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「心の帳簿」

長い間引きずっていたことがある。
高校自体からの友人、いわゆる旧友の一人と関係がこじれ、
離れて行ってしまったことだ。

原因は正直良くわからない。
しかし、誤解が生じうる要因はいくつか思い当たる。
こちらの状況を正しく伝えられない状況で、
相手の期待を裏切ることが生じてしまったがために、
誤解が生じてしまったのだろうと思う。

この不運は「自分のせい」と思っていたことで、
自己肯定感にかなりの影響が出ていた。

しょうがないと思えるようになったのは、本当に最近。
「心の帳簿」という概念を思いついたときだった。

「心の帳簿」とは、
「今までの出来事を振り返って感じるプラス感・マイナス感」のことだ。

今までいいことがあったから、自信が湧くということもあるだろうし、
不運ばかりだから、自己否定したくなることもある。
とはいっても、一時的にいいことがあって、元気が出ることもある。

プラスだから良くて、マイナスだから悪いということではない。
過去の出来事を自分がどう受け止めて、
どう収支をプラスやマイナスに合わせようとしているか。
そういう「心の流れ」があるというのが「心の帳簿」だ。

私は友人を失い、そのことを大きなマイナスと書き込んだ。
別の人間関係で多く良いことがあった。
「心の帳簿」にプラスを書き込んだ。
収支はプラスになるだろうか…?

ならなかった。

友人を失ったことのマイナスを、もっと大きく書き換えていた。
総計ではいつもマイナスになるように。
マイナス感を得るために、過去の出来事をさらにマイナスに捉えるという「心の流れ」があったのだった。

一時期、書店で話題に上った心理学者アドラー。
彼の提唱するアイデアの一つに「目的論」がある。

「こういう過去の出来事があったから、こう受け止める」という、
因果論ではない。
「こう受け止めたいから、こういう過去の出来事を引き合いに出す」というのが、目的論。

「心の帳簿」は目的論が隠れている。
収支のプラス感・マイナス感に合わせて、過去の出来事の数値が変わる。

もう一つ、気づきがあった。
それは「心の帳簿」には、
「自分のもの」という気持ちが大きく関係していることだ。

些細なことに気づいたとき、「気づきを得た」という。
手ごたえがあったとき、「手ごたえを得た」という。
「得る」ということは、「自分のもの」になったということ。

一方、「何かを失った」と思うとき、
それは「自分のもの」から引き剥がされる感覚があったということ。

友人関係は「自分のもの」だろうか。
その人と会う前は関係を築いていないのだから、
「心の帳簿」は0だったはずだ。
友人関係になって、プラスになり、
関係を失ってマイナスになった。
関係がない状態にも関わらず0にはならない。

「自分のもの」と感じる分だけ、
「失った」と感じていたのだと思う。

今、あなたの「心の帳簿」はプラスだろうか、マイナスだろうか?

私達は「得た・失った」を日常的に繰り返して、
プラスだから「自分にはなにかある」と自信が高まったり、
マイナスだから「自分にはなにもない」と自己否定したりしている。

『星の王子様』というお話をご存じだろうか。
そのお話に、
「数多くの星を熱心に数える大人」が登場する。
なぜ数えているかというと、星々が「自分のもの」だと感じているから。
その所有欲でしっかり数えているのだ。手が届かないにも関わらず。

とても滑稽な姿だと思うけれど、
「心の帳簿」の例えと照らし合わせてみると、そうとも言えない。
私達も、あれこれをあいまいな感覚で
「得た・失った」と数えているのだから。

先程の質問で、「自分はマイナス」と答えた人は、
それだけ自分から何かを引き剥がされるつらい経験をしたのだと思う。
プラスにするためには、
なにか特別なことで穴埋めしようと感じている人もいるかもしれない。

「心の帳簿」の総計が正しくないのなら、考え方しだいで逆転させることもできる、なんて軽いことを伝えたいのでもない。

「心の帳簿」の総計は真実ではない。
正しく感じても。
「そう思いたい」という目的論的な思考。
「自分のもの」と強く感じる感覚。
それらの心の動きにヒントが隠れている。



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