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会話の重力・無重力


子育てエッセイ漫画の内容が、時々twitter(X)で回ってくるのだけど、ちょっとひっかかったものがあったのでメモしておきたい。

だいぶ話題が下火になったけど、例のうどんとラーメンの漫画。


Photo by Ray Hennessy on Unsplash

この、弟君が、うどんの写真をラーメンと間違えていることを、姉によって一見とても正当な手順を踏んでなされている「指摘」。これ、学校で先生が生徒に、あるいは親が子どもに、息をするように行っている指摘手順。姉は、まだ子どもであっても、しっかりその型を体得し、早速自分より弱い弟へお披露目している。

この会話の重力関係だ。
普通の人は何も感じないかもしれない。だが、重力に沿った会話、沿わない会話、という視点で考えた時に、これはものすごく、重力的なのだ。

重力的な言葉の用い方は、権力関係がある世界でのマナーともいえる。力がある人間がない人間に「〇〇をさせる」と平気で使う。そして、権力がない人間は、ペットや、無生物(プログラム)に向かって、指示語を用いて同じように、鼻の穴をふくらませている。プログラミングのお作法なんか、一から十まで「指示」やろ。重力語なのである。

さて、うどんとラーメンの風景にもどろう。
これがもし、アンスクーラー的な関係にあれば、どんな会話になっただろうか?

弟「みて~こえ、ラーメン」
姉「お、ほんとだねー、麺の写真やね」
弟「うん、ラーメン すき!」
姉「おねえちゃんもラーメン好きやで。美味しいもんな。また食べにいこうな。けどこの写真、うどんにも見えるけど、、弟君はどの辺がラーメンと思ったん?」
弟「ラーメンのはいってるの いっしょ!」
姉「おお、ほんまやね、うちで食べる時のラーメンのどんぶりと似てるね。よく気が付いたね。そやねー、そこは確かにそやわ」
弟「ラーメン すき」
姉「わかった。こんどうどん一緒に食べよう。うどんも美味しいよ!」
弟「うん」

・・・上のやりとりは私の創作だ。あの漫画からは、弟君がいったいどのあたりで、ラーメンだ!って思ったのかは、あの少ない情報からはわからない。実際、日常的にラーメンを食べることが多く、麺類は全部ラーメンに思えたのかもしれないし、美味しい印象が強いからぱっとでてきたのかもしれないし、そこはつっこんでいないので、わからない。

だけど、子どもが、イメージを言語と結び付ける時、なにかしらそこには必ず、一定の正当な理由がある。それを「一般的なルールから逸脱してる」と斬って捨てることは、その子が世界を、記号的に取り扱わねばいけない、と思い込む第一歩の、洗脳の始まりなのだ。

人の個性というのは、ある風景の中で、どこに強く印象を受けるのか、興味を惹かれるのか、というものがそれぞれ違う、というところからスタートする。しかし、記号の世界は、あるイメージといえばこの特徴だけが重要、と勝手に規定され、それ以外の特徴は棄てられてしまう。

お姉ちゃんは(そしてこの母親も)、当たり前のように、世界を記号のように見る人たちである。だけど、弟はまだそこに染まり切っていない。しかし、些細なこんな体験が積み重なり「記号に近い感性を持っている方が勝ち」「記号さえ知っていれば勝ち、知らなければ負け」という風になっていくのだと思う。そして、自分が強い立場になったときに、必ず弱い立場の相手に、同じことをやって優越感を手に入れる側の人間になってしまうだろう、、

だまって、いわなければいい、という、この母親のスタンス。一見、息子の記号に囚われていない感性を尊重しているようにも思えたが、ただ甘やかしているだけ、ということにもつながるだろう、、

九州出身で、男尊女卑ど真ん中で育ち、女に教育はいらんと言われ、聡明で給付型奨学金まで手に入れたのに親に否定された結果、ただ自活できるという理由で看護師を目指すために関西に出た母。当然のことながら、医療という人命救助に燃えていたわけでは一切なかったわけで、結婚を機に二度と戻らなかった。

その母が、私の父に対してどんな態度をとっていたのか、というのが、この漫画の母親に似ているところがあるとふと、思い出した。
父の行動や言動に納得が行かなかったときに「もう!」などと、その瞬間、感情を爆発させるのだが、その行為の結果は、結局受け入れてしまうのだ。
よって、父は事実上許され、事態は何も好転しない。
そんなことを延々とやっているのをみて私は育った。
母は、男尊女卑でないふるまいで、父と対等にふるまうやり方を知らないのだ。

わたしだったら、うどんとラーメンの問題がもし息子との間で起こっていたらどうしてるかな、、

うどん屋さんで、そのまま頼んでみたけど、でてきたのがラーメンじゃない!というのを体験してもらったり、スーパーに一緒に買い物に行って、似てる麺を全部買ってきて、ゆでてみて、食べ比べてみるとか、やるかな。。

記号的な世界だけで「これが正しい」「これはいけません」と押し付けて、お互いなにひとつ理解しないまま、力のおしつけ、重力のおしつけだけで過ぎていく関係性。これが日常的に、大人も子どもも当たり前なのかもしれない。

でも、そこには、愛がない。
感じ方への敬意がないし、事実そして真実をただしく見つめる勇気もない。

アンスクーラーは、記号として正しくふるまえるかどうかで人を裁かない。そのかわり、プロセスを丁寧にわかちあう。
互いに、どこを重要視しているのか、を少しずつ、すりあわせていく。

そういう尊重をされて育った人間は、地頭が良い。
物事を、きちんと根っこからみつめることができる。

アンスクーラーは、規範からの自由がベースである。
物事を、曇りのない目でみているのは赤ん坊である。赤ん坊は、この世の人間でいちばん賢いところがある。
そういう発想が、無重力の言葉、の世界。

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