口語にとって韻律とはなにか   ――『短詩型文学論』を再読する――

1. はじめに

 平成二十七年版の「短歌年鑑」(KADOKAWA)を読んでいてとても驚いた箇所がある。特別座談会「短歌は世代を超えられるか」の小島ゆかりの発言である。

小島 五島さんの「鍋つかみ」の歌も、一字アケを使って字余りまでしているんだから、もっとリズムで読ませてって思う。

 ここで言及されている歌は、以下に引用する短歌のことだ。

くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ/五島諭『緑の祠』

 「句割れ・句またがりは魅力があるけれど、最後は二音字余りで「待つ」を入れている。その必然性がまず分からない」と発言しているように、小島はこの歌を〈くもりびの/すべてがここに/あつまって/くる 鍋つかみ/両手に嵌めて待つ〉と句分けして読んでいるようだ。筆者はこのことに驚いた。初読のときから、〈くもりびの/すべてがここに/あつまってくる/鍋つかみ両/手に嵌めて待つ〉と読んでいたからである。
 もちろんどちらが正しいとは言えないが、結句九音の字余りと考えるよりは、三句七音の字余りと考える方が、より自然に定型のリズムに「ノる」ことができるだろう。三句目の五音で小休止が入りそうになるところを七音にすることで、リズムのギアが入り直し、勢いを止めることなく下の句へとリズムの波が伝達してゆく、そのような作用がこの字余りにあるという解釈もできる。「すべて」「あつまって」と周りの音を変えながら句の途中に現れていたテの音が、「両/手」の句跨りによって結句の頭にくる。このことが字余りによって進められてきたリズムを力強く支えているのではないか。たとえば、この歌を〈くもりびのすべてがここにあつまって 鍋つかみ両手に嵌めて待つ〉とでもすれば字余りは解消されるのだろう。それでも「くる」の字余りがあった方がこの一首全体のリズムはよく響いているのではないか。定型の五音による滞留を突破することで、そこには新鮮なリズムがあるように思う。u母音のくぐもるようなこの二音の字余りが不要なようで、一首の生命に深みを与えていると言うのは無理があるだろうか。
 ……もちろん、韻律についての感覚は究極的に言えばひとそれぞれである。けれど、この歌やその他の口語の歌を俎上にあげて「いまの若者は口語を使って定型や調べを大事にしない」というステレオタイプな小言を言ったかとおもえば、参加者が参加者どうしの歌を取り上げ褒め合っているというこの座談会に、率直にひどく衝撃を受けた。
 そこで、この文章では、韻律とはなにか、韻律批評のパターンなどを改めて提示した上で、それを用いて口語の短歌における韻律の様相について考えていきたい。

2. 韻律とはなにか ~韻律と韻律イメジ~

 まず、短歌における韻律とは何だろうか。
 音、韻、律。それは短歌の視覚的な要素や意味から独立した、聴覚的な要素だと捉えることができる。そして、歌会などで「ア段の音が多いから明るい響きがする」という批評が行われたりしている。また逆に、「音読したときに詰まりそうになる、噛みそうになるからこの歌の韻律はよくない」と言われることもあるだろう。音や韻というものが、外部刺激として(つまり、客観的な批評要素として)扱われているのが現状のように思われる。
 しかし、岡井隆・金子兜太共著の『短詩型文学論』(紀伊國屋書店・一九六三年)において、岡井による「補説A 感覚と感情」の項を読んでみると、ずいぶん昔に異論が唱えられていることがわかる。
 岡井は黙読した際に生じる韻律のことを、「韻律イメジ」という言葉を使って論じる。

 ゆっくりと黙読するとき、耳に響くのは、まさに聴覚像(イメジ)としか呼びようのないものである。それは、現実の聴覚とは、はなはだしく距ったなにものかである。(…)イメジは、個々の音声から抽象されている。(…)イメジは、音読の実際からも抽象されている。そこに、誤読や錯読や、とちりや、音節の訛り、崩れなどはない。(…)イメジは感覚そのものにくらべると、曖昧で、音節も韻も律も明瞭には響かないようにおもえる。(…)それにもかかわらず、われわれは、イメジと、感覚そのものの関係を疑ってはいない。

 そして岡井は続けて、〈はたして、聴覚についての批評や、耳からきく音声言語についての批評が、イメジ(聴覚イメジ)の世界にも、そのままあてはまるのであろうか〉と問を立てる。
 岡井隆自身による短歌韻律論は、まぎれもなく「聴覚についての批評」「耳からきく音声言語についての批評」である。ここに生じる矛盾に岡井は気付いているのである。

 われわれが詩歌作品と呼んでいるものは、あたかも一連の「外的刺激」のように思われ勝ちだが、実は、作品とは、文字という外的刺激のひきおこしている重層的な、情緒反応なのである。(…)本当は、従来の批評語、たとえば「こころよい響き」「カ行音の反復」「韻の共鳴」「大きくゆれるリズム」などにみられる音韻・音楽上の用語の乱発・借用は、好ましいことではない。

 そして岡井は言いきる。〈音感覚に関するかぎり、われわれは、一切、イメジの世界で詩歌を享受している〉と。では韻律とはなんなのか。韻律批評とはなんなのか。岡井は〈短歌の韻律というとき、われわれは、(…)韻律イメジを問題にしていたのである〉と言う。韻律イメジとは、聴覚イメジと発音イメジの二つの音イメジのことだ。
 話が抽象的になりすぎたかもしれない。たとえば、佐藤佐太郎の〈夕(ゆふ)光(かげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝(かがやき)を垂る〉という一首を黙読するときに、定型のリズムを感じながら、二句目から三句目へ3音、4音、5音と音の広がりの豊かさを感じるのは「聴覚イメジ」だろう。そして「なかにまぶしくはなみちて」のア段音を基調としたn音やm音の発声を想像して、丸みのある音を感じることもできる。これが「発音イメジ」と言える。(もちろんこの二つは厳密に区分することはできず、両方の性質を備えているイメジもあるだろう。)そしてもし歌会などであれば、司会のひとに「先ほど音読したんですが、ナ行やマ行、濁点の音が多くて読みづらかったです」なんてコメントをされるかもしれない。確かに「なかにまぶしくはなみちて」と、舌や唇の動きが激しく発声しづらいかもしれない。けれどそれは、黙読する読者の内部での、内的体験としての韻律とはほとんど無関係なものである。音読しづらさは韻律の悪さでは決してないのだ。
 そして岡井は自身がこの矛盾の中で聴覚的な韻律論を扱う理由を以下のように述べている。イメジは「逃れやすくつかまえにくい感覚の写し」であり、「内言語」の領域の現象であるため、それを識別・分析・批評する手法が豊富に存在しない。そのため、韻律イメジの世界を韻律そのものの世界から類推する間接的方法をとっているのだ、と。
 話がまどろっこしくなってしまったが、要するにこれは韻律批評を行っていくための前提条件だ。短歌における韻律とは本来、読者の内部に生じる韻律イメジなのだけれど、それを明確に分析・批評する手立てはない。そこで仕方なく実際の韻律(リズム・音)を解析することによる外部照射をもってして、その韻律イメジのぼやっとした像を浮かびあがらせようということである。
 「短歌は音読されるもの」「調べが大事」……ほんとうにそうだろうか? 短歌という形式が音楽のように音で記録され、音で鑑賞する形式であったならそれが主流の考え方であってもなんら問題はないだろう。けれど、短歌はいま現在、活字を中心的な媒体として流通している。それは、必ずしも音読を伴う媒体ではないはずだ。ルビや漢字の使い分けは字にしないとわからない。これらを用いる活字によって現代短歌は発達してきたのだ。活字である限り、現代短歌は黙読という形において第一に受容される。
 短歌において愛誦性はひとつの長所としてしばしば語られるが、果たして実際に、日々の中で鼻歌のように短歌を口ずさむひとがどれだけいるだろうか。アンケートでもとってみないとわからないけれど、私に関して言えば心の中でその歌を響かせて味わうだけだ。心の中のリフレーンは音読ではなく、韻律イメジの追想だ。もう一度言う。大事なのは調べ(韻律)そのものではなくて、心の中で鳴り響く調べ(韻律)のイメジなのである。
 最初の問にもどろう。短歌における韻律とはなにか。韻律とは、内的経験である韻律イメジの「殻」としての、外界との接点である。読んだときに起きる印象としての韻律イメジを批評していくために、私たちはその殻である音声的な韻律に触れるほかない。殻を叩いて中身の様子を探ることはできるが、中身の実体というものはわからないのである。
 もちろん短歌批評を豊かにするためには韻律イメジそのものを捕まえにゆく手法の発展が求められるが、この文章ではそれは置いておき、ひとまず既存の韻律批評の手法を確認していこう。引き続いて『短詩型文学論』をひもといていく。

3. 五つのリズム

 『短詩型文学論』において、岡井は従来(といっても六〇年代以前のことだが)「声調」や「調べ」と呼ばれた複雑な韻律の概念を、五つの因子に分解した。その五つとは、①等時拍リズム、②意味リズム、③韻・音色のリズム、④句分けのリズム、⑤視覚的リズムである。
 まず①の等時拍リズム。短歌における音の最小要素は子音と母音を合わせた一拍だ。五七五七七の三十一音(拍)という定義も、日本語のそれぞれの音がそれぞれ同じ一拍を持つというところから始まる。もちろん、子音や母音の組み合わせによって、この音は0.7拍ぐらいでこの音は1.2拍ぐらいだ、などという差異は現れるのだけれど、とりあえずは日本語の一音は一拍であり、それが三十一程度並んで一首の根幹となるリズムを形成する。②から⑤のリズムは、岡井曰く「干渉因子」であり、①の等時拍性を妨げることによって、リズムの屈折が生じ、そこに新たなリズムが生まれるのだという。
 ではその干渉因子としてのリズムとはどのようなものか。
 ②の意味リズムは、単語ごと(あるいは文節ごと)に音数に句切れが入ることで、その単語内の音に癒着が生じて、等時拍性を崩すというものである。たとえば「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」ならば、「あしひき・の・やまどり・の・お・の・しだりお・の」と言う風に4・1・4・1・1・1・4・1という具合だ。
 ③の韻・音色のリズムは母音や子音などの音素の介入により起きるリズムである。先に私が佐太郎の歌をとりあげてア段の音が云々述べたように。岡井自身は、たとえばカ、ク、コの3つの音について〈音声学者は、この三通りのkの共通根を疑って〉おり、〈三つのkは、それぞれちがう三つの音韻環境に置かれている故、みんなちがう〉、そのため、〈子音を、特にローマ字や、アイウエオ行別(カ行、サ行等)で一括して語るのは、危険なのである〉と述べる。母音律の話を音声学的厳密さで検討した岡井であるから、微妙に異なる子音を同じとして性急に語ろうとするのには慎重になったのだろう。けれど、私たちの生活実感からして、カとクとコの音が同じ子音グループに存在することは疑いようのないことである以上、私たちの韻律イメジを形作るものとしての韻律に、その共通性は根深く作用するはずなのではないかと考える。なのでここでは岡井の説く母音律だけでなく子音律も含めておく。
 ④の句分けのリズム。これは単純で、五七五七七の七五調のことである。よく唱えられている「短歌四拍子説」もこの中に入るだろう。初句や三句目のあとに小休止を入れて読みたくなったり、字余りや字足らずを五七五七七から相対化しながらリズムを感じとったりするのは、句分けによる等時拍への干渉だ。句跨りなどは②のリズムとこの句分けリズムとの融合によって生まれたものだろう。
 最後に、⑤の視覚的リズム。〈画数の多い、画線の大きい――つまり密度の大きい漢字が、視線の流れを停滞させる。そこに「目のリズム」が生じるきっかけがある〉と岡井は述べる。漢字と仮名文字を比較したときに、漢字の方が「画数」あるいは「拍数」が多い傾向にあるだろう。同じ漢字でも拍数の多い方が停滞は顕著になり、同じ読み方でも平仮名よりも漢字が、漢字の中でも画数の大きい漢字(たとえば旧字体)が、より停滞を引き起こすだろう。画数について言えば、ごちゃごちゃした文字の方が視覚による認識が遅れることで、リズムが生じると言えるかもしれない。拍数については、一文字あたりの拍数のズレが、等時拍リズムを妨げるひとつの要因となると考えられるだろう。そして、字空きや記号、改行などの視覚的効果をねらったレトリックによって生まれるリズムもこの⑤に分類して検討する必要がある。
 長々と文献の紹介をしてしまった。大切なのは、短歌の韻律は、以上の五つのリズムの総体(岡井は「積分」という表現を用いている)であるということだ。私たちが短歌の韻律と向き合うとき、これらのリズムをできるだけ複合的に考えていく必要があるだろう。「字余り/字足らずだから効いていない」「ア段が多いからいい韻律だ」……と表面で立ち止まってはいけない。あくまで韻律イメジのいいわるいが先に立っていて、その結果を探ると何らかの要素に辿りつく、というのが本来あるべき批評なのだろう。

4. 口語の韻律機構 ~音便と定型拡張~

 さて、元の話の筋に戻っていこう。口語は韻律をどのように作っていくのかについて考えてみたい。
 短歌が文語定型を基本として出発し、発展してきた以上、短歌における韻律という概念は文語の助動詞に大きく託されて来たのではないだろうか。たとえば、「き」「り」「たり」「なり」、助動詞ではないが「をり」などである。イ段音をふんだんに含む文語体系が定型と協力し、音の流れに秩序や緊張をもたらすのだ。
 しかしこのことだけによって文語を使った短歌の韻律がよく、口語を使った歌の韻律が悪いという言い方はできない。口語の歌における韻律の発生機構とは何だろうか?
 助動詞の貧しさが口語の韻律を貧しくしているのは否定できない事実として存在するだろう。そこで、口語の韻律機構ということを口語の歌に現れがちな二つの特徴から考えてみたい。一つは、音便化。もう一つは、句割れ・句跨り・字余り・字足らずなどの定型の拡張である。
 音便化。文語の動詞であれば「ありて」や「読みて」や「書きて」となるところは口語では「あって」や「読んで」や「書いて」へと変化する。このことが口語の歌に与える影響は大きいだろう。動詞の音便に限らず、「~とて」が「~って」と転化したものも口語的表現だと言えるだろう。
 文語にはいつでもイ段の音に帰ってこられる安心感がつきまとう。「り」や「き」の持つ鋭い響きは、韻律に緩急をつける。これは口語にはどうしてもできない領域だろう。藪内亮輔の〈営みのあひまあひまに咲くことの美しかりき夕ぐれは花〉の歌の下の句が〈美しかった夕ぐれは花〉であったならば、韻律的に台無しだ。純粋口語で短歌をつくっていくとしたら、文語の得意領域ではなく、口語の特徴を使っていくしかない。
 口語や音便化によってもたらされるもの、それは「単調さ」だ。最終的に、口語のみでの作歌は単調にならざるを得ない。
 そこでもうひとつの韻律機構として作用するのが、定型の拡張である。句跨りや字余りなどの介入によって単調さへの抵抗を起こしていくことが韻律の多様化へとつながる。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる/永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 韻律のフラットさとその抵抗を考えたときに、永井祐の短歌作品はそのわかりやすい一例となるのではないだろうか。掲出歌はフラットな例として挙げた。そこには「おしゃれ」「写メール」という音の重なりを捉えることができるが、韻律的にふくらむポイントやくぼみとなるポイントというのはさして見受けられないし、初句七音も勢いを出すなどの見込まれる効果からは独立して使われているように思われる。ここでは「撮ったり」の促音とト、タというt音の子音により、跳ねるように結句へと突入していると言える。口語の音便化が効いている例だろう。以下に引用する、穂村弘がいうところの「修辞の武装解除」に該当するような永井の作品にも、韻律のフラットさは見てとれるだろう。

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
看板の下でつつじが咲いている つつじはわたしが知っている花
/永井祐

 これらのフラットな韻律の作品とともに、永井は句割れや句跨り、字余りを使ったうねりのある口語韻律を生みだしている。

パーマでもかけないとやってらんないよみたいのもありますよ 1円
ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね
月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね
/永井祐

 一首目は最初に引用した平成二十七年度の『短歌年鑑』において、島田修三に「定型の徹底的な無視」と指摘された歌である。しかし短歌定型を念頭に置いて読んでいけば、〈パーマでも/かけないとやって/らんないよ/みたいのもあり/ますよ 一円〉と句跨りと字余りを含めて十分に短歌定型のリズムで読むことができるだろう。「やって/らんないよ」と、ア段音+っ、ア段音+んの強弱が字余り・句跨りをともなって現れ、「らん」にテンションがかかるのである。「ますよ 1円」の一字空けの視覚的効果によってリズムはいったん停止し、その後「1円」の四音へと突入していく。
 二首目は一首目ととても似た構造をしている。〈ベルトに顔を/つけたままエスカ/レーターを/のぼってゆくおん/なの子 またね〉と、二句目から三句目と、四句目から結句の二か所にわたって句跨りが生じている。結句は六音の字足らずになっているが、一時空けの空白を弱い一拍だと感じることができれば、定型のリズムを感じとりながらも、定型の内部における抵抗によって揺れていくリズムを二重に感じ取ることは容易だろう。ここに永井の口語韻律におけるうねりが確認できる。
 三首目、上の句と下の句の間の二字空けについては語りうることは多いが、ここでは視覚的な滞空が一字空けと比較して大きくなることのみ指摘しておく。下の句の〈ぼくはこっちだからじゃあまたね〉は3・6・2・3と分けるのが自然だ。しかし、この下の句の十四音においては四句目と結句の切れ目があいまいにされている。三連符のように進行するリズムは切れ目を見えなくさせ、こっそりとうねりを生み出す。こっそりと定型からズレるので、読後に破調だなという感覚をあまり与えないのが特徴的だ。
 定型の拡張とはつまり、定型を相対化することだ。まずはじめに定型という枠を与えられて、そこにいかに言葉が乗っていくか。定型は絶対ではない。永井の作り出しているうねりは、作品の内部に定型を感じることができるわけだから、定型の破壊ではなく、定型の拡張なのである。そしてそこに口語韻律の単調さを乗り越えるカギがあるのだ。
 永井と同世代の口語の歌人として、堂園昌彦の短歌の韻律も確認していこう。堂園作品においては、一部の例外が認められるものの(「感情譚」など)、ほとんどが純粋口語で作られている。

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している
君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす
君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 その作品の難解さや抽象性、わたしの希薄さなどがしばしば(批判的な文脈で)話に出される堂園だが、彼の歌の持つ最大の魅力であり根源となっているものは、韻律である。
 一首目、巻頭歌である。『早稲田短歌44号』のインタビューで堂園はこの歌の三句目の「冬の日の」は「冬の日に」にした方がわかりやすくなるのでは、という山田消児からの批判に対して、それでも「冬の日の」でなくてはいけないと語っている。短歌の生理的にこの三句目は「日に」とイ段音の連続に落ち着くのが自然なように見える。しかし、堂園はそこを「日の」と操作することで、韻律の有機的な質感を得ているのだ。微弱な電流を感知する検流計のような、研ぎ澄まされた美的感覚によってなされる韻律操作である。
 二首目、堂園の韻律機構は小さな意味リズムから大きな意味リズムへと向かうダイナミクスにある。〈きみは/しゃがんで/胸に/ひとつの/生きて/死ぬ〉と、3・4・3・4・3・2と推移する上の句に対して下の句の〈桜の存在をほのめかす〉は句跨りをふくむ4・5・5と意味因子(ここでは単語ではなく文節で数えた)あたりの拍数が大きくなっている。一首が屹立する堂園の歌の強さを支えているひとつの柱は、上の句から下の句へ読み下すときのリズムの転換なのである。
 三首目も同様だ。三句目までは3・4・2・3・2・3・2と推移し、四句目と結句は3・7・4となる。ここでは、何度も出てくる3音から拍数が増えたり減ったりの振動を繰り返しながら進んでいき、〈運動場を宿した〉でリズムが大きく転調されることも重要だろう。
 短歌において上の句と下の句は単なるシンメトリックな上下関係ではない。その拍数の違いや、下の句が必ず上の句に次いで出てくるという主従関係がある。堂園の歌にしばしば見られる上の句から下の句へと拍数が増えていくという意味リズムのダイナミクスは、大きな枠(上の句)において意味の密度が大きく、小さな枠(下の句)に向かうにつれて意味の密度が小さくなるというある種の発散を歌にもたらす。密度が小さくなることで、大きな詩的空間へと導かれるのである。堂園は、句跨りを軸とした定型の拡張と、意味リズムの発散によって、口語韻律にまとわりつく単調さを乗り越えようとしているのだ。

5.おわりに

 口語の韻律論を書こうと思いながらゆっくり筆を進めてきた。まず岡井隆『短詩型文学論』から「韻律と韻律リズム」の違いおよび「五つのリズム」を再提示した。われわれが感じている韻律イメジは、実際に音に鳴らされる韻律とは異なり、韻律批評では表面的な音声批評でなく、韻律イメジに迫っていく必要があるだろう。そして、我々は批評において岡井の提示した「五つのリズム」という有用なメソッドを見落としてしまってはいないか。そもそも歌会ならばともかく、総合誌で読むことができる短歌への批評に韻律面への言及はあまり見られない。その上、その批評が約五十年前に岡井に提示されたメソッドを意識することもなく「調べがいい/悪い」の感覚的な二項対立に陥ってしまっているとすれば悲しいものだ。韻律を重要視する歌人が一定数以上存在するように見えるのに、韻律を軸とした批評がほとんどなされないのが現代短歌の悲しい現状である。
 また、口語短歌における韻律の現状を永井祐と堂園昌彦の短歌をモデルに確認した。純粋口語の短歌には「単調さ」という逃れがたいアリジゴクが存在する。永井作品はその単調さばかりに注目がなされるが、一方で定型の中でのリズムをうねらせ、単調一辺倒になることを避けていることがわかる。また、堂園作品には上の句から下の句への拍数の増加と句跨りという力学によって口語の単調さを回避している。(もちろんそれがある種のパターン化になりつつはあるのだが……)
 韻律の問題は定型の問題とも密に関係しているだろう。昨年の角川短歌賞の座談会(「短歌」二〇一四年十一月号)においても、谷川電話の純粋口語による受賞作は永井祐や斉藤斎藤の口語作品よりも定型感覚があると評価を受けていた。

青春はまだまだこない 初冬のうみべにきらめく歯列矯正
自動車できみがむかえにきてくれる このまま轢いてほしいと思う
タイヤまで白い自転車はしらせる無職のきみを荷台に乗せて
/谷川電話「うみべのキャンバス」

 この作品全体に流れるダウナーな雰囲気が評価されたのだろう。ただし、韻律面や定型感覚の面においては、永井や斉藤の方が明らかにあると断言できる。受賞作の谷川作品には口語短歌にまとわりつく「単調さ」への疑念が存在しない。もちろん彼の興味が韻律や定型よりは主題や雰囲気にあるためと考えられるのだが。彼の作品が単調な口語短歌であることにとりわけ問題はないけれど、それを「定型感覚がある」と評してしまう審査員の資質には問題があるのではないか、と私は考える。永井や斉藤の定型からのズレ(いわゆる破調……私は破調だとは思わないが)は、韻律的な単調さの克服から生じるものだということである。定型感覚があるのはどちらだろうか。
 歌人はいま一度、適当さであふれかえっている韻律や定型の問題をもっと突き詰めて考え、その考えを表明することが必要ではないか。私は韻律が好きだ。もっと韻律の話をしたい。なのに韻律批評はほとんど存在しないし、韻律に触れられたときでも「いい/悪い」としか言われない。それでいいのだろうか。短歌の意味なんて人間の知性でどこまでも解体できるけれど、韻律はもう、韻律としてひとつの有機体だ。こんな不思議なものを放っておいてはいけないだろう、と私は思う。これからの歌壇での韻律批評の発展を願うばかりだ。
 「口語にとって韻律とはなにか」……全体についてはまだわからない。けれど、〈単調さ〉がその核にあると私は考えている。その周辺の事象については更に考えていかなければならないだろう。

Reference

岡井隆(1963)『短詩型文学論』(紀伊國屋書店)
五島諭(2013)『緑の祠』(書肆侃侃房)
永井祐(2012)『日本の中でたのしく暮らす』(bookpark)
堂園昌彦(2013)『やがて秋茄子へと到る』(港の人)
『短歌年鑑』平成二十六年度版(2014, KADOKAWA)
「短歌」2014年11月号(KADOKAWA)


※初出:「京大短歌21号」(2015)

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