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ラーメン、その愛

券売機から出てきた白い券を渡すと、店員は私が口を開くより先に遠慮がちに言った。

「カタメレンソウマシ、ですね?」

そう。私はカタメレンソウマシの女。今日のメンツは信頼できそうだ。私は喜びと期待が伝わるように、笑顔ではい、と答えた。

ここは、私の最寄駅の道路を挟んで反対側にある家系ラーメンの店。私が今のところ毎日ここに立ち寄らずに済んでいるのは、この店がいつもの帰路から一本外れた道にあるおかげだ。それでも、多いときで週に2、3度、私は職場の更衣室に入った時点で誘惑に負けて、作ってもらった賄いをいそいそとタッパーに詰めて電車に乗り、ここへ吸い込まれる。

弟もよく来ているようで、あるときに弟と祖父、またあるときに弟と母が揃って入店し、そして先日弟と私が揃って入店した。つまり、伊藤家の構成がこの店の店員にほぼ把握されてしまった。店員の中に伊藤家を探る諜報員がいたとしたら、我が家は大ピンチである。

伊藤家にとって、私にとって、ラーメンとは特別な存在だ。叔父さんはラーメン屋さんだったし、祖父母は若い頃同じラーメン屋で働き恋に落ちた。祖母は、餃子を包む祖父の繊細な手つきに惚れたらしい。今のは嘘だ。

そして、決して裕福ではない我が家が、特別な日に連れだって向かうのがラーメン屋。そのうえ私にとっては、ムスリムである父の不在の機会をうかがってこっそり連れて行ってもらう秘密の場所でもあった。祝福と背徳の味。それが、ラーメン。

終電間際の店の外には行列ができていることが多い。食券を先に買って、列の最後尾に着く。私が注文するのはわかめラーメン。迷いはない。通い始めた頃に700円ほどだった値段はまもなく1000円に到達しようとしていた。厳しい世の中になったものだ。

普段は基本的に現金を持ち歩かないので、たまたま財布に1000円札が入っていようものなら私は100パーセントここに来る。もはや1000円札自体がわかめラーメンの食券に見えているのかもしれない。

轟々と生暖かい風を吐く室外機の熱に体をたっぷりと蒸される。風の中の麺の香りを吸い込んで高揚する。まだ列は進まない。先頭の方を見てみると、5人くらいの若い男たちのグループが待機していた。店の席はまばらに空いていたので、おそらく並んで食べられる席が空くのを待っているのだろう。けっ、小便くさいマネしてんじゃねぇ。ラーメンは仲良しこよしで食うもんじゃあないんだよ。タイマンでどれだけラーメンと向き合えるかが勝負なんだよ。

あら、いけないいけない。お腹が空くと性格が悪くなってしまいますわね。

さて、例の仲良しグループが無事店に入り、いよいよその時、と不敵な笑みを噛み殺していたところに、後ろに並んでいた何者かから突然声をかけられた。

「亜和ちゃん?」

えっ、誰…?

よくよく見てみると、小中の同級生だったキタムラさんではないか。同級生といっても、彼女と私の立場はまるで違うものだった。教室の隅でモゾモゾしていたいわゆる陰キャの私に対し、キタムラさんはカースト上位の生粋の陽キャ、声は学校中に響き渡るほど大きく、運動会のリレーでは毎年アンカーであった。

正直なところ、私は当時の彼女にあまり良い印象がなかった。先生たちは、彼女のような「ヤンチャ」な生徒にだけ手厚く接して、私たち「マジメちゃん」には心底興味がなさそうだった。まるで、そういった生徒たちを更生させるのが良い教師だというかのように暑苦しい寸劇を繰り広げていたし、彼女たちのグループはたびたび風変わりな生徒を揶揄しては手を叩いて笑っていた。

しかし私はもう大人だ。直接何かされたわけでもない。怯えに似た感情を飲み込んで、私は笑顔で「あっ!ひさしぶり〜!」と返した。彼女のお腹は大きく膨らんでいた。「2人目なの」と言われて、妊婦ってラーメン食べていいんだっけ?と思いつつ、一緒に店に入った。

ラーメンが来るまで、お互いの近況、仕事のこと、挫折した夢の話をした。あまりにも穏やかに話ができて私は内心驚いた。彼女、こんな人だっけ。当時の印象をおそるおそるオブラートに包んで伝えると、彼女は「私、本当にバカだったよね。恥ずかしい」と言った。それを聞いて、私は勝手に彼女が愛おしくなった。大人になるって素晴らしい。あんなに小さい学校の中で、私たち一体、どうしてあんなに敬遠し合っていたんだろう。

今なら全部、あっけらかんと話してしまいそう。彼女の隣にいる、彼女のイカつい旦那もまとめてハグしたくなったところで、私のわかめラーメンカタメレンソウマシは到着した。

帰り際、彼女は私に「産んだらさ、飲みに行こうね」と言った。

社交辞令じゃないといいな、本当に飲みに行こうね。と思いながら、私は「うん」と返事をしたのだった。あぁ、お腹いっぱい。

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