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HANADA倶楽部ー徳島市眉山の麓にある藍染工房です

藍と人との関わりが始った古い時代から現在までの情報を整理、発信します。
天然染料である藍が、長期にわたって途切れることなく流通し存続してきたことに心が動かされます。
世の中に埋もれ、忘れられている藍の周辺のことを調べて集めています。「阿波藍のはなし」をお読みくだされば幸いです。

HANADA倶楽部は徳島市内の東西に細長く山裾を広げた「眉山」の麓にあります。吉野川の河口に位置するこの辺りは古代では海の中です。
小島であった「眉山」は聖なる山とされ、一切の民を住まわすことが禁じられていました。標高290mの山頂に続く登り口には必ず神社寺院があり、その境内から登るように登山道がつくられていました。名前の由来は、天平6年(734)3月、聖武天皇の難波行幸に従駕したときの歌として、万葉集に詠まれた「眉(まゆ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟泊(とまり)知らずも」船王:ふねのおおきみ に因んで名づけられたそうです。

故事を起源にして明治の中ごろには「眉山」と呼ばれるようになったといわれますが、どのような過程が生じたのかは詳らかでありません。古くは風光明媚な吉野川の三角洲が、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭津(いのつ)、渭山(いのやま)と呼ばれていました。三代将軍足利義満が京都に開いた室町幕府の管領、阿波守護などを務めた細川頼之が、吉野川の支流の中に浮かぶ小高い山に渭津城(徳島城)を築きました。吉野川の分流を利用した泊地(港)も渭津と呼ぶようになったといわれています。

渭津城が築かれた城山は高さが60mほどなので太古、海面が5~10mも高かった頃は完全に島であったと思われます。大正11年(1922)4月に鳥居龍蔵等によって城山貝塚調査が行われ、縄文時代の居住跡、土器や獣骨、魚骨とともに3体分の人骨も発見されました。
鎌倉時代には城山一帯は大和国春日社領の富田荘と呼ばれ、東大寺領の新島荘よりもさらに河口に近い低湿地に領主大江泰兼が元久1年(1204)に立荘しました。在地領主粟田氏、後には地頭職に桓武平氏を祖とする河野通久が統治していました。HANADA倶楽部の近くにある三島神社は、承久3年(1221)に河野通久が信仰していた大山祇神社を祀ったといわれています。

眉山山頂からは徳島平野を一望でき、天気のよい日には淡路島や対岸の紀伊半島まで見ることができます。

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/

2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。

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