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ホメオパシーの構造①

キネシスからエネルゲイアへ、は私の形而上学探求の総論、みたいな位置づけでまとめていっているのですが、こちらは各論のひとつ、として扱っていきたいテーマ、スピンオフ的な位置づけでの記事です。

キネシスからエネルゲイアへ、では、力の世界と、力を超えた世界の峻別と、これらの関係性(キネシス領域とエネルゲイア領域は常にセットで、反転関係になっている)についての概論なのだけれども、そのわかりやすい具体例を取り上げる、各論をあつめたマガジンも並行して書いていきたい。

いったい、どのくらいのレベルの人を読者に想定したらいいのかさっぱりわからないので、手加減無しで、私の理解しているトーンそのままで書きなぐっており、これがどれほど伝わりにくいのかわからないまま、手探りで書いている。

ほんとうに物事を理解している人は、やさしい言葉で何事も語れるはずだ、とは思うものの、本来言葉で書いてはいけない領域に首をつっこんでいるのでは、という自覚がありながらの試みなのだ、これは、、

そもそも、詩人や形而上学をやっている人のことを、普通の意識で生きる人が理解する義務はないのです。

なので、人をかなり選ぶ連載となっていますが、読んでくださっている皆様、ありがとうございます。。

各元型イメージやレメディについての具体的な話に入る前に、私がどういったスタンスからミネラルを扱っていきたいか、についても書いておきたい。

ミネラルの形而上学、として私も基本的に参考にしているのは、ホメオパシー界では定番の、ジャン・ショートンである。
彼は元素周期表を、人間の精神の進化になぞらえて解析しており、また、ひとつひとつの元素のレメディは、非常に示唆に富んでいる。

レメディ像というのは、健康な人にそのレメディを投与したとき、いったい何が起こるか、というところから探求された、現場での蓄積ベースでつかみ取られてきている。
その実例をもとに、それを裏返すように、その症状が出ている人に投与すると、健康を取り戻す、という運用がなされているわけだ。

いわゆる、物質による作用としての治癒(薬効成分が入ったチンクチャーやら、ハーブティーやら、漢方など)による働きかけと、レメディによる働きかけは、基本的に対応する症状が逆になるのが常である。
場合によっては、通底している場合もあるけれど、それは結構稀だ。

なので、その人が、ある元型イメージに関し、欠乏していることで悩まされているのか、それとも、それが今、ほとんど取り憑かれているかのように過剰になっていることで悩まされているのか、ということの見極めが必要になってくる。
レメディは基本的に、その成分が、その人の体内で過剰になっている時に「あなた、今ちょっと憑かれてますよ!」とドアをノックするように、あるいは、鏡をのぞきこませて、自分がどんな顔をしているのかを認識してもらうかのように、同じかたち、の周波数帯を投与する。

その人が、その人らしくない、別の物語に取り憑かれるように偏っているとき、その偏りと同じかたちの物語、が体内に入ってくることで、その人は「あ、わたし、自分を見失っていた」ということに気づくわけだ。

レメディ選定の現場、という視点からすれば、彼の書籍や、レパートリーソフトなどを使って、適合しそうなものをみつければそれで終わりなのだろうけど、私は、そのミネラルが持っている物語が気になってしょうがない。

プルービングによって得られた情報が羅列されているマテリアメディカから、なぜこんな実例がでてきたんだろう、ということを、羅列ではなく、生きたつながりを持って理解したい、という試みをせずにはいられないのだ。

その理由は、症状がわたしたちに伝えてきている物語への敬意、である。

ホメオパシーの通常運用は、確かに現場においてとても実用的である反面、とても矛盾を抱えた療法ではないかと私は感じている。

その理由は、現場での実用性を重視した結果、症状を通して、わたしたちが普段無意識化におしこめて触れることができない、形而上の世界からのメッセージを、場合によってはぶったぎり、メッセージを破棄しリセットすることと引き換えに症状を消していることがあるのではないか、と思うからだ。

なのでほんとうは、症状を消すのはもちろん大事なのだが、それと連動し、訴えているメッセージを受け取り、心身が回復した後、生き方にそれを取り入れていかねばならない、というのが本来なはずなのだ。

もっといえば、そのメッセージを受け取ることさえできれば、症状はおのずと消えていくのである(そうなるとプロは商売あがったりなのだが、、)

このことをつきつめて考えれば、外から必ず補わねばならない、と信じている栄養素やミネラルなども、得意不得意があるにせよ、基本的に、人は自分の体内で、錬金術のように製造することができるという力を取り戻す、それが真に健康になる、ということだと私は思っている。

高タンパクベースの食生活は、自分で製造する力を基本的に鈍化させていく。常に、外から奪って体内に入れないと欠乏する、という方に心身を固定化してしまう。

これに対し、基本的に菜食ベース、炭素ベースのシンプルな食事をしていると、炭素はほんとうに、何にでも転換が可能なので、すべて、自分仕様のとても自分にあったミネラルを、自分で賄えるということになる。ベジ歴が長い人の体内であたりまえのように行われているこの営みは、おそらく普通食の人とまったく違うメカニズムなのだろう、と私は推測している。

そして、その原動力となっているのが、わたしたちの感情を伴った、日々味わっている物語であって、これを取り戻すことがそのまま、体内のクリエイティブさを取り戻すことと、同じことなのだ。

そういうことなので、なんでもかんでも症状が消えればいい、ではなく、まずは症状やマヤズムがたちあがっていることへの敬意と、その理由というものに耳を傾ける、ということに、私は関心がある。

マヤズムやウイルスを過剰に敵対視し、とにかく鎮めたり排除したり、というアプローチをとらざるを得ないことばかりなのは重々承知なのだが、それはほんとうは、常用する方法論ではない、と私は思うのだ。

Image by Birgit from Pixabay
https://pixabay.com/users/birgl-6508325/


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