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練馬区立美術館「生誕150年 池上秀畝 高精細画人」展(-2024.4.21)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

仲春の過日、東京都練馬区の練馬区立美術館で開催されております「生誕150年 池上秀畝 高精細画人」展を拝覧して参りました。

本展、本投稿の時点でも絶賛開催中の展覧会で、本年2024年3月16日から4月21日までの開催となっております。僭越ながら練馬区立美術館のウェブサイトにリンクを張らせて頂きます。

また、練馬区立美術館のウェブサイトでは、本投稿の時点でもすでに展覧会のアーカイブっぽいページが作成されていますので、こちらにも僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

弊方、練馬区立美術館にお伺いするのは初めてでした。その名が知られたミュージアムですので、ぜひお伺いしたいと思っておりましたが、関西在住ですので、東京方面にお伺いするとなると、交通費的にも日程的にも家の事情的にも気軽にお伺いすることは困難でしたので、何らかの展覧会をお目当てに訪問させて頂こうと思っておりました。

また、練馬区立美術館といえば、我が偉大なる曾我蕭白師匠のおそらく最初の大規模な個展である、三重県立美術館の巡回展でもあった「曾我蕭白展-究極のエキセントリック絵画」(1987年)を開催されたミュージアムということもあり、ぜひお伺いしたかったという次第です。

ちなみに、練馬区立美術館のウェブサイトの展覧会アーカイブには、「曾我蕭白展-究極のエキセントリック絵画」の記事が残っておりましたので、こちらにも僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

さらにちなみにですが、三重県立美術館では、この展覧会は「江戸絵画の奇才 曾我蕭白展」となっておりました。

さて、池上秀畝先生ですが、弊方、お名前をお伺いしたことがあるかも? くらいの感じで、ほとんど情報がありませんでした。そのため、本展開催情報を練馬区立美術館のウェブサイトからゲットしたとき、「誰? 知らん!! 萌える!!!」という、ナゾの弊方のヲタク三段論法で、ぜひともお伺いしたいと思った次第でした。まったく三段論法やおまへんですね。失礼いたしました。

西武鉄道池袋線の中村橋駅から歩いてすぐのところで、たいへん交通の便がよろしいですね。ホントに駅前という感じでした。

同館前の交差点に掲示されていた本展「生誕150年 池上秀畝 高精細画人」展の看板を、僭越ながら、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影したものを掲載させて頂きます。見出し画像と微妙にかぶっておりますが、ご容赦お願いいたします。

練馬区立美術館から見て中村橋駅側の手前は、練馬区立美術の森緑地という公園になっており、その入口では、同公園と同館の看板をお手にした愛らしい植栽のくまさんにお出迎え頂きました。こちらも僭越ながら、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した写真を掲載させて頂きます。

いやん、くまさん、カワイイ♡♡♡

えぇ歳こいたおっさんが、いやんとかカワイイとか言うな、という極めて適切なご見解もあるかと思いますが、弊方、残念ながら重症のヲタクなので、恐れながら何卒ご容赦頂きたいと思います。

またちなみにですが、練馬区立美術館にお伺いするのが初めてでしたので、念のためGのつく大手検索サイトのマップサービス(登録商標に配慮しました)で事前に場所を調べたところ、練馬区立美術の森緑地の公園中に、「象の像」なるアイコン(あのビックリマークというか風船みたいなやつというか、そんな感じのアレです。)がわざわざ表示されておりました。

さきほどリンクを張らせて頂いた、練馬区立美術館のウェブサイトでも「象の像」が確認できる写真が掲載されておりますね。

練馬区立美術館にお伺いしたときには、この「象の像」を撮影することをすっかり忘れていたのですが、練馬区立美術の森緑地内の掲示板を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影させて頂いたときに、日光の下限で「象の像」の愛らしいゾウさんの「おいど」が前面のガラスに写っておりましたので、僭越ながら掲載させて頂きます。

いやん、ゾウさんのおいど(?)、カワイイ♡♡♡

なお、「おいど」は、関西弁、というか京都弁になるのでしょうか、お尻の意味です。今どきの若い方はまず使わないと思います。弊方くらいのおっさん世代でもほとんど使ったことがありません。

上記の写真では、ゾウさんの「おいど」という感じではなく、ゾウさんの下半身が反射で写っているという感じですね。失礼いたしました。

練馬区立美術の森緑地から階段を上がった2階が練馬区立美術館の入口になっております。同館の正面では、本展「生誕150年 池上秀畝 高精細画人」の案内が、ドーン!(by 喪黒福造先生)と掲示されておりました。またまた僭越ながら、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

何だか今回の投稿記事では写真ばっかりですね。

初めてお伺いしたミュージアムというという理由もあるのですが、練馬区立美術の森緑地では、地元のこどもたちとその保護者の女性(ジェンダーに配慮しました)の方々が楽しそうに集っていらっしゃり、練馬区立美術館でも、おそらく地元の方々がお気軽に「アート」を楽しまれる、という感じでした。まさしく地元のみなさまの「愛されミュージアム」という印象を受け、よそものである弊方も、すさんで低温化した心がぽかぽかと温まるような感じがいたしました。

練馬区立美術館の建物は、古き良き雰囲気が醸し出される感じで、受付も含め同館のみなさま方もたいへん快く親切なご対応を頂きました。

まぁ、国内のどのようなミュージアムにお伺いしても快くないご対応をされるところはまずないと思いますし、弊方もそのような経験はほぼないのですが、練馬区立美術館におかれましては、先ほどの通り地域密着型の「愛されミュージアム」という感じを覚えて、弊方個人的にはすこぶる印象が良かった次第です。

練馬区立美術館は、先ほどの通り2階が入口で、その正面に受付があり、左手にロビーと会談があり、その奥(正面から向かって左側)に第1展示室があります。さらに、階段を上がった3階に第2展示室と第3展示室があります。正面の向かって右側で奥側に第2展示室の入口があり、正面側の出口を出て廊下を渡ると、正面の向かって左側の奥側に第3展示室があり、その出口は奥側で、第2展示室の入口と廊下でつながっている感じです。

2階から3階に至る階段は奥側で、正面側は吹き抜けになっておりました。そして、この吹き抜けには、本展「生誕150年 池上秀畝 高精細画人」の垂れ幕が厳かに掲示されておりました。

本展はもちろん作品の撮影は禁止ですが、ロビーの撮影はOKであることを、同館の方から親切にご説明頂きましたので、遠慮なく弊方の微妙なガラケー的なガラホと、使うことがほとんどないスマートフォン略するとなぜかスマホで撮影させて頂きました。ガラケー的なガラホで撮影させて頂いた垂れ幕の写真を僭越ながら掲載させて頂きます。

さて、第1展示室に入ると、いきなり「白鷹」図にお出迎えして頂きました。同館で配布されていた展示リストでは作品No. 33,同展図録では作品No. 51,長野県伊那市の常圓寺蔵の作品です。「高精細画人」に相応しいおっさん激萌え作品でした。

なお、展示リストには、同リストの作品No.と図録の作品No.とは一致しないと注意書きがありました。また同展図録にはISBN (International Standard Book Number) が付与されておりましたので、一般書籍として発行されているものだと判断されます。発行元は、偉大なる青幻社さまで、ISBN 978-4-86152-951-1 です。

青幻社さまのウェブサイトに同展図録の紹介ページがありましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

同展の構成ですが、第1展示室では、入口からみて「白鷹」図の奥側が「プロローグ 池上秀畝と菱田春草 日本画の旧派と新派」であり、壁面を介して奥側から左側、さらに入口手前側の壁面展示ケースが「第一章 「国山」から「秀畝」へ」であり、3階の第2展示室では、入口側が「第二章 秀畝の清華-官展出品の代表作を中心に」であり、第2展示室の出口側から第3展示室の入口側にかけて「第三章 秀畝と写生 師・寛畝の教え、“高精細画人”の礎」であり、第3展示室の出口側が「第四章 秀畝と屏風 画の本文」と「エピローグ 晩年の秀畝 衰えぬ創作意欲」でした。

池上秀畝先生は、1944年にお亡くなりになっており、本年は没後80年くらいになりますので、作品の著作権は失効していると判断されます。しかしながら、著作権の問題は微妙であることに加え、弊方が知的財産権を重視せざるを得ない仕事をしておりますので、著作権法上の引用の条件を満たすと弊方が判断できない限り、図録から秀畝先生の作品の写真撮影は控えさせて頂きます。

本展では、チラシ(フライヤー)とは別にA3四つ折りA4サイズ合計4ページのリーフレットが作成されておりましたので、ご参考までにこのリーフレットの表紙を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影させて頂いた雑な写真を掲載させて頂きます。

さて、弊方が本展において池上秀畝先生の実際の作品を拝覧して最初に受けた印象は、「何か関西風味?!」というものでした。

「関西風味」といっても、こぶ(昆布)のだし(出汁)が効いているとか、ウスター系のソースでコテコテに香ばしいとか、そういう意味ではありません。

なかなか言語化するのが難しいのですが、同展図録の冒頭に掲載される、長野県立美術館学芸員の松浦千栄子先生の論文「僕は新派でも旧派でもない」から、僭越ながら下記の通り引用させて頂いて、弊方の所感を説明させて頂きたいと思います。

「僕は新派でも旧派でもない」は、明治45年(1912)、新派系の画会「巽画会」の機関誌に秀畝が気候した際の一文である。明治40年(1907)の文展審査員の人選をめぐる争いで日本画の旧派・新派の2項対立が先鋭化したこの時代、世の中が新派か旧派かやかましくいう時代に、「新派でも、旧派でもよい作がよいのである」という主張は、秀畝の画業に生涯一巻した思いであった。

『池上秀畝 高精細画人』編著:松浦千栄子、加藤陽介、木内真由美
株式会社青幻社 2024年 第10ページ上段第1-8行

飽くまで弊方の個人的な所感ですが、関西やその近辺のミュージアムにおいて開催される、近代(明治以降から敗戦前くらいまで)の「日本画」の展覧会では、解説中で「旧派」および「新派」というターム(term)を見かけることはほとんどないような気がします。少なくとも弊方の記憶には残っておりません。

関西における「日本画」の展覧会というと、どうしても「京都画壇」を中心とした展覧会になると思われます。

なお、「大阪画壇」に関しては、以前から関西大学や大阪商業大学商業史博物館などの先進的なインスティテュート(institute)におかれまして注目されてきたものの、大規模な展覧会となると、それこそ昨年2023年に大阪中之島美術館等で開催された「大阪の日本画」展が最初といってもよいかもしれません。近世の「大坂画壇」を含めたとしても、2022年に京都国立近代美術館で開催された「サロン! 雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇」が最初の大規模な展覧会になるような気がします。

弊方の記憶する限りですが、近代「京都画壇」の展覧会では、「旧派」や「新派」などというタームを見かけた記憶がないのです。

念のため、近世から近代の「日本画」に関して、東京江戸画壇または京都画壇のいずれにも偏りがあまりないような気がする、2019年に岡山県立博物館にて開催された「江戸の奇跡・明治の輝き-日本絵画の200年」展の図録も確認してみましたが、「旧派」・「新派」というタームを確認することはできませんでした。

なお、僭越ながら「江戸の奇跡・明治の輝き-日本絵画の200年」展のチラシ(フライヤーというよりリーフレット?!)を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した、かなり雑な写真を掲載させて頂きます。

とはいうものの、弊方は「旧派」・「新派」というタームそのものには聞き覚え(読み覚え)がありました。明確な出典として確認できるのが、角川選書596『日本画とは何だったのか 近代日本画史論』 2018年 ISBN978-4-04-703625-3 です。著者は、偉大なる古田亮先生、東京藝術大学大学美術館教授(当時准教授)でいらっしゃいます。

本展図録でも、古田亮先生の『日本画とは何だったのか』でも、「旧派」と「新派」との対立構造が深まったのは、明治40年、西暦では1907年の「文部省美術展覧会」略して「文展」の開催がきっかけだったようです。『日本画とは何だったのか』では、「第三章 明治後期」の「2.明治四十年代 一九一〇年前後」の中で、わざわざ「新旧の分裂」という項が設けられています(第156ページ)。

角川書店のウェブサイトに同書の紹介ページがありましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

ところが、例えば、昨年2023年10月13日から12月10日まで京都国立近代美術館において開催された「京都画壇の青春」展では、展示されている作品の時期が「文展」の開始時期に重なるのですが、「旧派」や「新派」については、一切触れられておりませんでした。

微妙にはっきりしないのですが、どうも「近代京都画壇」は全般的に「旧派」に属していたと見なされていたという感じを弊方受けております。

池上秀畝先生は、「京都画壇」とは直接的なつながりがないとこのとです(ただし、お父上である池上秀花先生は、四条派の巨匠・岡本豊彦先生に学んだそうです)ので、弊方が池上秀畝先生の作品に「関西風味」を感じた理由は、「旧派」的なものであったのかもしれません。

弊方の妄想になりますが、令和になった現時点でさえ、「近代日本画」の世界では、展覧会のレベルですら「東」と「西」で断絶があるのではないか、と思ってしまいました。

詳細は省きますが、例えば、偉大なる勉誠出版発行の『日本画の所在 東アジアの視点から』(編者:北澤憲昭、古田亮 2020年 ISBN978-4-585-27055-3)では、多くの研究者の先生方の論文が掲載されているのですが、弊方の所感ですが「京都画壇」や「大阪画壇」に関する言及がほとんどないように見受けられ、京都画壇について詳細に触れられているのが、古田亮先生の論文「近代の日本画 その展開と諸様式」(同書第27-59行)くらいのような印象を受けました。

古田亮先生は、先ほどの通り『日本画とは何だったのか』において京都画壇について詳細に触れられているだけでなく、2019年に東京藝術大学大学美術館において、「東京初! 円山四条派のすべて」と銘打って「円山応挙から近代京都画壇へ」という展覧会のキュレーターも務められている模様です。

この展覧会、京都国立近代美術館にも巡回しておりますが、2019年の時点においてでも、東京での四条円山派の展覧会が「東京初!」と銘打たれてる状況ですから、近代日本画における「東」と「西」との断絶が大きいということのひとつの状況証拠になるのかもしれません。

「円山応挙から近代京都画壇へ」展については、東京藝術大学大学美術館のウェブサイトにアーカイブがありましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

なお、『日本画の所在』についても、勉誠出版のウェブサイトに紹介ページがありましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

話が逸れてしまい申し訳ありません。

本展「生誕150年 池上秀畝 高精細画人」では、秀畝先生の高精細の大画面作品のインパクトが強烈でしたが、個人的には、素描作品も非常に印象に残りました。

秀畝先生は膨大な「写生帖」を残されたそうで、その一部が本展でも展示されていたのですが、何といってよいのか、大画面作品とは異なる方向性で見入ってしまうという感じでした。なお、同展図録では、113ページから128ページにかけて「写生帖」の素描作品群が少し小さいサイズで別途閉じられております。

秀畝先生、なんでもかんでも描き写していたみたいで、キューピー人形まで愛らしく描き写されていたのは激萌えでした(同展図録第132ページ)。現代であれば、萌えキャラのフィギュアとかも描き写されたのでしょうか。いやん、もぉ、おっさん激萌え!!!

秀畝先生は花鳥画の大家でいらっしゃいますが、敢えて本展で展示されていた作品の中から激萌え作品をひとつ挙げるとすれが、ひねくれていて申し訳ありませんが、プロローグで展示されていた「秋晴(秋色)」(展示リスト作品No.1)という人物画を挙げさせて頂きたいと思います。

この作品を展覧会図録から写真撮影して引用することはいたしませんが、同展図録の解説には、本作品の概要が非常によく分かる説明が含まれておりますので、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

栗の木の下で、筵を敷いて機織りに精を出す女性と、その横で餌をついばむ鶏が3羽描かれている。女性は何かに気付いたのか、ふと顔をあげ、画面の右奥に視線を向ける。遠くに黄色く色づく稲穂のようなものが見えるが、細かな描写は省かれ、遠くどこまでも広がるようである。

『池上秀畝 高精細画人』編著:松浦千栄子、加藤陽介、木内真由美
株式会社青幻社 2024年 第21ページ第9-16行

この作品を拝見した上で他の豪華絢爛な花鳥画作品を拝見すると、秀畝先生が「僕は新派でも旧派でもない」とおっしゃった理由が、弊方として何となく分かったような気になっております。

ところで、本展は長野県立美術館に巡回されるとのことなのですが、秀畝先生の故郷である現長野県伊那市(厳密には旧上伊那郡高遠町)では、下記の3つのミュージアムでも秀畝先生の展覧会が開催されているそうです。

「春季企画展 -池上秀畝生誕150年記念展- 秀畝の画業」
伊那市立高遠町歴史博物館 2024年2月23日から6月16日まで

「「気韻生動」の画人 池上秀畝生誕150年展」
信州高遠美術館 2024年3月2日から5月19日まで

「生誕150年 池上秀畝展 -ただ絵が好きで好きで-」
長野県伊那文化会館 2024年3月30日から5月12日まで

これら展覧会にもぜひお伺いしたいのですが、なかなか難しそうです。

関西から長野県伊那市まで日帰りでお伺いすることは十分可能なのですが、旧伊那市に所在する伊那文化会館と、旧高遠町に所在する信州高遠美術館・高遠町歴史博物館とがかなり離れているようで、しかも、これら地区を結ぶJRバス関東・高遠線は1日に12本しかないということですので、関西からの往復時間を考慮しても、駆け足でこれら3館を巡ることは可能でも、作品を楽しむような時間を確保するのは難しいかもしれません。

ということで、比較的軽い記事にするつもりでしたが、結局長くなってしまいました。たいへん申し訳ありません。最後まで閲覧頂きましてありがとうございました。

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