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力の美、生命の美③

先日、空港から在来線へ向かう電車での出来事だ。

旅から帰宅する途中の母親が、おそらく2歳くらいの女の子と、5,6歳くらいの女の子2人を連れて電車に乗っていた。
車内は混みあっており、旅の疲れか、母親に抱かれている小さい方の子がかなりご機嫌斜めだった。
電車が発車し、扉が開くたびに
「おりるーーぅ!」
と絶叫するのである。

母親は、その様子にまったくいらいらすることもなく「降りたいの?ここで降りてもいいけど、また空港に戻っちゃっておうちに帰れなくなるけど、いいかな」と、めちゃめちゃ現実的な理由を告げた。
そして、そう返されたことで、女の子はぐずるのをやめた。

抱かれておらず、母親に手をひかれている大きい方の女の子も、母親に「もうすぐ着くからね」と声をかけられ、納得した様子で過ごしていた。

わたしも息子が小さい頃、よくこれと似たようなやりとりを彼とやっていたのを思い出した。
ぐずっていた子は、おうちに早く帰りたい、という気持ちを理解してほしかったのである。母親は、きちんとその望みを受け止め、そのためにも、降りちゃったら余計遅くなっちゃうよ、と諭したわけだ。

どうしたって、その場で叶うことがない望み、というものを子どもが提示してきたとき、どう向き合うか?

結局、あらゆる場面で反射的に浮かんでくる望みというものの多くは、自分の感じていることを理解してほしい、というところに集約されるだけなのかも、しれない。なので、その望みが叶わなくても、気持ちが受け止めてもらえれば、それで叶ったのと同じなのだ。

これは大人でも同じことで、人はいろいろな望みをかなえようと日々努力して毎日を過ごしているけれども、そもそも、その望みの本質はどこにあるんだろう?という問いは、結構大事だったりする。

力の美しさは、その本質を問わずに、永遠にかたちの美しさに陶酔させつづける。
対して、命の美しさは、かたちへの囚われから人を解放し、ほんとうに深いところからしっくりくる、という瞬間へ時にいざなってくれる。
ただ、その経緯が、思っていた通り、とは限らない。

それが、生きていることの神秘だとわたしは思う。

力の美しさの惑わし、から自身を解放していくひとつのワークとして、岩月謙司さんが提唱していた、3日後日記、というものはとても有用だ。

Photo by Alexandra Fuller on Unsplash
https://unsplash.com/@alexandrajf

ああたのしかったなあ、とその日は思っても、1日たち、2日たち、1週間たち、下手したら3か月くらいたって「あれ?」と違和感を抱く人がいる。それくらい、その瞬間に、自分が感じるということを後回しにしている人たちがいる。

なので、ある日の出来事を淡々と記入し、それに対しどう感じたかを書き、3日たった時に、もう一度同じように感じるか?を検証する、というワークなのだけど、これが結構効き目がある。

自分が自分に騙されていた、ということに愕然としたりする。

これを続けていると、数日経つまでもなく、自身がどう感じているか、とつながりやすくなっていく。

この、反射的に感じた感情が、自分のものではないことが多く、そのことに自ら騙されている、といった話は、左利きの脳科学者、加藤俊徳先生もおっしゃっており、いかに自分の感情を自覚していくか、が大事な人々がいる、という話は、「感情脳の鍛え方」でも書かれているのでおすすめです。

自分の気持ちがわからない、という人たちこそが、往々にして力の世界に取り憑かれやすい。取り憑かれた結果、そうなっているのか、果たしてどちらが先かわからないけれど、このひとたちに必須なことは、力の世界で勝ち抜く技を身に着けることよりも、自身の真の感情を自覚する練習だ。

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