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人生をかけてのシンボル解釈

生きるとは ストーリーを紡ぐこと   
だけどあるひ ささやかれたんだ
紡ぎ終わった果実をどこかからとってくれば? 
   
剽窃の味をおぼえたロータス・イーターは
それから一生 
封印されたストーリーにからめとられのっとられ
夢中で演じる二人羽織
   
自由を手にしたはずがいつしか 
その果実のストーリーに
とりつかれるように翻弄される

そうやって一生を終えることを「吉」と呼ぶ 
磁力と重力に満ちた地で
はたしてわたしは 
生きていると言い切れる?
        

Photo by Karen Lau on Unsplash
https://unsplash.com/@pic_parlance


文字の持っている力について、実はかなり絶望している。
言葉が持つ偶像的効果、欺瞞、誤解、文字の持つ機能性の副作用がもたらす、悲しさや絶望をいやというほど味わってきた。
なのにどうして私は性懲りもなく書き続けているのだろうか。

人はなぜ裏切りに目をつぶるのか――心の奥では知っているのに自分をだます理由 に、こう書かれている。

彼女の頭の中の知識は、最初はわけがわからないように思われた(そしてそう判断された)が、ついにそれを語る言葉を見つけた。さらに自分の経験した裏切りを他人に打ち明けるとき、ベスがある意味で自分自身にも打ち明けていたことがわかる。これはまさに、人が自分の耐えている経験について知らずにいることができるという、乖離の核心に関わる事実だ。自分自身に打ち明けない(すなわち、目をつぶる)現象が起こる理由のひとつは、内的な打ち明け話と外的な打ち明け話が、きわめて強く結びついているからに他ならない。外的に打ち明けることが安全でないのなら、自分が知ること、つまり内的に打ち明けることも安全ではないのだ。

人はなぜ裏切りに目をつぶるのか――心の奥では知っているのに自分をだます理由
(亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ II-6  ジェニファー・J・フレイド,パメラ・J・ビレル,定延由紀 亜紀書房 P217)

書くという行為は、ストーリーを客観的にみつめて、自分とは別の生き物だとして扱うことでもあるように思う。
つまり、葬る、というような意味合いがあるように思うのだ。
夢やファンタジーを紡ぐことが、往々にして偶像崇拝やナルシスティックな自己陶酔と紙一重であり、自分が生み出した妄想に溺れて人生がめちゃくちゃになる作家やアーティストはたくさんいるけれども、こっちのニュアンスにおける「書く」ということは意味がまったく違ってくる。
言葉にする内容というのは、自分から切り離し、手放すため、終わらせるためなのかもしれない。
渦中にいて言語化できず朦朧としている時、人はまだ冷静に、ストーリーの全貌を受け止め切れていない。
それを受け止めるために、言葉を使った表現と、それを受け止める人が必要なのかもしれない。
奇をてらったストーリーが価値があり個性的ということじゃない。
 どれだけその人が自分に正直で、自分に寄り添って言葉を紡いだか。その深度と純度だ。

最近久しぶりに、フランソワ・トリュフォーのことを思い出していた。とくに熱心に、彼の作品をたくさん観た記憶はない。けれど、断片的な鮮烈な印象が、私の中にずっと在る。映画を観たというより、ひとつの体験、みたいな記憶分類に近い気がする。
この質について伝わるように書くことはとても難しい。
わたし自身にとって、魂が揺さぶられるような、人生がひっくりかえるような深い体験、というもののほとんどが、実は本や映画を通じて味わった風景と切り離せず入り混じっていることが多い。フィクションとして割り切ってその妄想に浸りきったことを実体験と信じ込もうとしているのと少し違う。胡蝶の夢ではないが、どこからどこがどう、と切り分けることができない状態で、重力と無重力が渾然一体となっている。
時空間が実体である、という「事実」が、実は非常に疑わしいのではないか、というのは、このあたりのファンタジーだか実体験だかわからない領域に、深く生きている実感、生きている意味を感じずにはいられない人にとって、ぴんとくるだろう。心の世界では、過去も未来も、質としては同じ状態で取り扱われている。そういう話の延長に、過去への認識が変化すると、未来も変わるという、シンプルでありながら実践することが叶わない法則を、ちらちらと垣間見、そのある種、わがままなコントロールの圏外にある神秘性に途方に暮れる。

わたしにとって何が事実で何が虚構か、ということについて答えのない問いを抱えて生きることを、わたしは一貫して大事にしていたい。その具体的な方法のひとつが、シンボル解釈にあると思う。

シンボル解釈をやるようになったきっかけはいろいろある。自分の人生の意味不明さに、どうにかして納得したかった。それがきっかけで占星術やタロット、その他ひととおり手を出したが、表層的なところで満足する商業的なラインに、わたしはどうしても馴染めなかった。今も馴染めないままだ。

多くの人は、答えを求めるためにシンボルを解こうとする。
だがどちらかというと逆で、実は問い、しかもとびきり質の良い問い、をシンボルはなげかけてくるのである。
解くのはわたしである。
この順序こそが、真実と美の世界への道しるべなのだ。
そういうことに真摯に向き合いはじめると、次々に、世界に満ちたシンボルがわたしに語りかけをはじめてくる。一見無秩序に並んでいるような、日々の見慣れた風景に、一貫性があらわれ、何かをわたしに訴えかけはじめる。その声なき声に耳を傾け、ストーリーをキャッチするためにはいったいどうしたらいいのだろうか。

力に酔っているひとたちは、自分にとって何がしっくりくるか、という感覚を置き去りにして、みんなにとって平等に正しい答えを「客観的に」導き出そうとしたがる。だが、それははっきりいってあまり意味がない。ホームドラマや恋愛ドラマの主人公のような、典型的な人物が実際に存在しないように、そうやって導き出した答えはまったく実用的ではなく、生きたひとりひとりにとって、誰にとってもしっくりこない答えになってしまうからだ。

抽象的な世界を扱う時の大切な掟は、具体的な世界に引き下ろすやり方はいくらでもバリエーションがあり、無数に分岐するということ。あるイメージを、磁力と重力に満ちた地上で具体化現象化させるときのやり方は、決して1つではないのだ。別の言い方をすれば、みんなが同じ、普遍的なある元型イメージを大切にし、それを生きようとしたとき、その現れ方は1つも同じにならないということだと思う。
ここでキネシスとエネルゲイアの反転が生じる。
器的な生き方・道的な生き方の混線だ。

キネシス的な世界観は「やり方を同じ」に揃えることに固執する故、かえって、本来全員が目指していた「ある元型イメージを具現化する」という当初の目標がまったく達成されないことに陥ってしまう。よかれと思ってやっているのにどうしてそうなるのだろうか、ということに悶々としながら、でも深く考えようともせずに一生が終わっていくのが「器」としての生き方である。
対してエネルゲイア的「道」としての生き方は、やり方がわからないまま様々試すうちに、いつのまにか、自分でもびっくりするようなやり方で、元型イメージとの連携がとれていくということになっているらしい。
らしい、と書いた。
わたしだって、いつもいつもうまくいっているわけではない。というか失敗しかない!この書き物だって、完成するかわからないのにあきらめないで書こうとしている最中なのだ。

世の中には種のある黒い魔法と、種のない白い魔法の両方が存在する。
種のある魔法の方は、ある手順どおりにきちんとやれば、必ず効果が出る。だけど、副作用もある。
対して、種のない白い魔法の世界は、やり方がそもそも決まっていない。やってみても、必ずそうなるかどうかはわからない。けれど、その叶えたいほんとうの望みがみつかれば、必ず叶うことになっている。
というか、望みをみつけていくプロセスそのものが本体なのだ。

この荒れ果てた時代は、誰もがこの種の望みを大切に追うことを放棄した当然の帰結なのではないか、と最近しみじみ思う。
というかこんな時代だからこそ、物質的に豊かな時代には偶像にまみれて気づけなかった深い真実に、わたしたちはいちばん近いのかもしれない。

人生をかけてのシンボル解釈の意味は、自分ですら自覚していない、他人におしつけられた欲望ではなく、ほんとうの望みに気づいていくというところにあると思っている。

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