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感謝の気持ちで、今をちょっと変えてみたい

「感謝の気持ちを大切に」とはよく言われるけれど、それを日常で意識するのは簡単そうで難しい。

わたしはひとり暮らしをしていた頃、実家に帰省できるのは大型連休や地元で友人の結婚式があった時くらいで、年に数回だった。

当時は東京で暮らす毎日が日常で、実家への帰省はちょっとしたお祭りのような、ハレの日の行事のようなものだった。
その数回がとても新鮮で貴重に感じて、久しぶりに会った両親が元気でいてくれるだけで嬉しかったし、家族で楽しく過ごしていると素直に感謝の気持ちがわいてきた。

だが、家族といえども他人は他人だ。
ひとり暮らしをやめて実家に帰ってきてから約二週間が経ち、家族との暮らしが毎日となった今、共同生活に対してストレスがどうしても出てきてしまうことがある。

わたしはある程度家を清潔に保ちたいのだけれど、他の家族は部屋が少々散らかっていてもあまり気にしていなかったり、母はリビングのテレビは付けっぱなしにするのが好きだったり、ちょっとしたことで価値観の違いに直面し、ストレスに感じてしまう。

家族と一緒に過ごせることは嬉しい反面、それ自体が日常になってしまったことで、離れて暮らしていた頃よりなんだか感謝の気持ちが少し薄まってしまったような感覚があった。

そんな時、ふと大学生の頃に聞いたお坊さんの話を思い出した。

当時一度だけ禅寺で座禅体験をする機会があり、座禅の後にちょっとしたお坊さんの講話があった。
テーマは感謝で、話の内容はほぼ覚えていないが、日常を当たり前だと思わず「ありがとう」という気持ちを大切にしようという主旨だった。

その話で最も記憶に残っているのは、電車に乗って目的地の駅に到着するのは「当たり前」のことではなく、運転手さんが安全に運転してくれるからなのであり、そのこと自体に感謝しなければいけないよ、という話だった。

その話を聞くまで、わたしは電車賃を払って電車に乗っているのだから、電車が安全に時刻通りに目的地に到着するなんて当然のことだと思っていた。

だが確かに、運転手さんが正確に運転してくれることで電車は時刻表ぴったりに運行するし、人身事故、インフラのトラブルや自然災害などの外的要因もなく安全が保たれているからこそ為せる技だ。

わたしは「電車に乗った時は運転手の方に『ありがとう』と心の中で言いましょう」とお坊さんに言われるまで、それまで20年近く生きて何百回も電車に乗っていたはずなのに、恥ずかしくもそのありがたさをほぼ意識していなかった。

加えて、その出来事からかれこれもう6年以上経つが、あれから今日までそのお坊さんのありがたい話自体も忘れかけていた。

お坊さんの話を聞いてから今まで何百回も電車に乗ったのに、「ありがとう」と心の中できちんと言ったことがあるだろうか。

いや、心のどこか片隅に感謝の気持ちはあったはずなのだけれど、電車に乗る度にちゃんと「ありがとう」と心の中でお礼を言ったのか、具体的に何年の何月何日に言ったのか、全然思い出せない。

電車で何の問題もなく目的地へたどり着けることが当然のことに思えてしまって、それがどんなにありがたいことなのか、自分自身、日々ちゃんと意識しないとすっかり忘れてしまうものなのだと思い知らされた。

それと同じで、家族と過ごす時間が当たり前になると、そのこと自体の価値が自分の中で薄れてしまいそうで、怖い。

だが、薄れる原因として、一緒に過ごしている時間が長いと相手の嫌な部分が見えたりストレスが出てきてしまったり、どうにもならないことがあるのも事実だ。

わたしは仏でも何でもないし、「感謝の気持ち、感謝の気持ち…」といくら常々心の中で念仏のように自分に言い聞かせたとしても、日々何かに追われたり夢中になっていることがあると、当たり前の大切さ自体を忘れてしまったり、自分のことに精一杯で大切さを感じる余裕がない時だってある。

自分の頭の引き出しや感情の中に「ありがとう」という言葉や感覚はあるし、それを全く忘れたわけではない。
しかし、日々感謝の気持ちを素直に思えるポリシーのようなものを自分のどこかに持ち続けないと、いつのまにか、その大事な部分が薄れてしまうのではないか。

磨かないとくすんでしまうアクセサリーのように、感謝の気持ちも磨いておかないときっと曇ってしまう。

また、それとは別に、誰かと離れて一人ぼっちになって初めて分かる孤独や寂しさがあるからこそ、誰かに対して改めて感謝の気持ちがわき上がってくるのだとも思う。

ひとり暮らしの頃、帰省で楽しい時間を過ごし、京都駅から新幹線と電車に乗って東京へ着き玄関のドアを開けても、家の電気は真っ暗で「おかえり」と呼びかけてくれる人もいなかった。

そうなって改めて自分は一人であることを実感し、京都の家族を思い浮かべ、今頃家族そろって晩ごはん食べてるのかなと思ったりして、一緒に過ごした過去の時間がどんなに貴重なものだったか、よく反芻したものだ。

誰かと過ごした時間がかけがえのない時間だったことに、離れた時に初めて気付かされることは多い。

失う前に、離れる前に、そうなってしまった時のことを少しでも想像できたら、会っている時に相手に面と向かってありがとうと伝えることができたり、小さなことでも何かできることがあるかもしれない。

そう考えると、感謝の気持ちを磨いてキレイにしておくことで、自分が過ごしている「今」この時は当たり前ではないという意識も芽生えるのではないか。
今この時間がありがたく思えて、時間の価値をより深く感じることができるはずだ。

そのことに気がつけば、時間の使い方や人とのコミュニケーションも、ちょっと何か良い方向に変わるかもしれない。

だが、大げさに考えると毎日続けるのはしんどいから、今日は良い天気だったなとか、あの時ちゃんとあの人にお礼を言うことができたとか、そんな小さなことから、まずは始めたいと思う。

わたしは少なくとも、それに気づけたことに、今日ひとつ感謝だなと思う。

ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました。

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