243-245 内なる気づきに目を向けるとき

243. シューマン共振波とスプーン曲げ

空に雲があると思うのは、雲が白いと知っているからだろうか。書斎の窓からだが、見渡す限り空は白くて、正確には、紫水晶(むらさきすいしょう)と呼ばれる少し紫がかった色で、それは今の私にとっては雲ではなく空そのものだ。こうして考えてみると「空」というのが具体的に何を指しているのか分からなくなってくる。空と雲は文節されているのかと思ったけれど、おそらく雲は空に含まれているのだろう。太陽や月、星や雲、様々なものを抱く天空の空間自体を空と呼ぶのか。大気圏内の成分の集合を見ていることもあるし、大気圏の外、宇宙の成分の集合を見ていることもあるし、そのどちらもが含まれていることもあるだろう。成分で言うと、地球はぐるっと空に囲まれていることにもなるが、それを総称して空と呼ぶことはない。空は、見上げる主体があってこその空なのだ。そんなことを考えたのは、見上げた先にあった白い空間の広がりを雲と呼んでいいのかと思ったことに始まる。

昨晩、脳波について調べていたときに、「α波とθ波の中間でシューマン共振波と呼ばれる7.8Hzで脳波が振動しているとき、意識は顕在意識と潜在意識の中間の状態になり、能力は最大限に発揮されるという」考え方を知った。スプーン曲げをはじめとしたPK(psychokinesis・念力)と呼ばれる現象は左右の脳波が7.8Hzで共鳴振動している状態ほど起こりやすいと言う。シューマン共振波と念力の存在および関係性について信憑性は定かでなく、今、それに対する支持もしくは否定のスタンスを持つほど情報があるわけではない。ただこの話を読んで、自分の中では経験に基づく納得感があった。

私はスプーン曲げができる。スプーン曲げができると言ったら語弊があると思っていて、スプーンは曲がる。誰にでも曲げられる。試しに昨日シューマン共振波の話を読んだときにキッチンにあるスープ用のスプーンを手にして曲げてみたら、やはり曲がった。今朝も、ヨガを終えて白湯を飲み、ボーッとした後、器を洗おうとキッチンに行き、試しにとティースプーンを手にしたらやはり曲がった。スプーンはその構造と形状から、曲がりやすいのだと思う。小さなスプーンならすぐにくねくね曲がるし、大きなスプーンでもかなりの角度まで曲がる。スプーンが曲がらないのは、「スプーンは曲がらない」もしくは「スプーンは曲げてはならない」と思っている人間の思い込みによるものなのだ。だから、その思い込みを外せばスプーンはいとも簡単に曲がる。スプーンはその形状からゆらゆら揺らすと、曲がっているようにも見え「あ、曲がるのかな」とう気持ちが起こりやすく、そのためフォークよりも曲がりやすいのではないかと推察する。(フォークは今のところ曲げられない)心静かにスプーンを揺らすというのは、自己催眠にも近く、まさに意識が顕在意識と潜在意識の間に揺れているような状態になるのだろう。

振動数の低いθ波の状態では固まっていた考えがほぐれ、思いがけないアイディアや視点に不意に気づくことが起こりやすくなると言う。コーチングで言う「気づき」には様々な種類があるが、一つには脳波の変化に伴って生まれる気づきもあるように思う。そのためには昨晩考えたように、コーチの意識状態が重要になってくるだろう。

こういった特別な意識状態というのは、それを手に入れるもしくは発揮することがとても魅力的に見えたりもするが、扱いについては注意が必要だ。現実世界を生きるのに不都合なこともあるし、人との関係性を円滑にするのに障害となることもある。そこで感じる特別な感覚に陶酔することは精神の不健康を招くだろう。今のところ、仕事として取り組んでいることや人として取り組みたいことに対して、今のオランダという環境とそこでのライフスタイルとその中で発揮される脳波の状態が役に立つのでそれを大事にしていきたいが、特定の脳波の状態になることが目的ではないというのが選択するスタンスだ。2019.7.28 Sun 8:23 Den Haag

244. 3日間の真夏を越えて

スキポール空港に向かう友人を送り出し、また一人になった。一人になったが、家の中の空気感は変わらない。静けさはいつもそこにあったのだということに気づく。これまでここに何人かの人たちが滞在して行ったが、その度に感覚が変わるのは自分自身の変化なのだろうか。いつもと大きくは変わらないけれど、でもやはり違う時間がそこにあって、対話があって、この間生まれたものはまた私の中からゆっくりと滲み出てくることになるのだろう。すぐにわかることもあれば、あとになってわかることもある。急いで全てを言葉にしなくても、大切なものは心の中に蒔かれているのだと思う。

先ほどまで降っていた雨は止み、庭に茂る葡萄の葉は水滴を受け止めている。葡萄の蔓の先が、庭の木の下の方の枝に絡まりはじめているようにも見える。オーナーのヤンさんはあと3週間はイタリアでのバカンスから帰って来ない。その間に庭は伸びる植物でいっぱいになるかもしれない。誰も見ていなくてもその生を輝かせる植物たちを、小さな窓からそっと見続けていたい。

天気予報アプリでは現在の気温は20度と出ている。向こう2週間、暑くても25度を上回るくらいの気温が続く。気温が35度を超え、「暑くて暑くてもう耐えられない」というのは僅か3日間だった。この間、自分がどんな状態だったかを振り返ってみる。

ちょうど一番暑いときにアムステルダムまで出かける日があったこともあり、体はかなりエネルギーを消耗していた。しかし、体に感じる違和感のようなものは熱を外に発散できないことから来るものであって、それ以上のものではなかったと思う。これまでなら「暑いときこそ肉を食べて」などと考えていたが、それによって余計に消化にエネルギーを使い、体が重くなるような、二次的な消耗を引き起こしていただろう。二次的な消耗はなかったものの、体に熱が溜まることで思考と感覚は明らかに鈍くなっていた。これらは頑張るからと言って発揮できるものでもない。いつもなら水中20mまで潜れるところが全力でも10mまでしか潜れないという感じだ。

泳ぐのが好きなわけではないのになぜ今「潜る」という例えが沸いてきたのかというと、普段実際に心の底に潜っていっているような感覚を感じているからだろう。潜るのもそこから戻ってくるのも体力が必要だし、暗い水の中で方向を確認するのに感覚をフルに使っているのだと思う。その感覚と両輪になっているのが思考だ。思考といっても論理的情報処理を行なっているわけではない。その人の持つ言葉の意味世界を想像し、言葉を景色に変換をする。それが私の行なっている思考なのだと思う。言葉そのものと、見えた景色どちらもに感覚を当てて、それを照らし合わせるようことを行なっているかもしれない。

今回は「これは思考と感覚を発揮する限界だ」と思う日が3日で済んだが、これが長くなると死活問題である。対話というのはその中身や結果が見えにくいし、即時的な満足度を上げるということは難しくはないが、それこそその質によって、ジャンクフードを食べるかスーパーフードを食べるかくらい、その後現れる影響は違ってくる。「何事も何かしら良い面がある」「気づきにつながる」と言ってしまえばそれまでだが、実際には自分の状態が相手に与える影響、そしてその相手が周囲の人に与える影響が大いに違ってくるし、その質をより良くすることには責任を持ちたいと思っている。普段からできる限り心身にとって良い環境を確保しつつ、その変化にも耐えられる幅を持ち、かつ、ときには「仕事をしない」という判断も必要だろう。それが夏休みというものなのかもしれない。暑いと言っても数日間だし、クーラーで体を冷やし続ける害の方が大きいだろう。今回のように扇風機でやり過ごすか、少し涼しい地域で過ごすか、来年は中期予報を見ながら暮らし方を考えていくのが賢明だろう。

書斎のクローゼットに入れていた衣類などを寝室に戻し、この後のセッションに向けて心身を整えていくことにする。2019.7.28 Sun 12:06 Den Haag

245. 内なる気づきに目を向けるとき

目を閉じていると、カモメの声が聞こえてきた。複数の声が聞こえるが、その距離感は様々だ。その中にピーピーと高い声も混ざっている。白いテーブルクロスの上に白いお皿やカトラリーがセッティングされていた向かいの家の1階では、大人たちが食事を始めた。ここ数日、いつもより多い人数の大人、そして子どもたちが家の中にいるように見える。オーガニックスーパーまでの道のりを歩くと、道沿いの家々の玄関の向こうにダイニングテーブルが見えることがよくある。たいていの場合それは大きく、整然とした部屋の空気の中にスッとある。ただそこにあるのだが、ただそこにある姿が美しく、そこにある人の暮らしを思うと、そこに流れる時間の豊かさのようなものを感じる。

先ほどまではkindleで購入したクラニオ・セイクラルを活用した頭蓋骨のセルフトリートメントを行なっていた。クラニオセイクラルとは頭蓋骨から腰の下あたりにある仙骨の間を流れる脳脊髄液の流れをうながし、人間が本来持っている自己治癒力を高めるという手法だ。一般的なマッサージのように圧をかけることはなく、指を触れているだけくらい感覚で優しく体の表面を触っていく。実際に背術を受けたことはないが、「動きやすい方向に体の表面を揺らしていくだけで深部や骨を含めた体全体の状態が整う」という考え方に興味を持っていた。そして一昨日、脳波の話から様々な情報をたどっていくとクラニオセイクラルに行き着いたので自分で試してみようと思ったのだった。

本を読み進め、書いてある通りに顔や頭の表面の皮を優しく動かそうとするも、これがなかなか難しい。いかに普段、指先が粗雑に物に触れているか、そして目に見えるものを信じ、わかりやすい変化や効果に納得感を感じる中にいるかということを実感する。クラニオセイクラルの仕組みも効果もまだほとんどわかっていないが、改めて面白いと思ったのは「動きやすい方向に動かす」ということだ。ストレッチなどを考えると、一見、動きにくい方向に動かすほうが動かなかったところが伸びて動きやすくなるのではというイメージが浮かぶ。しかし、動きやすい方に動かすことで、全体が自然に動くようになっていくというのは面白い考え方だ。人の思考も、もしかする今そこにないものを考えることを促すのではなく、今動きやすい方向に動いていけば自然とダイナミックな動きをし始めるのかもしれない。動かない方への動きを促すことは、その瞬間は可動範囲が広くなったように見えるが、長い目で見ると無理がなる流れで、定着はしづらいのかもしれない。

確か野口整体でも「一度歪みの方向にさらに動きを促したほうが、逆側にも動きやすくなる」という考え方があった気がして、目の前の書棚から野口晴哉さんの『整体入門』を取り出した。人が持つ力が発揮することに対して、食や体からのアプローチも取り入れたいと思い欧州に出るときに日本から持ってきたものだ。ぱらぱらと本をめくっていると「天心で行うということ」という言葉が目に留まった。

−活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。「天心(てんしん)」であること、これが根本です。天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せようとせず、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。親切にしてやろうとか、やってやる、受けてやるというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。(野口晴哉著 『整体入門』より)

ここで言う「天心」とは、空っぽの心、無心を表す。いつものことながら自分のことを省みる。誰かに自分の満足を満たそうとしてもらっては、お互いに本来持っている力を発揮するとは程遠いところに行ってしまうのだろうということが身に沁みる。こんな風に「異口同音に同じことを言っている」ということはよくあるが、一冊の本にも本当に様々なことが書かれているので、自分の目に留まることというのは結局のところそのときの自分自身のテーマなのだろう。それが読書や学びから気づかされることではあるが、一方で、読書や学びの限界であるとも言える。自分がアンテナを貼っていること、それを裏付けることが入ってくるというのは当たり前といえば当たり前だ。日本にいるときは定期的に書店に行き、なんとなしに歩き回り、目に留まる本から「今の自分はこういうことに興味があるんだ」という発見をしてきたが、その中には商業的・社会的な流れに乗ったものも無意識に含まれることになる。外に現れるものを通して自分自身の内側を知るというのも一つの方法だが、もっと直接的に自分の内なる興味や欲求を感じることをしてみてもいいのではないかと、ふと思った。今はそういうときなのかもしれない。そのためには生活も、目に入るものもできるだけシンプルに、削ぎ落としていきたい。2019.7.28 Sun 20:31 Den Haag



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