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北緯17度線を越境する、ベトナム映画の優雅な誘惑 『漂うがごとく』に寄せて

無知を承知で告白するが、ベトナム映画はどうやらニューウェーブ期を迎えているらしい。既存の体制を解体し、新たなる運動のもとに先鋭的な映画をつくる流れは、先進国を顕著にはるか昔からあるわけだが、それが近年ベトナムでも起きているのだという。では、その新しき潮流とは何か。

STAFF
監督:ブイ・タク・チュエン
脚本:ファン・ダン・ジー
撮影:リー・タイ・ズン
音楽:ホアン・ゴク・ダイ
CAST
ドー・ハイ・イエン
リン・ダン・ファム
ジョニー・グエン
グエン・ズイ・コア

『漂うがごとく』という、素晴らしく美しい響きを名前に冠したこの映画には、ベトナム映画が見据えているであろうこの先の社会の実相というものが端的にあらわれている。社会主義国家であるベトナムでは、映画を製作することはそのまま国家への奉仕と直結していて、資金も給料もみな国家から貰い受けて映画を製作していた時代が長らく続いていた。その諸作の多くは1953年に設立された「ベトナム劇映画スタジオ(VFS)」にて撮られていたが、市場経済の解放や新たな法制度の実施を背景に、2010年には文化スポーツ観光省大臣により株式会社化が承認され、現在では廃墟同然の姿を晒しているという。

映画が国家のもとを離れ、民間の元へと手渡されたことにより、インディペンデントな活動がより広がり、各国の映画祭への出品も相次ぐようになった。そして新たに若手の映画作家を養成しようという機運の高まりとともに、ベトナムの首都ハノイにて「ベトナム映画タレント開発支援センター(TPD)」が設立される。さらにはフォード財団からの支援を取り付け、同教育機関を卒業した若手作家たちに10本の短編映画を10ヶ月で作り上げる「10 months 10 short films」というプロジェクトまで進行している。加えて言うならば、「越僑」と呼ばれる外国在住のベトナム人(多くはベトナム戦争から避難するために欧米諸国へ逃れた人々)が国内へと戻り、先進国での映画体験をもとに、旧来とは違うハリウッド的なエンターテイメントの手法を取り入れた新たな映画を作る世代も台頭しているという。ベトナム映画の熱気は冷めることなく加速しているのだ。

『漂うがごとく』は前述のTPDにて副長を務めいているブイ・タク・チュエンによる映画だ。第66回ヴェネツィア国際映画祭では国際批評家連盟賞も受賞した本作は、若くして結婚した一人の女性が、自分より年が若くまだ幼さを残す夫と、どこかミステリアスで野生的な一面を持つ別の男との間で感情が揺らいでいく様を、ベトナムの湿潤な空気感の中で静かにたゆたうように映し出す作品だ。

ベトナムの自然環境を生かしたシーンとして、雨やスコール、そしてバイクや自動車で溢れ返る大渋滞など、どこか時間を停滞させるような風景が登場人物たちの心象に重なるようにして映し出される。これは内面の葛藤や逡巡とういうものの象徴的な側面として描かれているのだが、映像だけを追ってしまい、その漂う時間に身を委ねてしまうと、そこに描かれていたはずの大事なものを見落としてしまうかもしれない。

夫であるハイ(グエン・ズイ・コア)はタクシーのドライバーを生業としているが、過去の映画のようにタクシーの車窓を利用してその社会のリアルな実態を見せるような手法はとらず、未熟で幼稚なハイの目に映る景色は文字通りの景色として流れていき、満足に客ともコミュニケーションがとれない様が映される。常連の客に連れられて賭博場に顔を出すも、彼は場に溶け込めず、道端で子どもたちがしているサッカーに混ざり込むような男だ。彼の視線はどこか一点を見つめているようでありながら、焦点が定まらず、自分の生活や妻の周囲で起こっていることにも気づかない。

決して魅力的とは言えないこの夫と結ばれたのが、美しい容姿とともに姿を現わすズエン(ドー・ハイ・イエン)という女性だ。彼女は映画の冒頭で、新郎であるハイが皆に囲まれて祝杯をあげているなか、二階の小部屋でひとり幽閉されているかのようにこもって、小窓から外を羨ましそうに見つめている。彼女を捉えるファーストショットがその美しい横顔ではなく、ドレスのホックを緩める手のアップだということが、その後の展開を感じさせる兆しとなっている。挙式を挙げたその日から、彼女はすでに何かを求め、満たされない欲求をかかえている存在のように見えるのだ。

無垢な夫とは対照的に、野生的でありながらどこか知的で怜悧な側面をみせるドー(ジョニー・グエン)という男に出会うシチュエーションを与えたのは、彼女の友人であり、小説家のカム(リン・ダン・ファム)だ。彼女はある種の「先導者」としてズエンの内心に溜まる不満を嗅ぎ分け、彼女の欲望を開放させようとするかのように誘惑する。しかし、後の映像でわかるがカムは既にドーという男と顔なじみであり、肉体的な関係さえあるような雰囲気を匂わせる。自身の恋人を友人のためを思って譲り渡すという展開は『君の鳥はうたえる』(2018)を想起させなくもない。

このカムという女性の視点から映画を見つめ直すとより面白く、結局のところズエンは彼女に誘われるがまま二人の男との間で揺れ動き、最後には再びカムのもとへと戻ってくるのだ。彼女が小説の執筆が行き詰まり、書きあぐねいている様が映されるショットがあるが、劇中でメタフィクション的な言及はされていないが、本作がより人間の内面に迫る作品であることを考えると、そこに別の視点が生まれてくるだろう。そしてズエンは明らさまなほど象徴的な行為として、冒頭でまとっていた純白なワンピースを脱ぎ捨て(途中にドーとの旅先の場面で、彼にネグリジェをハサミで裁断されるという露骨なショットを挟んで)、最後は黒いワンピースに身を包み、結んでいた長髪をほどいて色気を感じさせる艶やかな女性へと変貌する。その変化を見つめた後では、ラストの渋滞のなかズエンとハイが車で進む場面が前半の反復として行われるが、彼女が最後に後部座席から運転席のハイに向かって差し伸ばされる手の意味が、明らかに前半とは違った意味合いをもって見えてくるだろう。

満たされることのない人間の孤独や欲望というテーマは、国の内外を問わず普遍的なものであり、ベトナムニューウェーブがその点を描いたことは、世界的な評価を得ていく上で重要なポイントと言えるだろう。さらにはベトナムではいま、北部出身の映画監督たちに南部を撮らせるという、昔の軍事境界線である「北緯17度線」を越えて、映画でもって再び過去の歴史と向き合おうとするプロジュエクトまで進行しているという。文化や民族の壁を越えて、その先の未来を描こうとするベトナム映画の今後を見つめていきたい。


主に新作映画についてのレビューを書いています。