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泉屋博古館東京「ライトアップ木島櫻谷」展(-2024.5.12)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

仲春の過日、東京都港区六本木の泉屋博古館東京で開催されております「ライトアップ木島櫻谷 四季連作大屏風と沁みる「生写し」」展を拝覧して参りました。

本展、本投稿の時点でも絶賛開催中の展覧会で、本年2024年3月16日から5月12日までの開催となっております。僭越ながら泉屋博古館ウェブサイトのトップページにリンクを張らせて頂きます。

京都の泉屋博古館については、弊方、それなりの回数で訪問させて頂いてきたのですが、たいへん残念なことに、昨年の12月から来年2025年春頃まで改修工事のため休館中となっております。

そこで、東京都港区六本木に所在する泉屋博古館東京にお伺いさせて頂いた・・・というわけではございません。

弊方、関西在住ですので、費用的にも日程的にも東京方面に気軽にお伺いすることは困難です。

弊方セコいので、遠方にお伺いするときには、交通費や有給休暇取得の「元を取ろう」と、複数の展覧会/企画展をハシゴしてお伺いすることを企てるようにしております。

本展「ライトアップ木島櫻谷」展は、東京都立川市のたましん美術館で2024年1月13日から3月31日まで開催されていた「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」展と、東京都練馬区の練馬区立美術館で2024年3月16日から4月21日まで開催されていた「池上秀畝 高精細画人」展と、ハシゴして拝覧させて頂きました。

練馬区立美術館の「池上秀畝 高精細画人」展については、下記の記事として投稿させて頂きました。

一方、たましん美術館の「邨田丹陵」展についても、たいへん素晴らしい激萌え展覧会/企画展でしたが、今のところ記事化できておりません。

さて、木島櫻谷先生ですが、「このしま おうこく」とお読みします。「きじま さくらだに」ではありません。

ご存知ですよね!?!?!? 何をいまさら、という感じでしょうか。

櫻谷先生がこれほど著名な存在になられたのは、京都と東京の泉屋博古館による再顕彰の賜物ではないか、と弊方妄想しております。

弊方が櫻谷先生の作品を初めて拝見したのは、たぶん2007年10月6日から12月9日に京都市美術館(当時)で開催された「特別展 京都と近代日本画-文展・帝展・新文展一〇〇年の流れのなかで」展だったと記憶しております。僭越ながら、同展図録と入館券の半券を弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

この「京都と近代日本画」展では、櫻谷先生の作品としては、「剣の舞」、「和楽」、「寒月」が展示されておりました。これらの中でも、弊方にとって最もインパクトがあった作品は、言わずと知れた櫻谷先生の代表作の一つ「寒月」でした。

弊方がこの作品を初めて拝見したときの激しい驚嘆は今でも鮮明に覚えております。

この作品描かはったん誰? 「きじま さくらだに?」、いや「きじま おうこく?」、えっ、「きじま」やなくて「このしま」て読むのん?!?!?!

このように、作品のインパクトだけでなく、櫻谷先生のお名前もたいがいインパクトがありました。

ただし、弊方が記憶している限りですが、この「京都と近代日本画」展では、櫻谷先生の「寒月」が注目されていた気配はありませんでした。

この「京都と近代日本画」展は、「特別展」と銘打たれているだけあって、かなり混み合っていたと記憶しているのですが、「寒月」の前に人だかり的なものはなく、お陰さまで、弊方「寒月」をかなりじっくりゆっくり嘗め回すように気持ち悪く拝見できた記憶があります。

なお、「剣の舞」もたいがいインパクトのある作品でした。展示場所は、「剣の舞」の方が先だったと思いますので、櫻谷先生のお名前にインパクトを覚えたのは、「剣の舞」を拝見したときだったような気もします。

戦の後でくつろいだ様子の武士たちの一人が、敵方の生首を日本刀の先に刺して勝利の舞を踊るという、かなり強烈な画題ですが、武士たちの表情の櫻谷先生らしい優しげな感じと、日本刀の先に突き刺さった青黒い生首との対比が何となく恐ろしげというか不気味というか、という感じで、初見時には、その描写力というか表現力に衝撃を受けた記憶が鮮明に残っております。

さて、本展ですが、場所が六本木という、オシャレでイケてるシュッとした方々ばかりいらっしゃるところだという先入観があり、キモくてキショくてダサい田舎のおっさんは、六本木に来んな! 恥を知れ!! 田舎に帰れ!!! とか酷いこと言われたらどうしようと思っていたのですが、もちろんそんなことはありませんでした。

最近、歳のせいか被害妄想が強くなっている感じです。申し訳ございません。

泉屋博古館東京の雰囲気ですが、六本木という土地柄でしょうか、京都とはえらい違うように思います。

上記の写真は、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した泉屋博古館東京の正面入口ですが、このようにオシャレなドレスコードのある高級レストランみたいな感じなので、ヲタクのおっさん的には入りづらい? 感じがします。

また、入口から中に入ると、洗練された瀟洒なご様子の受付の方々が、座られた状態からわざわざ立ち上がってお出迎えされるので、何か一流ホテルのフロントっぽくて、田舎のおっさん的には緊張? してしまう感じがします。

いやいやいや、田舎もんのおっさんでっさかいに、そないにご丁寧なご挨拶を頂戴して、もぉホンマに気ぃ使わんといておくなはれ、みたいに思ってしまいます。

それに比べると、京都の泉屋博古館は、建物はたいへん重厚で、周囲の雰囲気も静かで上品で落ち着いているのですが、その中身はたいへん庶民的(?)で親しみやすいという一方的な印象を持っております。

ご参考までに、建物はあまり見えませんが、昨年2023年11月3日から12月10日まで開催されていた休館前の最後の展覧会、「特別展 表装の愉しみ -ある表具師のものがたり」の看板を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した微妙な写真を下記に掲載させて頂きます。

めっちゃ秋ですね。

そういえば、この「表装の愉しみ」展についても、たいへん素晴らしい激萌え展覧会だったのですが、今のところ記事化できておりません。ぜひ記事化したいと思います。

京都の泉屋博古館は、そのすぐ東側くらいには「哲学の道」があり、北の方には銀閣寺があり、南の方には南禅寺や動物園や琵琶湖疎水の蹴上インクラインがあるという、めちゃくちゃ観光地の中に所在されております。

そのためか、もう見るからに観光のついでにお寄りになられて、展示されている美術作品群よりも東山を借景とする美しい中庭の写真をお撮りまくりになられたり、ホワイエというか談話室みたいなところで無料のお茶やお水を嗜まれながらご歓談されたりなさる方々もよくお見かけしました。

また、見るからに観光客ではないオーディエンス層も、弊方私見ですが、カジュアルな雰囲気をお持ちの方々が多いような気がします。

さらに、京都の泉屋博古館では、展示室の監視業務について一般の方のボランティアを募集されているそうで、弊方私見ですが、なおさら親しみやすい感じがしております。

それに比べると泉屋博古館東京では、弊方の一方的な被害妄想的な感じかもしれませんが、同館のスタッフの方々だけでなく、オーディエンスのみなさま方も、たいがいシュッとしたオシャレな方々が多いような気がします。

念のため繰り返しますが、東京は京都にくらべると数回程しかお伺いしておりませんので、飽くまで弊方の一方的な主観ということで、ご容赦お願いしたいと思います。

さて、本展ですが、まず、受付からすぐの中央ホールに掲示されていた本展「ごあいさつ」を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影したものを僭越ながら掲載させて頂きます。

この中央ホールの左手にある第3展示室が、本展では順路①の「§1:四季連作屏風のパノラマ空間へ、ようこそ。」の会場でした。

§1で展示されていた四季連作大屏風のうち、作品No. 5「竹林白鶴」を除いて、かつて京都にて2021年に開催されていた「木島櫻谷 四季の金屏風-京都画壇とともに-」でも拝見しており(作品No. 1「雪中梅花」、No. 2「柳桜図」、No. 3「燕子花図」、No. 4「菊花図」)、「竹林白鶴」もいくつかの展覧会/企画展で拝見しておりますが、良い作品は何度拝見しても良いですね。

改めて確認すると、2013年に京都および東京(当時「分館」)の泉屋博古館において開催された、栄えある櫻谷先生の最初(?)の特別展「木島櫻谷-京都日本画の俊英-」展では、これら屏風作品が全て展示されていたようです。ただし、京都では「竹林白鶴」は展示されておりませんでしたので、当時の泉屋博古館分館だけだった模様です。

ひとつだけ個人的に残念だったのは、京都では、屏風作品群は、企画展示室の中央付近に島状の展示台の上に「むき出し」で展示されることが多く、屏風の裏愛好家の弊方としては、屏風の裏が覗き放題だったのですが、さすがに東京では、全ての屏風作品群は、壁面展示ケース内に収められておりました。屏風の裏はほとんど覗けませんでした。

こんなアホなことを言うてるのは弊方だけでしょうね。残念とか言いがかりみたいなこと申し上げて、たいへん失礼いたしました。

さらに個人的にですが、今尾景年先生の掛軸作品「深山懸瀑図」(作品No. 6)が展示されておりました。おそらく個人的に初めて拝見した作品だと思いますので、おっさん激萌えでした。

次に、ホール裏手の第2展示室が順路②の「§2:「写生派」先人絵師たちと櫻谷」の会場でした。

こちらの§2では、櫻谷先生だけでなく江戸時代末期頃の円山派や四条派の画人の先生方の掛軸作品群が展示されていたのですが、初めて拝見する作品が多かく、おっさん激萌えでした。

さらに、この§2では、円山派と四条派の写生(生写し)の方向性の違いが、非常にわかりやすく解説されており、ヲタク的にはたいへん勉強になりました。§2の総合解説のうちの一節を、弊方が手書きメモしたものの翻刻を、僭越ながら下記に引用させて頂きます。

…円山四条派の写生といっても実は一様ではありません。円山派は筆致を増やすことで細密な描写を目指す「加筆系」、一方俳諧味を含んだ四条派は筆致を減らす「減筆系」の傾向があります。時代が下るとそれらが融合した作風も現れますので、一括りに円山四条派という呼び名も通りがよかったのでしょう。…

「§2:「写生派」先人絵師たちと櫻谷」総合解説より

この「加筆系」と「減筆系」の違いは、展示作品群を拝見しても非常にわかりやすく、円山派と四条派の傾向的な違いを端的に説明されている感じがいたしました。

引用の通り、時代が下がると作風の融合も見られるとのことですので、必ずしも円山派が「加筆系」、四条派が「減筆系」と断定できるわけではないということですが、傾向としては本当にわかりやすいと思いました。

次に、ホール右手の第1展示室が順路③の「§3:櫻谷の動物たち、どこかヒューマンな。」の会場でした。

§3では、偉大なる望月玉泉先生の作品がひとつだけ展示されておりましたが、それ以外は櫻谷先生の動物画と素描類でした。

櫻谷先生といえば動物画ですね! と断言するのは憚られるくらいに、その作風は多彩だと思うのですが、櫻谷先生の動物画といえば、京都では2017年、東京(当時「分館」)では2018年に開催された「生誕140年記念 特別展 木島櫻谷-近代動物画の冒険」展が思い出されました。もちろん弊方お伺いいたしました。

同展「木島櫻谷-近代動物画の冒険」展は、京都では2017年10月28日から11月8日までが第1期、11月9日から11月21日までが第2期、11月12日から12月3日までが第3期で、「リピート割引」として、第1期の訪問時の半券の呈示で、何と2回まで入館料が半額になるという、たいへん太っ腹な特別展でした。今なら難しいかもしれません。

僭越ながら京都の「木島櫻谷-近代動物画の冒険」展のチラシ(フライヤー)とリピート割引の「痕跡」を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

こちらの§3でも、以前拝見したことのある作品もあれば、初めて拝見する作品もありました。作品(資料?)No. 26「写生帖」は以前も拝見しておりますが、何度拝見しても、スゴイ! スゴすぎる!! というような陳腐な感歎しか出てきません。

個人的に非常に興味を惹かれたのが、おそらく初見だと思いますが、作品No. 22「雪中老猪図」という掛軸作品でした。写真はありませんので、展示解説を手書きメモしたものの翻刻を、僭越ながら下記に引用させて頂きます。

猪は、猛進する姿で描かれることが多いが、円山派では草むらに臥して眠る姿を描いた「臥猪」《ふすゐ》という図様も描き継がれた。近世までは「撫綏」《ぶすい》(民をなでやすんじる)という言葉の語呂合わせで使われていた吉祥画だったが、王国の時代には単なる干支の画として認識されていただろう。墨と代赭《たいしゃ》による付立風の本地に粗放に毛描きされた表現は櫻谷お手の物だが、長閑な風情はどこか「撫綏」を想起させる。

「§3:王国の動物たち、どこかヒューマンな。」作品No.22「雪中老猪図」展示解説《》内はルビ

「臥猪(ふすゐ)」に関しては全く存じ上げませんでしたので、たいへん勉強になりました。改めて安直にインターネットを検索すると、文化遺産オンラインに、またもや偉大なる望月玉泉先生の「岩藤熊萩野猪」という作品が検出されました。僭越ながら下記にリンクを張らせて頂きます。

この作品は、最初に画面に写る右隻が「岩藤熊」の図で、次の画面に写る左隻が「萩野猪」の図です。作品解説にも「臥猪」について言及があります。櫻谷先生の「雪中老猪図」とは、場景や構図が違いますが、ご参考頂けるかもしれません。

さて、この§3で櫻谷先生の展示は終わりでしたが、受付裏手側、ホール正面から見れば、左後側の第4展示室が順路④の「同時開催企画:住友財団助成による文化財修復成果-文化財よ、永遠に」の会場でした。

こちらでは、二つの作品とその修復の過程が詳細に解説されておりました。展示解説をまとめたA3二つ折りのA4リーフレットも無料で配布されており、たいへん激萌えでした。

僭越ながら、リーフレットの表紙を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を下記に掲載させて頂きます。

表紙上が「毘沙門天立像」で、下が「松・牡丹孔雀図衝立」です。

リーフレットに掲載されているのは「松・牡丹孔雀図衝立」の一方の面で、
亀岡規礼先生の「牡丹孔雀図」です。他方の面には、呉春先生による「松図」が描かれていたそうです。

ところで、亀岡規礼先生といえば、京都における江戸狩野派の山本派六代目の山本守礼先生の門人かつ養子であり、かつ円山応挙先生の門人でもある方なのですが、実は何と、寛政の御所(内裏)造営において書類審査も実技試験も両方見事に通過された、強者絵師6名のうちのお一人です。

そうです! 何と亀岡規礼先生は、かの原在中先生や、初代笹川遊泉先生と同じレジェンドのお一人なのです!! 弊方、この6名の強者絵師先生を、勝手にまとめて「寛政の御所造営レジェンドシックス」と一方的に呼ばせて頂きたいと思います。

といってもなんのこっちゃわからんと思われますので、弊方の投稿済の2つの記事を下記の通りリンクさせて頂きます。

なお、亀岡規礼先生、レジェンドシックスの時点でのお名前は、「笹井源太郎」でした。

さらにさらに、実は、櫻谷先生のご先祖も、レジェンドシックスではないものの、寛政の御所(内裏)造営の絵師衆のうちの書類選考合格組だったそうです。

2021年10月23日から2022年1月10日にかけて、京都市右京区の嵐山に所在する福田美術館と嵯峨嵐山文華館で協同開催されていた「木島櫻谷 究めて魅せた「おうこくさん」」展の図録に掲載される、阿部亜紀先生(一般社団法人福田美術振興財団学芸員)の論文「木島櫻谷の生涯と画業-究めて魅せた芸術-」の中では、僭越ながら次に引用させて頂くとおり言及されておりました。

 曽祖父の木島元常《このしまもとつね》(一七六〇-一八四二)は、狩野派絵師・吉田元陳《よしだげんちん》の門で学び、寛政期に京都で行われた内裏造営の障壁画制作にも参加した画家だった。

「木島櫻谷 究めて魅せた「おうこくさん」」展の図録第8ページ第3段第16-19行 《》内はルビ

確かに、『近世御用絵師の史的研究 -幕藩体制における絵師の身分と序列-』(武田庸二郎・江口恒明・鎌田順子共編、思文閣出版、2008年)に収録される、武田庸二郎先生の論文「寛政度禁裏御所造営における絵師の選定について」(同書第78-129ページ)内に掲載される、【別表】(同書第95-100ページ)にも、「木島元常」の記載がありました。

さらに×3でインターネットを安直に検索してみると、「〈史料〉新出の京都御倉町文書について」という文献が検出されました。著者は、千葉大学教授(当時)の菅原憲二先生です。同大学大学院社会文化科学研究科が発行される紀要(proceedings)である、千葉大学社会文化科学研究の第5巻第23-38ページ掲載の論文です。発行年が2001年ですから、泉屋博古館による櫻谷先生の再顕彰よりもかなり前ですね。

僭越ながら、千葉大学学術成果リポジトリの該当検出結果にリンクを張らせて頂きます。

この文献によれば、木島家は、近世初期、太秦木島神社の娘と某公卿の落胤という明本信女を始祖とする伝承を持つそうで、安永六年(1777年)以前に「川原町」居住された「木島周意」さんが第一世代のようです。

この「周意」さんの長子が、寛政の御所(内裏)造営に参加された木島元常先生で、「二条通柳馬場東入る」に住まう「御所の画師」とされています。なお、「寛政度禁裏御所造営における絵師の選定について」では、父の職業は「医師」となっておりました。

この木島元常先生の長子が、初代「周吉」さんで、有職物商「有職舎」を経営されていたそうで、さらには「絵の妙手」と伝わるそうです。

この初代「周吉」さんの次男の「佐吉」さんが二代目「周吉」を襲い、豪商三井家で修業されて、木島家の家督を相続されたそうで、この二代目「周吉」さんの次男が、我らが偉大なる櫻谷先生だそうです。

ちなみに阿部亜紀先生の「木島櫻谷の生涯と画業-究めて魅せた芸術-」によれば、櫻谷先生のお父上の二代目「周吉」さんも岸派に学んで絵をよくし、同時代の画人の方々と交流をもったそうです。

それがどないしてん?! とご指摘されると、そうですね、としか言いようがないのですが、櫻谷先生は、画人としては「サラブレッド」(死語ですかね?)なのかもしれないと、弊方思いました。

またまたまたまた長くなってしまいました。たいへん申し訳ありませんでした。あまり反省していないような気もしますが、ご閲覧を頂戴しましてありがとうございました。

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