207-208 ミレニアル世代、そして日本社会に今何が起こっているか

207. 靴下を買う男性とお見舞いの夢

白湯を湯のみに注ぎ、寝室からバルコニーに続く扉を開けると、空気の冷たさを感じた。天気予報のアプリを開くと現在の気温は15℃、今日は18℃くらいまでしか気温が上がらず、雨も降るようだ。ミーティングなどもあるので家に篭る一日になりそうだ。6月に比べ雨の頻度は減っているけれど、気温は今日のように低い日もある。そういえば2,3日前にオーガニックスーパーに行くとこれまで買っていたペコロスと呼ばれる小さな玉ねぎが見当たらなかった。ちょうど売り切れているところかと思い、近くの大きなスーパーに行くもやはり小さな玉ねぎはなく、通常の大きさの玉ねぎばかりだ。そのときに、小さな玉ねぎの季節は終わったのだと知った。気温は低いが新しい季節は確実にやってきている。そのうち日没の時間もだんだんと早まっていくのだろう。

今朝は5時過ぎに意識がやってきた後見た夢を少しだけ覚えている。一つのシーンは屋外か屋内のショッピングモールのような場所だ。屋台のような小さな移動式の店が並ぶ中で、靴下が置いてある店があった。漢字が書かれているものもあり、何となく日本的なデザインだなと思っていると、店先を見ていた男性と店員がやりとりしている様子が聞こえてきた。(聴覚的に認知したのか、視覚的に認知したのかは曖昧である)どうやら男性は膝くらいまである長めかつ厚手の靴下を買いたいが、片方分のお金しか持っていないので片方だけ買うことはできないかと尋ねたようだ。そうすると店員はその心意気?に打たれたのか、もう片方分のお金を貸すから、近くにある本店のような場所まで一緒に行こうと客の男性を促した。二人の言葉のどちらかもしくはどちらもに関西系の訛りが入っていた気がする。その二人についていくと場所が変わった。

今度は街中のような場所にいる。近くの病院に友人と、元夫のお母さんが入院しているという話を一緒にいた人から聞き、二人のお見舞いに行くことにした。オフィスビルにも見える病院の入り口にあるセキュリティチェックのようなところを通り、周囲の人に聞きながら友人がいるという病室に辿り着く。病室に入るとそこに寝ていたのは中高の同級生のHちゃんだった。頭まで包帯のようなものが巻かれ、体にはシーツがかかっているが、話はできるようだ。私は「Hちゃん」と言ったものの、その先何と声をかけていいのか分からず困惑しながらHちゃんを見つめた。そこで何か会話を交わしたように思う。そこにいる知り合いかつ病院のスタッフのような女性たちに元夫のお母さんの病室の場所を聞くと、行き方を教えてくれ、「お父さんが怒っているので話はできないかもしれない」ということも言ってきた。そうなのか、と思いつつ友人の病室を出て、狭くカクカクと曲がった通路を通りっていくと途中で友人の病室に持っていったノートパソコンを置き忘れてきたことに気づく。ナイロンの黒いパソコンバックのようなものが頭に浮かび、「この後取りに行かないと」と考えながら、目的の病室に着くと、入り口の扉が少し開いていて、その奥にベッドと、ベットの脇に座る男性が見えた。「やっぱりお父さんがいるのか、これは入って話をするのは難しそうだな」と思い、病室に入るのは諦め、友人の病室に戻ることにした。友人の病室に戻ってパソコンの入った黒いバックはなかったかと聞くと、誰かがそれらしいものを持ってきてくれた。しかし、遺失物としてノートに記録をしたため、受け取るために何らかの処理をしなければならないらしい。かつ、「他人がパソコンを開いて中身を見ることができる状態になっていたらいけないよね」という話になる。パスワードは変更しているため大丈夫なはずだと思いながら、そこにいる人がノートパソコンを開き、初期設定されているパスワードを入力すると、あっけなくロックが解除されてしまった。「あらら」と思い、遺失物記録用のノートに何と書かれるか確認しようとしたところで、ベッドの中にいる意識の方が強くなった。

最近は、ドイツ人の友人に聞いた「夢が夢である印」(高の同級生やなど現在の人間関係にはいない人たちや夢だから出てくるシチュエーション、場所など)を夢の中で見つけて、「夢を見たままそれを夢だと認識すること」を試みたいと思っているが、なかなかそれができない。覚めた後には「あれは夢だった」と分かる。先日読み始めた『後ろ向きに馬に乗る』という本にはドリームボディと呼ばれるものや変性意識状態、夢の話が出てきている。そこでは夢には現れはじめている新しいアイデンティティが含まれていると書かれていた。逆にまだ味わいきっていないこれまでのアイデンティティの一部も含まれているのではとも思っている。 夢と現実世界の関係はまだ自分なりの整理ができていないが、まずは覚えていることを書き留めるとともに、意識との繋がりを確認していきたい。

昨日は朝、玄関の扉が開く音とともに、鼻歌が聞こえてきた。オーナーのヤンさんが帰ってきたようだった。クラシックをかけながら、掃除をしていたようだ。先ほども少し、音楽が聞こえてきていた。空全体に雲がかかり、西の空の方が明るい。微かにカモメの声も聞こえている。2019.7.10 Wed 8:23 Den Haag

208. ミレニアル世代、そして日本社会に今何が起こっているか

パタパタと窓にあたる雨音の向こうに鳥の鳴き声が聞こえる。今日はやはり、雨が降り続いた1日だった。午前中、ミーティングの前に寒さを感じ、ふと、東京の各月の平均気温を調べてみたら、3月の平均最高気温が14℃だった。3月だと思うと、シャツ一枚では寒いはずだ。こうして日本の季節を基準に考えることもだんだんとなくなっていくのだろうか。書斎の窓からは、中庭にある向かいの家の物置のような建物が見える。その平らな屋根には草や苔のようなものが生え、少し前から薄ピンクの花のようなものも咲いていっているように見える。そこだけ植生の違う箱庭のようでなんだか可愛らしい。薄ピンクの個性が伸び伸びと発揮されていて、周りの木々はそれを見守っているようにも見える。

今日は夕方以降の時間、日本から来た知人が持ってきてくれた『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』を読み進めていた。全7章に加えてボリュームのある巻末のうち第6章まで読み進めてきたが、まだ書かれていることの世界観を捉えきれていないことも多い。今はおそらく、無意識に自分自身が理解できるところだけを繋げて「こういうことだろう」という想像をしているように思う。オンラインゼミナールに参加し、書籍を繰り返し読み直し、そして今自分自身が携わっていることに照らし合わせて咀嚼・反芻していく中で、やっとこの世界観が生きた体験とつながるものになるのではと思っている。書かれている観点から考えることも時と経験を経て変わっていくだろう。今考えることは今の時点での認識が絞り出すことに過ぎないが、それをどうにかこうにか表現しようとすることを繰り返すことで、深められていくものがあるのだと思う。そんなことを思いながら、今日文字にしてみたいと思ったのは、現在日本社会の比較的若い層(20代後半から30代前半)の人たちに何が起こっているのかという考察だ。ミレニアル世代と呼ばれる1981年から1996年の間に生まれた人々が一番近いイメージなので、便宜的に「ミレニアル世代」と呼ぶことにする。(この件についてはちょうど参加したのと別の日のゼミナールで話題となっていたということを後になって知った。他の方の視点を踏まえて、今後考察も更新してみたい)

現在日本のミレニアル世代を見たときに大きく見られる特徴として「自分の好きなようにはやりたい。でも安心感を感じたい、人に認めてほしい」という気持ちが強いように思う。働き方や仕事の内容など、比較的自由度の高いことをしているように見えるけれど、誰かの持つ物差しの中で自分を確認したいという気持ちも持っているという感じだ。これまで学んできた成人発達理論の観点から、人は、自分の欲求を叶えるために他者を利用するような「道具主義的段階」から、所属する組織やコミュニティの慣習や価値観に従うことに重きを置く、「他者依存段階」へと成長していくと理解している。成長といってもそれは直線的・一方向的に進むものではなく、ゆらゆらと揺れながら、そして状況や環境、自分自身の状態にも左右されながら変化をし続けているものであり、通ってきた段階は自分から切り離されるのではなく、自分自身の一部となると捉えている。

これまでの日本では明確に「企業」と呼ばれるものが社会集団・社会生活の中心となっていたことから、そこに所属する中で、組織の文化や慣習をどっぷりと味わう期間があり、だんだんとそこから自分自身の価値体系を作っていく「自己主導段階」へ移行していくという流れが、ある意味とても分かりやすかったように思う。(その移行が適切に行われるもしくは移行を許容できる環境だったかは別にして)ミレニアル世代はちょうど、企業に一定期間所属した結果、だんだんと自分の価値体系を作っていきたいという欲求が出てきて、所属してきた組織の持つ基準に従う安心感との間で揺れ動くタイミングとも見ることができる。しかし私が日本のミレニアル世代に感じるのはそれとは少し違う、「早く自由を与えられたが故に、組織やコミュニティの持つ価値観に浸かり他者依存を味わいきれずに宙ぶらりんになってしまっている」という状態だ。

昨今、だんだんと社会の風潮として(様々な商業的なプロモーションなどもあり)「もっと多様な生き方を許容しよう」という流れが強くなってきた。「他者依存段階」の依存する先である社会・文化的価値観が「自己主導段階的なもの」になっているように見える。そうすると、本来、所属する集団や組織の考え方にどっぷりと浸かりたいはずの人たちが「あなたらしくやればいいのよ」という世界観の中に放り出されることになる。一方で多くの社会制度は自己選択の幅の少ない、封建的なもののままとなっている。これは結構な混乱を招いているのではないか。組織の持つ価値観に従うことは時に窮屈だし、本来持っている個々の創造性が発揮しきれていないのではという不満を感じることもある。しかしその中で規範に則った行動をしていると承認され、安心感を感じることもできる。その土台があるからこそ、新しいことにチャレンジする意欲が生まれ、貢献実感や自己効力感とともに自己肯定感を身につけていくように思う。「他者依存段階」という言葉からは一見「依存」というネガティブなニュアンスをイメージし、たとえばそれは「受け身」と呼ばれる姿勢も想像するが、「主体的」という姿勢ともつながりのある「自己主導段階」に進んでいくためにはまずは、外的な基準に従い、その中で認められる体験というものも欠かせないプロセスなのだ。

これまでの日本の企業社会においては「速く効率よく大量に」ということが求められる産業モデルの中で、人間もある種機械のように働くことが求められ、人を他者依存段階にとどめさせようという過剰な力が働いていた弊害も多いにあったと考えられる。そしてその反動か財政破綻をしている政府の詭弁か、世の中には一気には多様性を認め、自己選択的になることを礼賛する力が働いている。もちろんそれによって起こるのはネガティブなことばかりではないが、結果としてミレニアル世代は依存を味わいきることなく自由の中に放り出され、混乱の中を生きているのではないか。そしてその自由を、多様な価値観が存在することを認めながら自己の価値観を深めていくことに活かすのではなく、自己中心的な視点から見た世界の中で安心感を得ようとすることや、誰かが持つ基準の中で認められることに使おうとするというねじ曲がった構造が生まれているように思う。自己中心的であることも、他者依存的であることも、様々な葛藤を抱えることも、人が生きていくプロセスで自然なことではある。しかしインテグラル理論の書籍の中でベビーブーマー世代が持つ異常な自己愛が社会にもたらす歪な影響を説明しているように、ミレニアル世代はまた違った形で歪さを抱えおり(ベビーブーマー世代がもたらした影響とも言えるかもしれないし、ミレニアル世代に問題意識の強い目を向けるベビーブーマー世代が、未だ他の多様な段階にいる人々を認められない分断的ボジションに居座っているということも言えるかもしれない)、それが今後社会にまた大きな影響を与えていくように思う。

福利厚生や人事制度、社会制度など外的環境が先行して「自由意志による選択」を許容する方向に動いているとともに、組織風土・カルチャーなど人々の関係性に対するアプローチにも光があてられている一方で、特に個の意識や、有機体としての個に対する取り組みは相対的に手薄になっているように思える。コーチングに関しても、「その人全体」を扱うところから(特に日本ではビジネス的な展開のしやすさの背景からか ーもちろん必要とされたこともあっただろうけれど)組織開発という領域に大きく業界自体がシフトするとともに、組織開発にシフトしなかったコーチの側も外面的な世界や周囲との関係性よりも個の内面的な世界を重視しすぎたが故に、「スピリチュアル」(特異な精神世界のもの)と受け取られるようになり、限られた人々だけがアクセスする自己探求のような、非常に個人的なものだととられるようになってしまっているのではないか。その結果、「自由意志による選択」ができる人が育つプロセスを許容する環境や意識や体を育てる土台の部分に対するアプローチが非常に手薄になっているように思う。

多様性の尊重を謳いながらもものすごい速さで変化や成果を求める企業や社会の風潮が強くなっているが、今、その方向性や価値観の基準自体を見直すときがきているのではないかと思う。多様性に至るまでに経る道のりを味わう時間やゆらぎを許容できるような、個と社会、内面的・外面的な取り組みをどのように作っていくことができるだろうかということを最近の学びから考え始めている。2019.7.10 Wed 22:41 Den Haag


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