222-224 SNSと人の意識について考える

222. SNSと人の意識について考える

時刻は18時を回った。日記を書き始める前に外の空気を吸おうとベランダに出ると、昼間は向かいのガーデンハウスの上にできた木陰に寝ていた黒猫が左斜め前にある小屋の屋根の上に移動していた。波打った屋根の、山と山の間の窪んだところに入り真っ直ぐに体を伸ばしている。にゃあと呼びかけると、最初はふわりと尻尾を動かし、それから体をぐるっと回して、あくびをしながら起き上がった。庭の池には黄色い蓮の花が開いている。どこからかナイフやフォークがお皿に当たるときのカチャカチャという音が聞こえてくる。今日は天気が良く気温も高いので、リビングの窓を開け放つか庭に出るかして食事をしている人たちがいるのかもしれない。本来ならこの時間からは思考をヒートダウンさせていきたいが、明後日参加するインテグラル理論のオンラインゼミナールに向けて、書籍を読んだり録音音声を聞いていたりするうちに浮かんできたことがあるのでそれを書き留めていきたい。書籍・ゼミナールからの考察はLearning Logにまとめていこうと思っていたが、長くなりそうなのでここで文章にしていくことにする。

私なりの考えをまとめてみたいと思ったのは「現代社会、特にここ20年間のSNSの普及がインテグラル理論で言う統合的変容にどのようにどのように影響を与えているか」というテーマだ。このテーマを深めたいと思った一番の理由は、インテグラル理論の提唱者であるケン・ウィルバーが、今回ゼミナールの題材となっている書籍の原著である『A THEORY OF EVERYTHING』を書いてからもうすぐ20年が経とうとしているためだ。そのタイトル(以前の翻訳書の日本語のタイトルは『万物の理論』)の通り、そもそもこれは万物に適応される理論ということで、20年の時が経ったところで揺らぐものではないという前提だ。しかし、書籍の中で「こうした変容を支えてくれるような文化的背景を持っていなければならない。(中略)30年前であれば、これは問題だったかもしれない。だが、統合的な抱擁を実現するための文化的準備はもう十分整っている」と述べられているように、この理論を前提とした実社会の中では常に変化が起こり、その変化は「文化的背景」という大きな文脈においても起こっている。特に情報技術の発達に伴う人々の関わりについてはこの20年でも大きな変化が起こり続けているため、それに紐づいて文化的背景にも更に変化が起こっているのではないかというのが私の大まかな仮説だ。そのため、特にこの20年間で起こった、SNSと呼ばれるインターネットを介して個人ないし企業等がコミュニケーションを取ることのできるツールの普及と変化は社会(個の集団)の意識にどのような影響を与えているのかということを考えていきたい。あくまで利用者としての体験と一般に流通している情報からの考察をベースにしたもので、検討に加えていない観点は多々あるであろうものの、今後考察を重ねていくたたきにできたらと思う。

223. 社会に広がるということの意味

「SNSの普及は人の意識の集合体としての社会どのような影響を与えたか」ということを考えていこうと思ったが、そもそも私は現在、SNSと呼ばれるものを個人ではほとんど使用していない。なので、網羅的でも厳密でもなく、やはりあくまで今ざっくりと知り得る範囲とこれまでの経験を通じて実感のあることを書いていく。また、インテグラル理論で使われている色の表現の意味まではここでは細かく述べないことにする。

2000年以降に普及した、SNSの代表格であり牽引訳と言えばfacebookだ。facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグがハーバード大学の学生のときに考案した「Facemash.com」というゲームは、女子学生の写真を使って、顔を比べて勝ち抜きさせるゲームだったと言う。これは強いヒエラルキーと近視眼的な欲求を満たすレッド的な構造のゲームとも言えるだろう。ザッカーバーグが「自由で公然とした情報の利用を可能にすべき」と考えていたということから、これは絶対的秩序を持つ行動規範に従うことを良しとし厳格な階層構造を重視する(その中で情報の一極集中管理を行なっていた)ブルー的な大学の思想に対する、反抗であったことが想像される。(ブルー的なものを超えたと思ったが、結果として作ったものはレッド的であり、前超の虚偽となったとも言えるかもしれない)製作者・運営者の意図や意識という切り口で考察を進める観点もあるが、facebookの利用を通じて、利用者の意識の重心がどのような段階に置かれる傾向にあるかを考えていきたい。

初期のfacebookは、同じ大学の学生同士が交流するツールとして広がった。当初の機能としては、プロフィールの公開が中心だった。プロフィールというのは年齢や所属といった、いわゆるヒエラルキーを象徴するものと、趣味や好きな映画といった、個人の価値観を示すものの双方が含まれている。「多様な価値観を許容する」というと一見グリーン的意識が土台となっているように思えるが、利用者側は、「封建的なグリーンの価値観から脱却する」というオレンジ的な意識で支持していたのではないかとも思う。2008年にfacebookの日本語版が公開された。そして「like」のボタンは「いいね」と翻訳された。「like」と「いいね」では、微妙なニュアンスの違いがある。ここからは「日本的文脈の中でのfacebook」という視点になるだろう。「like」の主語は「I(私)」だ。一方、「いいね」の主語は「it(それ)」や「you(あなた)」であり、それにより評価的なニュアンスが強くなる。日本語の言語構造自体が「主語が消え主観的感覚と客観的評価が曖昧になる」という特徴があるが、その特徴と「いいね」がカウントされるという構造がかけ合わさって、気づけばfacebookは多様性を許容するように見えて単一的な物差しで価値を評価する場になっていた。承認欲求を満たす場は、さらなる承認欲求を生み出す場になっていったのだ。「流行に敏感」という社会的な立ち位置を欲するアーリーアダプターに広がり始めた時点から、それはもはや慣習的なものとなり始める。(ボタンはもともと「awesome」だったものから、より国際的な「like」に落ち着いたと言う。「likeは無難すぎる」という意見もあったようだ。このとき、「無難ではない路線」を選択していたらfacebookの方向性とそれによる人々への影響も変わったのだろうか)

2016年にはリアクションのパターンが6種類に増え、それによって、評価ではなく、共感や連帯感を表現できるようになった。その結果、facebookが以前より多様な価値観が許容される場になっているように思われるが本当にそうだろうか。目の前に現れる「多様」だと思っているものはアルゴリズムに操作されている。個人の好みに合わせた情報のカスタマイズも多くできるようになり、人々はより「閉じた」かつ「操作された」世界にいるようにも見える。「利用者の嗜好に合った広告」と言えば聞こえはいいが、利用者をその世界に留め続けるため手段だとも言えるし、その結果、利用者が目にするものは自分の正しさを証明するものに限られ、世界はどんどんと閉じたものになる。まさにグリーンの自己愛が増大するとともに、隠れた秩序(ブルー)が土台となっている世界観に利用者は無意識に意識を置くことになるのではないか。2018年にはfacebook上で17歳の少女が「花嫁」としてオークションにかけられるという事件も発生した。facebookが現在どのような想いやビジョンのもと作られているかとは関係なく、利用者は利用者の今いる世界観の中で、時に他者と関係性を深めるツールとして、時に自分の利益や欲求だけを満たす道具として使い続けているのだ。

224. 「多様性」という物差しに押し込められて

2019年の現在は視覚的要素の強いYouTubeやInstagramが人気を保っている。(若年層にはまた他のツールが人気だと思うが、利用者としての実感がないためその他のものには言及しない)ポイントは、この二つにはYouTuber、Instagramerと呼ばれる立ち位置の人がいることだ。これらは主にそれぞれのプラットフォームないしそれらに類するプラットフォームを介して広告主から広告収入を得ている人を指す。それはつまりは、これらのプラットフォームが広告を見せる媒体になっており、利用者が被広告者であることを示す。視覚情報というのは文字情報よりも「シンボル」として伝わりやすい。「カワイイ」「人気者」「成功者」…目に見えるものが価値判断の基準となり、それに沿っていくことが自分自身の喜びであるという感覚が強められていく。ここでも「多様」に見える中に実は強烈な価値観の物差しがあり、人は無意識のうちにその中に留められることになる。そしてこれらのプラットフォームは、経済競争というパイの奪い合いの構造の上に成り立っている。「グリーンを模したブルーが生まれる構造をオレンジが支えている」と言えるかもしれない。(twitterについては言語情報が中心で他のツールとは違う利用のされ方をしているように思う。発したものが「自分」とは離れたものになっていくような、絶妙な具合が、根強い人気の理由なのだろうか。興味深いところではあるが、これも利用していないため言及はしない)

ここまでの話は、特定の企業や業界・職業に就く人を批判するために述べているのではない。しかし、インターネットを介して様々な人が様々なツールを手軽に利用できるようになった今、自分の意図とは無関係にその影響が及ぶということが起こりうるのだ。全ての人が善意の利用者だとは限らないし、全ての人が純粋な想いをそのままに受け取ってくれるとも限らない。自分が信じていることが、自分が実現したい未来につながっているとも限らない。「unconscious influencer」(無自覚な影響者)は、悪意のある支配者と同じくらい危険だ。

SNS上では、リアルな繋がりの人からの評価ではなく、趣味や好きなこと、共通の嗜好がある人と好きなことを純粋に楽しみ高め合おうという流れも出てきている。まずは少し閉じた世界の中でも、多様さの先にある、多元性に気づいていくことができたら、徐々に他のものに対する見方が変わることに繋がるのではないかと思う。

ケン・ウィルバーが19年前に述べた「地球規模の通信ネットワークの技術は統合的段階への発達を促進はするものの、保証は全くしない」ということは今のところ証明されているだろう。むしろ、情報技術を多くの人が手軽に利用できるようになっていることは、各段階の隔たりを明らかなものにし、統合的段階への発達の足踏みをさせているのではないか。今のところ、情報技術をはじめとした技術はあっという間に世界中に無秩序に広がり、それによって人間は、現在の段階にしがみつくことを後押しされているようにも思う。しかし今、こうして一つの批判的視点を持つことで、その対極的見方を発見し、さらにそれらを包含する視点や技術を獲得する可能性の起点に立ったとも言えるだろう。2019.7.17 Den Haag


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