直列と並列

歌会に出て、自分がしゃべったあとにしゃべってるひとの発言に、「うわ、乗っかられた」とおもうことがある。

ひとりめ以外の発言者は、多かれ少なかれ前評から相対的に発言することになるのは仕方ないけれど、前評を「所与のもの」として扱い、まるでそれがゼロ地点かのような話し方になってしまったとき、そうおもってしまう。

これはいわば、直列的な歌の読み方で、これがつづくと前から後ろへ、批評をぽんぽんとつないでいって、「それってほんまにこの歌についての話なん?」みたいなところに行きつく恐れもある。

一方で並列的な歌の読み方もあって、「こういう読みもできる」という展開のしかたとか。

並列的な読みばかりだと、結局散逸してその歌の核がなんなのかというのはぼやけてしまう。

直列的な読みが読みを「深めていく」、並列的な読みは読みの「幅を広げる」ものだとおもっていい。

ただ、深めるのも幅を広げるのも、同一平面でのできごとだ。目がさめる批評は、それまでの会話で作り上げられた批評に、第三軸を貫くものだ。それは新たな評価軸を歌に与えるということでもあるし、歌の空間を広げるということでもある。

短歌の読みは立体的なのがよいとおもうし、最終的にゼロ地点に立ち戻るような歌、批評がよいのかもしれない、とおもう。そういう意味で、ぼくは歌会の批評リレーの形態として理想的だなとおもうのは、直列的なものを積み重ねて深く根を掘るようなものでも、並列的なものを積み重ねてできるアリの巣のような形状のものでもなくて、メッシュ状のボールのようなものなのかとしれない。この辺り、もう少しぼんやりと考えてみたい。

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