Fall to the Moon, after sinking into cloud.

 巨大な恐竜のモニュメントを見て道を間違えたことに気付いた。
 いや、この時から酔っていたのだろう。特急の中でビール。今は胸ポケットに入れたウィスキー。そうでもしなければ、この気分を紛らわせるのは無理だった。
 空は重く雲が垂れ込め、はらはらと白い雪が舞っている。憂鬱な天気だ。寒くて仕方が無い。
 ターミナル駅に接続しているにもかかわらず、そのローカル線は酷く寂れた印象を与える。コンクリートが打ちっぱなしの駅舎が殺風景で、しかし、もしそこが温かみがあるものだったなら、僕はむしろ落ち込んだだろう。
 のろのろと二両編成の電車がホームへ入ってくる。もう夜も遅い時間だ。降りる客はほとんどおらず、乗る客となればさらに少ない。それを幸いに、酒を喉へと流し込んだ。目的の場所まではまだかかる。

 ゴト……ゴト……次は……かがくまえ……
 
 いつの間にか動き出していた電車は、相変わらずのんびりと走っていた。窓の外を見れば、僕がこれまで過ごしていたあの街を走る監獄のような列車とはまるで異なり、ゆっくりと家の灯りが通り過ぎていた。軋みながら誰も降りようとしない駅で申し訳程度に停まり、また動き始める。ここは変わらない。いや変わっているのだろうけれど、その変わり様は穏やかだ。人間がついていける、目で追える程度の早さ。それでいい。
 僕は残った酒を飲み干し、瓶をリュックサックに突っ込んだ。

 ゴト……ざわざわ……ゆのまち……ピピピ……

「やべっ」
 目が覚めた時には、降りる予定の駅を電車が出るところだった。
 ほろ酔いが一瞬で冷める。次の駅から歩いて行けないことはないが、雪の中を行くのはかなりつらい。うんざりしつつ、ボタンを押して停まった駅に降り……目を疑った。

 満月が輝いていた。その下で、誰かが踊っている。ふわりふわりと取り囲む雲が一緒に動いている。
 草叢をかき分けて歩いて行く。駅なんてどこにもない。線路も無い。
 でも、それ以上に。目の前の美しいものを見たかった。
 口を噤んだまま歌っている。目は遥か遠くを見ているようで、憧憬が宿っている。
 ここにいない誰かへ。かならず届くと信じている、音の無い詩を唄いふわりふわりと舞っていた。
 白くて、綺麗で、素敵な……涙が自然と溢れる。帰りたくなかった。けれど、どこにも行きたくもなかった。
 その想いさえも融け落ちて、知らず膝を屈していた。

「その雲に、埋もれたい……」
「ふふふ、どうぞどうぞ♪」

 埋もれる。雲は僕を包み込み……融け込み、僕は落ちる。
 抱えていた重いものが自然と手を離れ、落ちていく。
 それを見ながら、溶けて消えていく自分のなにかを思い出そうとした。
 けれどもちろん、もう手にしていないものだから思い出せない。

 眷属になる?

 その囁きに頷いて、僕は月へと落ちていく。

「貴女も今日から狐の眷属、ムーンちゃんの働く教会でシスター見習いをするのです!」

 目を覚ますと、白くて素敵な人がそう指さしていた。向いている先は……僕?
「はぁい」
 おかしい。僕はいま「ここは?」と尋ねようとしたはず。涙がじわっと滲み、景色が揺れて
「ほら、手取り足取り、尻尾の手入れから教えてあげるから、泣かないの」
「うう、うう」
 涙が止まらない。この人に迷惑をかけちゃだめ。僕はこの人の役に立たないといけないんだから。
 手で目を擦って、僕はその人を見た。
 狐のような耳に、沢山ある尻尾。一つ二つ……九つ。僕に優しい笑顔を向けてくれる。涙が完全に止まり、心が温かくなる。
「それに、人妖混じった生活も、案外良いものよ?」
 とびきりの笑顔に、僕は一も二も無く頷いた。お尻の辺りに何か揺れているのは尻尾で、つまり僕はこの人と同じように、人間ではない。じゃあ何だろうというと、わからないけれど。
 でも質問の前に伝えないといけない。大事なことを。僕のことを全部伝えなければいけない。
 そして口を開き、ぱくぱくとして……何も思い出せないことを思い出した。
「なんにもわからない……だから。教えてください、あるじさま」
「あるじさまはやめてね、そういう性分じゃないしね。私は、ムーン、よ」
 ムーン。心の中で鈴がいくつも一斉に響き、その名前が体すべてに染み渡る。あるじさまの名前を教えて頂けた。何も覚えていない、わからないのに。なぜかそれは今の僕にもわかった。

 ここは教会という建物らしい。普通は沢山の人がくるところなのだが、ここは特別、人が来ない。それは困るのではないかと思ったが、ムーン様はそれほど困っていないようなので問題ないのだろう。
「貴女が来たとき、何があったのかと思ったし」
 そうか、僕はこの教会に来たのか。
 あれ、と考える。僕は何をしにここに来たのだろう。いや、そうじゃない。

─僕は、誰だ?

「シスター見習いをしてもらうから、シスター服に着替えないといけないね。とりあえず、服を脱いでいただけるかしら?」
「はい」
 ゴワゴワした上着、布が二本の筒を作っている服を脱ぐ。ふわ、と解放された尻尾が気持ちいい。ざらつく肌着を捨て、お尻を覆っていた布きれとまとめておいた。
「これでいいですか?」
 咄嗟に前を手で隠しているのをにこにこと見たムーン様は、次に僕を上から下までじっと見て、手にしていた紐で僕の背の高さや胸周りなどを手早く測り「よし」と頷く。
「うんうん、測れた♪いきなり私の眷属にしちゃったから、男のあなたを女の子にしちゃったけど……理想的な体型、スタイルの美少女ね♪」
 男のあなたを
 下を見る。二つの膨らみと、何も無い……こともないけれど、少なくとも男ではありえない、そこ。
「えええっ!?」
「あら?気付いてなかったの?」
 不思議そうにムーン様は首を傾げた。
「前まで隠してたから、気付いてると思ったのだけど」
「それは、咄嗟に」
 なぜかそこを見られてはいけない気がしたのだ。例えムーン様でも。ごめんなさい、僕は悪い眷属です。
「うんうん」
 しかしなぜかムーン様は嬉しそうに手を叩いていた。
「潜在的に女の子の特性があったのかしら。まあいいわ♪さ、貴女は今日から……あ。貴女、何もわからない、そう言ったわね」
 こくりと頷く。覚えているのは、ふわふわの雲を抜けて見えた満月の記憶と、そこで例えようも無く綺麗で素敵なものを見たと言うことだけ。
「名前をどうしましょうか。ね、何か覚えているものはない?」
 満月の記憶を遡る。白い霧と雑音、ガタゴトという音。閉じる扉。そこは……不意に、その扉が閉まったことが、今を作ったのだと気付く。なぜなのかもさっぱりわからないが。
 か細く切れそうな記憶をたぐり寄せる。そこの名は。そこは。
「あわら」
 口が自然と開いた。
「そう。貴女は今日から」
 ぐっとムーン様の顔が近付いて。耳元に囁いてくれる。
 狐の、あわらちゃん。

「シスター服と下着、他にも幾つか必要ね」
 ポケットから取り出されたのは一枚の紙切れで、それを上に振り上げる。ぼふっ、と白煙があがり、そこから出てきたのは下着と服、これがきっとシスター服なのだろう、それが一通りできた。
 僕は目を丸くして、その驚嘆すべき魔法に驚く。
「ムーン様、いまのは……すごい!こんなことができるなんて」
「まあ、それは、私だってこう見えても神様だからね!」
 僕のあるじ様は神様。僕はつまり神様の眷属。これ、すごいことでは。
「半分、いや四分の一くらい……」
 とムーン様は呟いていたようなのだけれど、僕の耳を通過して何も残していかなかった。
「さ、お着替えしましょう」

 とはいっても、何しろ僕は何もわからない。服の着方くらいならと思ったけれど、まず一番の問題は尻尾だ。それを通そうと悪戦苦闘していると、尻尾の付け根に不意に触れられた。
「ひゃぁっ」
「尻尾はこうやって、こうして……はい、できあがり。他の服は大丈夫?」
「ありがとう、ござい、ま、す……はい、大丈夫です」
 どきどきとする胸を手で軽く押さえながら、結局はまだ何度かムーン様に手伝って頂いた。次からは一人でできるようにならないといけないから、手伝ってもらったところはしっかりと覚えるようにした。そして、やっと着替えを終える。幾つか気になるところがあったのでそれを直し、問題ないか何度も確かめた。
「これでいいでしょうか、ムーン様」
「うんうん、良い感じよ♪今日から私の教会のシスターさんね。女の子の体に慣れるのも含めて、いろいろやっていきましょうか」
 そういいながら、ムーン様はカメラ(それが写真を撮るモノだと、なぜかすぐにわかった)を手に、僕をいろいろな方向から撮りだす。
「はい、頑張ります」
 これから頑張るぞ、と小さく手を結んで次のご命令を待つ僕をよそに、ムーン様はなお写真を撮っている。
「あの、ムーン様?」
「あっ、緊張しなくてもいいのよ?さっきも言ったけど、ここは本当に普段は誰も来ないから。ほらそんなに堅くならないで、ぴーすぴーす!」
「ぴーす?」
 こうやるの、とムーン様がやった通りに二本指をたてて、顔の横に並べてみる。
「いいね!次は正面から」
 ん?と僕を見つめるムーン様の目と、ムーン様を見る僕の目が合う。すると、ムーン様は素敵で、綺麗で、それをみるだけで心が弾んでしまう、そんな笑顔を向けてくれる。
「くす……っ」
 嬉しくなると声が漏れ、笑顔になった。カシャリ。
「いい写真撮れた♪現像してくるからちょっと待っていてね」
「はいっ」

 この時に撮った写真は、いまもわたしの宝物。真っ赤になった顔に、でもはっきりと満たされた笑顔を浮かべている「僕」はピースをしていた。わたしはその写真をムーン様からもらった時、ムーン様にしがみつきこそしなかったけれど、服に顔がつくくらい近付いて「嬉しいから、一生の宝物にします」と誓った。するとムーン様は「ふふ、こんなものまで宝物にしちゃうと、宝物で押しつぶされちゃうわよ」と髪を優しく撫でてくれたのだ。「私の眷属ってことは、この先長いのだから」
 その通りで、わたしの部屋は宝物だらけだ。

「……これでよし」
 昔を思い出しながら、私はそれを書き記す。ちょっとした息抜きというもの、だろうか。あの頃を懐かしみながら、紙をめくった。
「次は、私の初めてのお部屋とお掃除、それからムーン様に作ったご飯を食べて頂いて、そしてお風呂に……」

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にょろわーSS

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