えっ、女ってすごいな・・・。
早苗 飼いたければ飼う。捨てるなら捨てる。それはさくらが決める話。
実 飼うって、おい・・・。
早苗 さくら、結構、稼いでるよ。ピアノの伴奏者って、ソリストよりニーズがあるから。
●玄関先でバッグの中でさくらの電話の着信音が高らかに鳴るが、なかなかさくらの姿はない。30秒ほど鳴り続ける。
実 (つぶやく)飼う・・・匠くん、ツライな。
早苗 さくら~、電話!さっきから鳴ってるよ~。
実 匠くんの歌声、わざわざ着信音に入れてるんだ?
早苗 地道な宣伝活動だって。
実 (ふっと笑う)い~い声なんだよな。オレも着信、それにしようかな。
早苗 (微笑む)
●部屋から楽譜を持って飛び出してくるさくらの足音。電話を受ける。
さくら はい、お待たせしました、高梨です。はい、あ、二期会の鈴木さん、あ、はい、ご無沙汰しております。はい、えっ?私にですか?えっ、はい、エフゲニー・オネーギン?はい、キエフの音楽院時代にスタディーで入っていました。え?タルノフスキー教授が?はい、はい、え~っ。青山さんの?はい光栄です、はい、ぜひともやらせていただきます。明後日?はい、万難排して。はい、大丈夫です。どの版でいくんですか?いえ、急だなんて。そんな、いえ。はい、はい。わかりました。ありがとうございます。
●電話口で最敬礼するさくら。
早苗 大手からの新規受注ゲット!
実 景気いいな。
●受話器を押さえて声のトーンが落ちる。
さくら で、青山さんのほかの歌手は・・・あのテノールとかは?・・・あ、着決まった。え、いえいえ、あ、はい・・・いえ、別に。いえいえ・・・。じゃあ、明後日ということで、よろしくお願いします。
●実、早苗、聞くではなく聞いている。
さくら、電話を切って一瞬複雑な表情を浮かべたが、思い直したように電話をバッグに仕舞い、バッグを持ってリビングのドアを開ける。
さくら じゃ、行ってきま~す。
実 ほい。
早苗 気を付けて。
●出て行くさくらを見送る実と早苗。
早苗 ・・・だからさ、大丈夫なのよ、さくらは。
実 ふん・・・そうか。
●ふっと一息つく実と早苗。
早苗 さっ、私もそろそろ出なくちゃ。
実 ほい、行っといで。
●玄関先まで早苗を見送る実。
早苗、にやにやしながら実を見やる。
早苗 なんかさ、定年ライフの先取りだね。
実 ふっ(苦笑い)
早苗 これが日常になるのは、半年後か、それとももうちょっと先か。
実 (ふっとほほえむ)
早苗 じゃあ、あとはよろしく。ごはん・・・今日、出かけないなら、作ってくれちゃったりなんかすると、うれしかったりなんかするかも。
実 (にやっと笑う)
早苗 じゃあね、行ってきます。
●ドアを開けると背後で実の声が聞こえる。
実 あー、今日は陽射しがあたたかいね~。
●ふわ~っと背伸びをする実。
早苗、振り向いて、ほんの少しほほえんだように見える。
早苗 春だね。
●出かける早苗
完