どう生きるか、についての雑感

どう生きるかと考えた時、
評価されるべきは『気づき』や『想い』であって、
決して、
誰々と結婚した。
何年何月何日に子をもうけた。
という物質的な記録では無いと思うのだ。
また、最終学歴や会社での役職でも、もちろん無いと思う。

何を為し得てどうなったかの結果も重要だが、

今日の気づきとか
ちょっと湧いた深い想いとか
そういうのがアップロードされるサーバーみたいなものが、
阿頼耶識(八識)でありアカシックレコードと解釈されているのだと、私は考えている。

ちなみにアガスティアの葉には個人の未来に対する預言が書かれていると言われているが、
書かれているとされる内容は、職業が主だという。
それじゃあ単なる戸籍謄本と変わらない。
なんだかナンセンスだ。
だから私はそう言ったなにか起こるであろう事象の予知めいたものには、あまり興味はわかない。

その点、正しい仏法における戒名はスゴイと思う。
私は日蓮正宗の信徒で、菩提寺の御住職が亡くなった方の戒名をつけられ、法要などで戒名の由来を拝聴する機会が何度かあった。

その度に、まさに『言い得て妙』だと感服するのだ。
なんというか、故人の『心の質』を見事に現されている。
わずか漢字数文字で、である。

例えば、私の祖母は戒名の最初が『香潔』から始まる。
これは法華経の開経である無量義経にある話からとって下さったらしい。

私の祖母は香りに非常に敏感だった。
六根の中でも特に、鼻が土台の人だった。
また祖母は人の心の動きを感知する能力に長けていた。
非物質をうまく利用できるというか、、、
繊細ではあるが、それは感じさせない強さのある
まさに風を扱うかのような人だった。

御住職は祖母に会ったことなどないのにも関わらず、『香潔』とつけて下さった。
本人も大喜びの戒名だと確信している。

繰り返しになるかも知れないが
事象自体が大事なのではなく、
目の前に起こる事象をどのように感じ、捉えたかが重要だと思う。
そしてどのように実際に動いたか。
この全てが『どう生きるか』なのでしょう。

私は自分の戒名につけてほしい漢字が一つある。
それは誰にも言わないつもりでいる。
戒名って、自分の真の名前だと聴いたことがある。

今世を終え、本当の名で呼ばれた時に、
それは私ですよと、満面の笑みを湛えて、
『はい!』と言える自分でありたいと願っている。

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