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いつか会える日まで。

今までにいろいろな芸能人を好きになってはきたけれど、まだ"推し"という言葉もなかった頃、私が6歳の時に初めて好きになった芸能人が志村けんさんでした。

番組名で言えば、「加トちゃん、ケンちゃんごきげんテレビ」の頃…。友達は光GENJIに夢中なお年頃。

まだ1人ではビデオの録り方も分からない頃にお母さんに録ってもらっていたような記憶。

もしかしたら探せばビデオが出てくるかもしれないな。。

ただスイカ人間だけがどうしても苦手で何回見ても怖くて…

スイカを食べる志村けんさんは見ていたいけれど
スイカ人間はまともに見れなくて。

いつもは声かけられてるのも分からないぐらい、テレビにかぶりついていたのにその時ばかりはテレビの前で一人で落ち着いてみていられず、夕食の片付けでキッチンでお皿洗っているお母さんの所へ行ったり、テレビの前に戻ったりを繰り返してたら「じっとして見てなさい!」って怒られたり、バカ殿様も大好きだったけど、お父さんと一緒に見ていてちょっとエッチなシーンになると子供心ながらになんか恥ずかしくて、お父さんの視界に入らないところで不自然にウロウロしながら見ていたり。

志村けんさんのことで強く記憶に残っていて思い出すのは、30年以上も前の子供の頃のことばかりだったりする。当時の家族の思い出と共に。

昨日の朝、志村けんさんの訃報を聞いても実感はないクセに、どうにか志村けんさんが生き返る方法はないものか…とあれこれ模索してしまう矛盾。

早くドラゴンボール、集めなきゃ…!

って焦る気持ちがどこかにある。

みんなでドラゴンボール 7個集めたらきっと...!

…分かってるよ、アニメの話だって。

でも現実を受け止めてもう会えない...って諦めた瞬間に
泣いてしまいそうだから…

今はちょっと現実と距離を置きたい…

本当のことを理解できないまんまでいたい。

今までずっと志村けんさんを一番で推してきたわけじゃないけれど、私が他の誰かに夢中になってた間もずっとテレビには出続けていた方で。

どの時期を切り取ってもいつも目にする姿勢は変わっていなくて、きっとお笑い以外にも必要とされる場所はいろいろあったと思うのに、何よりも志村けんさん自身がコントにこだわり続けるところが本当に大好きでした。

"生涯コメディアン"
唯一無二の職人さんでした。

今となっては、つんく♂ さんを推している期間が1番長くなったけど、ずっと"一番最初に好きになった人"という思いは心の片隅にずっとあって、つんく♂さんプロデュースで2001年、研ナオ子さんとのユニットのけん♂♀けん、 2002年、ミニモニ姫。とバカ殿様、つんく♂ さんが志村けんさんとお仕事するのはつんく♂ さんがすごいなぁ…とも思ったけれど、他の誰をプロデュースするよりも好きな人が好きな人と一緒に仕事をしているというのが嬉しかった。

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(私のつんく♂Pコレクションの中から探してきた。この頃は本当に売れた曲も売れなかった曲もつんく♂さんのCDは全部買ってた。)

きっと私の初恋は志村けんさんだったんだと思う。

誰かを好きになることの原点。

考えれば考えるほどいろんな思いが次から次へと波のように押し寄せてくるけど、不思議とまだどこかで生きていらっしゃるんじゃないかという気持ちがずっと消えない。

きっとこれからいろんなテレビ局が企画するであろう追悼番組では冒頭の演出から当たり前のように現実を突きつけられるから、スカパーのファミリー劇場でドリフと志村さんの番組をいつも通り見ていよう。

さすがにもう一人で録画もできるようになりました。

会ったことはないけど原点に立ち返れば
一番最初に浮かんでくる。

だからこそこれからもきっと何度も思い出すだろうし
ずっと忘れることなんてないし
悲しい思い出になり過ぎないように
笑っていなくちゃね。

泣かないようにと思っていても
上を向いて歩いてみても
涙はこぼれてしまうけど...

いつか会える日まで。

お元気で。


※ヘッダーの画像はドリフのエンディング。
歌い終わった最後の最後で志村けんさんが
右手でこっそりバイバイしてるんだなぁ…。


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