265-268 アドペントスパイラルという体験

265. ゆっくりと取り込むこと、ゆっくりと待つこと

書斎に入ると窓の淵に蝿の死骸が転がっていた。ここに、上向きで転がっているのはどういう状況なのだろう。虫には人間よりもっと突然に死が訪れるのだろうかと考えがよぎったのは昨日死について考えたからだろうか。ピイピイと高い声でなく鳥の声が聞こえてくる。空には雲がかかっているが、切れ間からは青空が見え、中庭には東の方から日が差し込んだ。手元には、いつも白湯のあとに飲んでいるカカオパウダーとヘンプパウダーに蜂蜜とアマニ油を混ぜたドリンクを置いている。これまではコップいっぱいの量をごくごくと飲みほしていたところを、ゆっくりと飲んでいくことにしたものだ。昨日、飲み物の話を書いた後、「どんなに体にいいものでも、自分が急いでそれをかきこんだならファストフードを食べているのと結局は変わらないんじゃないか」ということが思い浮かんだ。食べ物は、単に体を組成する栄養を取り込むだけでなく、それに含まれているエネルギーのようなものを取り込んでいるのではないかと少し前から思うようになった。大量生産され、機械的に運ばれたものは、それを取り込む人を機械のようにするし、携わる人の苦しみや不機嫌さを通ってきたならそういうエネルギーを帯びているだろう。オーガニックスーパーは静かで、スタッフも機嫌がいい。生産・販売過程に心地よさがあることも想像し、オーガニックスーパーで買い物をしているが、最終的に取り込んでいる自分があくせくしていては元も子もない。「急いで沸かしたお湯はすぐに冷めるが、ゆっくり沸かしたお湯は冷めにくい」ということは何度も人にも話してきたが、自分自身の、何に、どうやって向き合うかということには、まだまだ宇宙の広さほど改善の余地がありそうだ。

昨日、一昨日・昨日とインテグラル理論の書籍を読み進め、録音を聞いている中で「クロスレベル分析(段階横断的分析)」について興味を持った。

−ある主体がどの意識段階に位置しているのかということと、その主体がどの段階のリアリティ(すなわち客体)をもっとも本当のものであると考えているのか(ケン・ウィルバー著 『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』より)

という考え方を読んで、たとえ話が上手い人のことが思い浮かんだ。たとえ話が上手い人というのは、受け取る側の意識段階と説明する対象の事物に合わせて何をどんな風に伝えるかを調整しているのだろう。これを逆回しすると、相手がどんな段階から何を説明しようとしているのかも分かるようになりそうだ。(先日、「コーチングと私」について書いてから、自分の中で、ある事象を逆回ししてみることができないかと考えることが増えている)

クロスレベル分析についての話を読んだときにもう一つ思い浮かんだのは、今まで受けたことのあるいわゆるスピリチュアルと呼ばれる領域のセラピーなどについてだ。5年から10年前くらいの間、私は成長や変化の意欲が大きかったことからいくつかのセラピーなどの施術を受けた。そのとき、「何をしているか」は正直よく分からなかった。そして、その結果、「何が起きているか」も分からなかった。振り返ってみるとそのときの私は、目には見えないものの存在を信じながらも、それは魔法に対する憧れのようなものであって、かつその結果として目に見える分かりやすい変化(成功や成果と言われるもの)を即物的に欲していた。宇宙との繋がりを取り戻すという「リコネクション」という施術を受けたときには「人生が5倍速になる」と言われたが、そのときの私が想像した5倍速というのは、実際に目に見える速さで、人生のスピードが変わっていくことだった。今になってみると「5倍速」を色々な次元で捉えることができ、それは必ずしも目に見える変化が速く進むことでないし、昨日の『モモ』に出てくる言葉のように、ゆっくり進むことが結果としてはやく進むことになるということもある。その時の私は、非常に限られた物差しでしか世界を見ていなかったのだということを実感する。

危険なのは、伝える側がそういう気がなくても、相手の受け取り方によって物事の意味合いが全く変わってしまうということだ。それを分かって、伝える側がある種の意図的なプロモーションを行うこともあるだろう。伝える側が無意識でもそうなることもある。

「人のモチベーションを上げる」という言葉には違和感がある。「自分のモチベーションを上げる」ということでさえだ。やる動機もやらない動機も自分の中にあるものであって、そこにはその人なりの意味や合理性や体験に基づくものがあって、それを外的に上げ下げしようとするのは余計なお世話ではないか。モチベーションというのが、簡単に上がったり下がったりする表面的なものに感じて、それを操作しようとするのがとても即物的に感じるからだろうか。相手に合わせて必要なことを伝えられるようになったらいいだろうなと思う反面、それで、その人にとっての「にんじん」をぶら下げようとすることはしたくないというのが私のポリシーなのだろう。

「5倍速で生きる」というのは、1瞬の中に5倍の輝きを見つけられるということで、自分や人をゆっくりと待つことができるということだったのならいいなと、今は思っている。2019.8.8 Thu 9:13 Den Haag

266. 学びを始める前の学びのアップデート

一昨日の日記を読み返し、ウェブサイトにアップする作業を終えた。ここから集中して明日のインテグラル理論のゼミナールに向けた自分なりの準備や整理を進めていきたいが、一昨日、学びを始める前に学びについて考え振り返りをしたことが学びの質を上げることにつながっているように感じたので、今日もまずは学びについて考えてみたい。時間が限られていると、ついつい目の前のことに急いで取り組みたくなってしまうが、そういうときほど、自分自身のアンテナを磨くことを行いたい。バランス良く筋肉をつけていきたいと思っている人は筋トレの前に整体に行くと聞いたことがある。「筋トレで疲れた体に整体をしたほうがいいんじゃないの?」と思いがちだが、鍛える前に、まずは姿勢を整え、筋肉や骨が動くべき位置で動くようにするのが重要ということだ。歪みのある状態で筋トレをしたなら、それを助長してしまうことになる。

こういう話も、人間のメカニズムのメタファーとして使えそうな話というのは頭の中で勝手にメモが取られており、それを随時引き出しているのだが、クロスレベル分析の話を読んで、今自分の中にたまっているメタファーが何を表現する話として使えるのか、どんな風に伝えるといいのかを考えてみたいと思った。同じ話でも、それぞれの人がそれぞれの受け取り方をするだろう。その中でも、相手にとって、少しだけ世界を広げたり、体験として実感したことを後押しするような伝え方ができたらと思っている。相手に馴染みのあるスポーツや音楽の話はイメージしてもらいやすということも今更ながら分かってきた。相手の話に真剣に耳を傾ければ傾けるほどに、相手もこちらの話に耳を傾けてくれる。だからこそ、自分が発する僅かなことを、より相手の世界のいろどりを豊かにするものにしていけたらと思っている。

学びについて考えを戻すと、現時点での積み残しは、第6章および第7章の中での自分なりの疑問や探求のポイントを明らかにするという部分だ。そのためには、この2日間でアップデートされた今回のゼミナールで手にしたいものを確認したい。この2日間で気づいたのは、私は今回「インテグラル理論の考え方を実践領域に活用しよう」と考えていたが、「まず自分自身がしっかりと実践してみよう」という考えが薄かったということだ。それは、ゼミナールが始まる前および始まった時点まで、「インテグラル理論の実践=速く成長をすること」だと思っていたことに起因するだろう。とにかく速く成長を促す社会の風潮に対する反発と、それが必ずしも良くないという実体験に基づく実感があり、私の中では「インテグラル理論では、人が成長発達することを良しとしているが必ずしもそうではないのではないか」という思いがあった。それは半分はそうとも言えるし、そうでもないとも言えるだろう。ここまでのところで分かったのは、ウィルバーは「考え方」「世界の地図」としてインテグラル理論を提唱しているが、「成長発達を速くしていくこと」を提唱しているわけではないということだ。その結果、「インテグラル理論の実践」というのは、「健全な成長を遂げていくプロセスなのだ」と、考え方が更新された。心のどこかで「ここに書いてあることを実践することに力を入れようとすることは、盲目的に成長発達を求めることだ」という冷ややかな目で見ていたのだと思う。それも半分はそうで、半分はそうでないだろう。

改めて今持っている今回のゼミナールを通じて取り組みたいことは、「自分自身が日々の暮らしの中で実践してみる」ことと「自分の実践領域に活用する」ことだ。そのために重要になってくるのが、自分自身の現状を正しく見極めることだろう。実践や活用というのはつまり「現状に何を加えるか」もしくは「現状から何を引くか」ということだと思う。現状の見積もりが甘いと、そこに何かを加えてもアンバランスになってしまう可能性がある。「正しく」というのは難しいし、基本的には幅や波があるものだと思うが、それの最大の見積もりと最小の見積もり、自分が持っているかもしれないバイアスも含めて検討することができたら、より効果的な取り組みを設計していくことができるだろう。昨日聞いた補助教材の録音の中で出てきた「統合的実践をデザインする」という言葉が心に留まっている。そうか、デザインか。と、その言葉がなんだかしっくりきて、今更ながら自分自身の統合的実践について真剣に考えようという気持ちになったというのもある。

改めて今日、明日で取り組みたいのは、自分自身の取り組みの現状を整理することだ。それに加えて、過去に体験したものがどういう位置付けのもので、そのときはどう認識していたのか、それが今はどう変化しているのかを整理したい。考えていると、いろいろなことが浮かんできたりひらめいたりして、それを綺麗にまとめたくなってしまうのだが、今日は一旦は手書きでアイディアを整理し、図や表にしたほうが整理しやすそうなものについてのみツールを使って整理をすることにする。自分自身についての考察をして、これまで見えていなかったものを一つでも拾い上げたい。息抜き課題としてクロスレベル分析のトレーニングに役立ちそうなものもあるので、やはり息抜きとして活用したい。時間は限られているが、補助教材の録音はできるだけ聞いておきたいという思いもある。一旦は、2時間ほどは情報のインプットと整理を行い、その後は、自分の中からのアウトプットを行なっていきたい。2019.8.8 Thu 11:14 Den Haag

267. アドベントスパイラルという体験

明日のインテグラル理論のゼミナールに向けて、インテグラル理論の統合的実践について考えていた。現在実践していることについては昨日一旦まとめたが、今日は現在実践していることについてもう一度、現状に可能性や期待を加味して検証するとともに、一時的なことでもこれまで体験してきたことがそのときの自分自身にとってどんな体験だったのか、そして今それをどう解釈することができるのかを整理してみたいと思っていた。ヴィパッサナー瞑想やリコネクションなど、大人になってからいくつか特徴的な体験はしてきたが、そんな中、体験的記憶が立ち現れてきたのが小さい頃に通ったシュタイナーの教室での体験だ。今浮かんでいるのは、総合的体験・共感覚的体験という言葉だ。それを、実際の体験が示しているのだと思う。記憶と感覚をたどって紐解いていきたい。

シュタイナー教室での体験として、私の中で一番残っているものがクリスマスにロウソクをさしたりんごを持って、木の葉や枝を並べ、渦巻き状につくられた道を歩き、真ん中にある大きなロウソクから自分のロウソクに火をつけ、そして、また渦巻き状につくられた道を歩いてもどり、その道の途中にロウソクをさしたりんごを置いてくる儀式だ。これが「アドベントスパイラル」と呼ばれるものだったということを先ほど調べて知った。いくつかのサイトを見るも、「大人の目からみた説明」しか書かれていないことに気づく。「自分の中の強さに気づく」「キリストが誕生するまで、誕生してからの、光の増す様子が示されている」などオレンジの段階から合理的な説明がなされている。しかし私が体験したアドベントスパイラルは、そうやって説明されているものと全く違ったものだった。遠い遠い記憶だが、自分の中に残っているりんごを手に感じた世界をもう一度歩いてみる。

アドベントスパイラルは、「少し大きくなった子ども」だけが入ることができる場所だった。ろうそくをさしたリンゴを手に持ち、木の葉や枝などでできたうずまきの中に入っていき、中央部分で手にしたりんごろうそくに火をつけ、道の途中に置いてくる。「小さい子」にはできない特別なもので、そこに入れることだけで少し誇らしい気持ちがしていたように思う。しかし、不安もあった。子どもの頃、ピアノの発表会では間違えずに曲を弾くことが目指す姿だと思っていた。今思えばシュタイナーの教室で「正しさ」を求められたことはなかったけれど(人と一緒に遊ぶ中で持つべき思いやりのようなものは示されることがあったように思う)、りんごを持った私は「ちゃんと火をつけて、ちゃんと置いて、ちゃんと帰って来れるだろうか」という不安とともにあった。その当時は、そんな不安を持っていることは自覚できていないはずだが、そのときの心と体の感覚を思い出すとその中にある大きなものは今で言う不安だったのだと思う。一人、また一人とりんごを持って道を歩き、真ん中でりんごろうそくに火をつけ、道の途中でりんごを置いてくるごとに、ろうそくの周りの世界が少しずつ明るくなっていった。うずまきの道から戻ってきた子は、ほっとしているように見えた。それでもまだ、空間には圧倒的に暗闇の方が大きい。前の子が戻ってきて、自分の番になる。暗い道に足を踏み入れる。道はぐるぐると円になっているから、足を踏み出すたびに目指している真ん中のろうそくの位置が変わる。

シュタイナーの教室では、何か体を使う遊びのようなものをし、そのあと先生のお話しを聞き、最後ににじみ絵と呼ばれる、水に浸して湿らせた画用紙の上に絵の具をたらして絵を描くのが普段の流れだったように思う。お話についてははっきり覚えていないが、クリスマスの時期は羊飼いが空に輝く星を見つけるところから始まるキリスト誕生にまつわる話があったように思う。しかし、それは中学高校とキリスト教の学校に通っていたため、そのときに聞いた話と混ざっているかもしれない。

ほのかな光の中を歩く私は、先生のしていたお話の中にいた。足元に、すでに火の灯ったりんごろうそくが増え、とうとう自分の持っているりんごろうそくに火をつけるための大きなろうそくにたどり着いた。道がぐるぐる回っていること、その真ん中に大きなろうそくがあることは、ぼんやりとしかわかっていないように思う。そのときの私にとっては、120cm位の高さから見える世界が全てだ。足元に置かれた草木などは道となり、周囲の世界との境界をつくるのに十分で、暗がりの中見守る大人たちは道を囲む黒い森の一部となった。その世界にいるただ一人の灯りの運び手として、森の中を進み、ろうそくに火を灯し、それを大事に抱えて進んだ。ろうそくに灯った火を見るのは誕生日やクリスマスのケーキにのせられたものくらいだったかもしれない。一人で火を持って歩くなんてことははじめてで、見守る大人たち以上に、自分自身が息をひそめていたように思う。りんごろうそくを空いている場所に置くと気持ちがだいぶ楽になる。あとは、きた道を戻っていくだけだ。すでにある灯りを頼りにまだ灯りの灯っていない道を抜け、還ってきた。暗闇の先にある光を目指し、光を灯し、光を置き、また暗闇の中を戻ってくる。最初の暗闇と最後の暗闇は全然違ったもので、その全てが私にとってそこにある生きた世界だった。

これには色々な段階から見た、色々な意味づけができるだろう。でもそれを色々な意味づけから紐解くことは、体験をスクリーンごしになぞることでしかない。訓練にはなるかもしれないけれど、でも私にとっては、どんなに説明してもそれはそのときの体験を文節することにしかすぎず全体であるという一体感はない。

これは何かとても原初的で神話的な体験なのかもしれない。それを大人がそのまま体験する必要があるかは分からないが、少なくとも、合理的にメカニズムを説明できるものをそのメカニズムとして体験することは、統合的実践ではないような気もしている。自分の取り組みを整理するために四象限にプロットすることは参考になるけれど、結局一つ一つの体験は四象限的に説明をすることができる。大切なのは、振り返るときにどのような捉え方ができるかというその考え方を多角的に持つことなのだろうか。筋トレでは「今ここの筋肉を鍛えている」という意識をした方が効果が高いというが、統合的実践の最中においてはそれは逆効果というか、認知する体験を制限してしまうようにも思う。極端に言えば、一つの体験をあらゆる象限・あらゆる段階で捉えることはできるだろう。だからこそ、一度整理をした上で、体験自体には没入し、後からどういう体験だったかを振り返るというのがいいのだろうか。こう考えているのは「実践」というのが単にやればいいというものではないのだろうという考えがあるからだ。四象限での捉え方は一つの指針になるが、出口のない迷路に迷い込んだようでもある。合理的に整理し、それぞれを機能として体験するのでもなく、全てに等しく価値があるよねというのでもなく捉えるにはどうしたらいいのか。アドベントスパイラルを再体験することを数字て、「統合的実践」というテーマについて今ぐらぐらと揺れている自分がいる。2019.8.8 Thu 17:11 Den Haag

268. 没入体験と猫の訪問、統合的実践についての疑問と考察

日記を書き始めようと、いつものように書斎の窓の外に目を移すと、生い茂る葡萄の蔓の手前、1階部分の屋根の上に足先の白い黒猫が座っていた。思わず身を乗り出して見つめると、黒猫もこちらに気づき、澄んだ青い目を向けてきた。これは猫と遊ぶチャンスかもしれない!と、書斎の隣の寝室からバルコニーへと続く扉を開け、下を覗き込むと、ちょうど黒猫もバルコニーの前の屋根を通ろうとしているところだった。にゃあと話しかけると、にゃあという声が返ってくる。おそらく先週、向かいの家々の向こう側の道で会った猫だろう。そのときは私の周りをぐるぐると歩いて回り、しゃがんで手を伸ばしてもやはりぐるぐるを続けたので、着ていたスプリングコートの裾が随分と踏んづけられた。いつもは中庭のガーデンハウスを歩き回る姿を眺めるだけだったので、私は、コートの裾を踏んづけられるほど黒猫に近寄れたことがとても嬉しかった。バルコニーから、にゃあにゃあと声をかけ続けるも、この間会ったということさえなかったかのように、黒猫はさらりと屋根の上を歩き、通り過ぎていった。

そういえばあの猫か、足の先まで黒い幼い黒猫のどちらかが家の中のリビングまで入ってきたことがある。一度目はエネルギーワークのレッスンの後に自分でワークをしていたときのこと。二度目は読書をしていたときのことだった。共通しているのはどちらも没入状態であったということだ。読書をしているときは、気づけば、読書をしていることを認識している自分はいなくなり、私は読書そのものだった。エネルギーワークをしているときは、白い雲のようなものが体から出て行き、それが再び体に吸い込まれることをイメージしているうちに、イメージしている自分はいなくなり、白い雲そのものになっていた。そのときの状況と、猫が入ってきたということに併せて共通しているのが、意識が戻ってきたときに、私が動くよりも前、視覚として黒猫を認識できるかどうかというときに黒猫がこちらの気配に気づいて、たいそう驚いたそぶりを見せたということだ。私が実際に見ていたのは黒猫の足だったが、あたかもそれまでなかったものが突然現れたことに驚いたかのように黒猫が反応し、足早にリビングから寝室を抜けて出て行ったことを覚えている。バルコニーにつながる寝室の扉からリビングの入り口までは6mから7mはあるし、私が知る限り、普段はバルコニーにさえ猫が足を踏み入れることはない。人の気配には敏感で、慣れない家の奥にまで入ってくるはずのない猫が入ってきていたことと自分が没入状態にあったことは何か関係しているのではないかと思っている。エネルギーワークをしていたときは白い雲をイメージしていたので、ふわふわとした雲のようなものを追いかけて来たのかもしれない。読書のときもそれに近いことが起こっているのだろうか。エネルギーワークは習ったものの続けていなかったが、統合的実践の一貫として実践するものの中に取り入れていってもいいかもしれない。

今日は至高体験のようなものから、小さい頃に体験したアドベントスパイラルの話を思い出したのだが、改めて、アドベントスパイラルについて日本語で書かれているブログなどを読んでもそれは大人が子どもが行なっている様子を描写・分析したものであって、自分が実際に体験したものとは似て非なるものに思う。そんな感覚を持ってみると、その他のスピリチュアルと呼ばれるような取り組みについても、中には明らかに自分の体験でないことをただ紹介していることが多いことに気づく。多いというか、大半がそうなのではないかという気さえしてくる。インテグラル理論の書籍の中で述べられているウィルバーの「スピリチュアルティを他の領域から分離したひとつの領域として扱わない日記を書きたかった」という言葉が以前よりも実感を持って体に馴染んだ。

アドベントスパイラルの体験について書いたときに思い浮かんでいた「総合的体験」や「共感覚的体験」について少し整理をしておきたい。これらの言葉を思いついたのは、現在実践していることを四象限で整理をしていると、「結局これはどれも全ての象限で捉えることができるのではないか」と考えはじめたことにはじまる。私は今オーガニックスーパーを利用しているが、それは社会や文化の領域に関わるとも言えるし、自分自身の体や精神の領域に関わるとも言えるのではないか。一般的な見方と自分にとっての位置付けが違う場合もある。分類することは目的ではなく、一つの物事を多面的に見るというプロセスを通じて、「自分自身の多くの側面を鍛えれば鍛えるほど変容は起こりやすくなる」ということなのだろうと想像する。

そこで出てくるのが、実際に取り組むときに「これはこの側面だ」と意識する必要があるかどうかという疑問だ。これについては先ほども記述をしたが(未だそれがぐるぐる回っている)そこで、「総合的体験」や「共感覚的体験」という視点が出てくる。アドベントスパイラルをはじめ、私にとって僅かに認識できている至高体験ないし変性意識状態のようなものは、そこにある感覚が部分に切り分けられないものとして存在しているように感じるのだ。ある特定の感覚を思い出そうとすると、体験全体が自ずと想起される。これはおそらく、体験そのものが、とても一体というか全体的なものであり自分自身はそこに没入していたことによって得られる感覚なのではないかと思う。そもそもそれが至高体験というものなのだろうか。やはり「実践」のときの意識の置き所については他の参加者の方ともディスカッションをしてみたいポイントだ。

もう一度整理すると、今この瞬間の私の理解としては、「あらゆる活動は全象限的に捉えることができ、自分がその中のどの象限かという認識を持てば、それは他の象限に振り広げるようなことができるし、全象限の活用として取り組むこともできる。意識を向けることで、全象限、全レベルであろうとすることに近づくことができる。じかし実践の際にはそれに没頭し、後から、どんな体験であったかをまた四象限的に検証することが望ましい」という感じだ。(しかし、「観察自己」という考え方もある。その体験をしている自己、さらにはその体験をしている自己について考えている自己を持てるよう、意識を向けた方がいいのだろうか)ある一つの象限の取り組みだと思うならそれはそれだが、意識として、そして実際の取り組みとしてそれを押し広げようとすることが大切なのではないかと思う。押し広げるといっても無理やり引き延ばすというのではなく、「そのさらなる可能性に目を向ける」ということだと考えている。

最近、遅くまで考え事をすることが多かったせいか、寝付く時間、起きる時間も遅くなっている。それで何か支障があるわけではないが、午前中の時間をもっと有効に使いたいので、今日は早めにパソコン作業をやめることにする。2019.8.8 Thu 20:38 Den Haag


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