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京都文化博物館「原派、ここに在り-京の典雅-」展(2023)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

さて、もう1年前になりますが、2023年の初春の過日と同年の晩春の過日の2回に亘って、京都文化博物館にて2023年2月18日から4月9日まで開催されていた3階企画展「原派、ここに在り-京の典雅-」展を拝覧して参りました。

京都文化博物館にアーカイブが残っておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

さて、「原派」ですが、近世京都画壇にて(いや近代に入っても)大きな影響力を持った画派であると、弊方考えております。とはいうものの、あまりメジャーではない模様です。インターネットを安直に検索しても、キーワード "原派" では、本展に関するウェブサイトが検出されるくらいで、Wikipedia にも項目立てされていないようです。

原派の初代、原在中先生については、Wikipedia あるいはコトバンクに項目立てされておりますが、本投稿では、敢えて敦賀市立博物館のリンクを僭越ながら張らせて頂きます

上記のリンクは、敦賀市立博物館の収蔵品データベースのページです。敦賀市立博物館といえば、東京都府中市の府中市美術館にて2022年3月12日から5月8日にかけて「ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります 京の絵画と敦賀コレクション」展が開催されたことで、関西北陸以外でもその名が知られたかと思います。

厳密には、府中市美術館では、2020年3月14日から「ふつうの系譜」展が開幕し、その後、5月10まで開催される予定だったそうですが、新型コロナウィルス COVID-19 のパンデミックにより4月8日から臨時休館となり、4月7日で閉幕された模様です。その後、COVID-19 のパンデミックが落ち着いた2022年に改めて「ふつうの系譜」展が開催されたそうです。

一方、敦賀市立博物館では、2020年8月8日から11月8日まで「ふつうの系譜」おかえり展が開催され、弊方、もちろんお伺いいたしました。

敦賀市立博物館の「おかえり」展は、8月8日から9月6日の前期展、9月8日から10月4日の中期展、10月6日から11月8日の後期展の3期に分かれており、各期にお伺いするとスタンプカードにスタンプを頂戴することができ、スタンプ2個で記念品として同展しおりを1つ頂戴することができ、スタンプ3個でさらに記念品として同展しおりをもう1つ頂戴することができるという、ステキな特典がありました。

3つのスタンプを頂戴したスタンプカードと、チケットの半券3枚と、記念品のしおり2つを、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

この「ふつうの系譜」展では、同展覧会図録によれば、「I ふつう画の絵画史」において「4 パーフェクトな形 原在中と原派」として、原派が紹介されていた模様です(同展図録第107-124ページ)。なお、敦賀市立博物館の「おかえり」展では、作品No. 82-100 まで原派の作品が展示されており、前期、中期、後期でそれぞれ展示替えがありました。

このように敦賀市立博物館には、原派の作品が多く収蔵されているのですが、本展「原派、ここに在り」展では、敦賀市立博物館所蔵作品の展示はなく、当代原家ご当主の原在義様ご所蔵の作品を中心に、京都府所蔵、京都の寺社所蔵、大学や他館所蔵の作品が展示されておりました。

何で敦賀市立博物館のことをここまで挙げさせて頂くかというと、敦賀市立博物館では、2001年10月26日から11月25日まで、特別展「京都画壇~原派の展開~」という展覧会が開催されていたそうで、本記事の投稿時点でも、同展図録が敦賀市立博物館で絶賛販売中であるからです。

敦賀市立博物館ウェブサイトの「刊行物・販売物」のページに、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。特別展図録などをクリックして頂けると確認頂けると思います。

また、僭越ながら、敦賀市立博物館「京都画壇 原派の展開」展図録を、弊方の微妙なガラケー的ガラホで撮影させて頂いた雑な写真を、下記に掲載させて頂きます。

さて、原派初代の原在中先生に関しては、非常に興味深いエピソードがあります。

『平安人物志』という、江戸時代の京都で発行された書籍があります。江戸時代中期から後期にかけて平均すると約10年に1回(実際にはバラつきがあります)、合計9冊発行された、近世京都の学者や芸術家などの文化人の「紳士録」のような書籍です。京都在住の文化人でこの『平安人物志』に掲載されれば「一流」であると自他ともに認められる、というようなものだったということです。

原在中先生は、数え年で88歳まで長生きされたこともあり(生歿年1750-1837)、この『平安人物志』の「畫家」の部に、なんと5回も掲載されているそうです。

しかも、最初の掲載は、安永四年版、西暦でいうと1775年発行の版で、当時、原在中先生は数え年で24歳くらいだった模様です。ちなみに、この安永四年版『平安人物志』には、我が偉大なる曾我蕭白師匠も掲載されております。

さて、天明八年、西暦でいうと1788年、京都史上最悪の火事といわれる「天明の大火」が発生し、京都御所(内裏)も含めて、京都の都市部がほとんど焼けつくされたそうで、時の天皇、光格天皇は、鴨川を挟んだ東側に所在する聖護院に移られ、この聖護院が仮御所になったそうです。当時の聖護院の門跡が光格天皇の同母弟でいらした盈仁入道親王(法親王)だったためかもしれません。ちなみに光格天皇や盈仁入道親王のお母さまは、鳥取県倉吉市ご出身の大江磐代君(おおえいわしろぎみ)です。

それはともかく、御所(内裏)が焼失しましたので、江戸幕府の責任で再建されることになり、いわゆる寛政の御所(内裏)造営の事業が開始されたそうです。

それまで御所(内裏)造営では、江戸から幕府御絵師(御用絵師)狩野派が送り込まれて御所(内裏)の絵画作成をご担当され、京都からはごく一部の由緒あるお家柄の絵師の方々しか参加できなかそうなのですが、寛政度は江戸幕府がめっちゃ財政状況が悪化して、いわゆる寛政の改革とかがあった時期なので、時の老中、松平定信公は、御所(内裏)造営の費用をケチるため、江戸幕府御絵師の狩野派絵師衆を送り込まず、京都で絵師衆を現地調達して画料も値切る、という世知辛いご決断をされたそうです。

ただし、この世知辛いご決断のお陰で、多くの京都の絵師衆が御所造営に参加したため、京都の絵師衆の地位が相対的に向上したとも言われているそうです。

寛政の御所(内裏)造営に当たっては、京都大坂の絵師衆がこぞって参加させて頂きたいですやんかいさ、どやさどやさ、御堂筋堺筋なにわ筋(by 今いくよくるよ師匠)という状況だったそうで、取りまとめ役の画所預の「やまと絵宗家」の土佐家と、補佐役の「江戸狩野派京都支社」の鶴沢家で願書が受け付けられたそうです。

とはいうものの、そこは禁裏ですので、絵師ならば誰でも彼でも採用されるわけではなく、お家柄、官位あるいは過去の実績が重視されたそうです。この辺りの詳細は、御用絵師ヲタクの必須文献『近世御用絵師の史的研究-幕藩制社会における絵師の身分と序列-』(武田庸二郎、江口恒明、鎌田純子共編、思文閣出版、2008年、ISBN978-4-7842-1392-4)、あるいは、『天皇の美術史5 朝廷権威の復興と京都画壇 江戸時代後期』(五十嵐公一、武田庸二郎、江口恒明著、吉川弘文館、2017年、ISBN978-4-642-01735-0)に激萌え解説があります。

これら激萌え解説をそのまま引用するわけにもいきませんので、弊方によるヲタトーク要約をさせて頂くと、願書を提出して書類選考でそのままオッケー! となったのは、お家柄がよいか官位をお持ちか過去の実績がおありの絵師の先生方です。この中には、江戸中期の京都画壇の「怪物」、円山応挙先生も含まれています。もちろん応挙先生も『平安人物志』に3回掲載されております。

お家柄が微妙で官位もお持ちでなく過去の実績がなくても、お父上の職業がそれなりであると書類選考で採用された模様です。

書類選考で選ばれなかった絵師の先生方に対しては、「席画」という実技試験が課されたそうです。この点に関しては、『近世御用絵師の史的研究』に収録される武田庸二郎先生の「寛政度禁裏御所造営における絵師の選定について」から、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

 ④僧位がなく、かつ御用勤の履歴(先代・先々代を含む)もない絵師(第5グループ)六十七名のうち、十五名が書類審査で、六名が席画による審査で採用されている。このグループに属する絵師たちは、絵師としての技量もさることながら、父親の職業が大きく影響する(禁裏が、絵師の「父親の職業」を執拗に調べさせたことは前に述べた。)
 書類審査で採用になった十五名の「父親の職業」は、絵師(三名)・医者(四名)・郷士(一名)・神主(一名)・陪臣(一名)・手跡指南(二名)・地下官人(一名)・職人(二名)という内訳になっており、商人・百姓の子供は全く含まれていない。
 また、商人の子十四名、百姓の子八名、計二十二名の出願者中、席画によって採用された者は僅か三名(商人二名・百姓一名)にすぎない。

『近世御用絵師の史的研究』第93ページ第6-13行

要すると、お家柄・官位・実績のいずれもお持ちでない絵師の先生方67名のうち、15名が書類審査に通って、残りの52名の先生方に対して実技試験が実施され、実技試験に通ったのがたった6名ということでした。合格率約11%ですね。基本的には落とす試験だったと弊方妄想しております。

そして、この数少ない6名の合格者の中に、偉大なる原在中先生が入っておられます。上記の引用ではお父上の職業が商人2人のうちのお一人です。ちなみにこのとき在中先生は数えで40歳くらい(寛政元年(1789) )でしょうか。

さらにこのとき、在中先生が若い頃から超有名だったらしいことを示す記録が残っているそうです。

『天皇の美術史5』に収録される江口恒明先生の「第二章 禁裏御用と絵師の「由緒」・「伝統」」(第71-133ページ)の中に、「二 宮中儀礼の記録図の制作」という節があり、この節の「主役」が原在中先生なのですが、寛政度御所(内裏)造営時の絵師選考のための「身元調査」に関して、朝廷(禁裏)から次のような問合せを受けたそうです。僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

 寛政元年五月二十六日、絵師選考における身元調査の記事によると「原在中は、以前から聞き及んでいる人物本人なのか、その子などではないのか」と問い質されている。これに対して頭取の土佐光貞は、同一人物である旨回答した(『造内裏御指図御用記』寛政元年六月二十六日)。この時点で在中は、禁裏御用を勤めたことがないものの、すでに宮中にも名の知れ渡った町絵師であった。しかしながら、初めて御用を勤めるにあたり、評判が高い割には歳が若すぎるのが不可解に感ぜられたために、「彼は本物の在中なのか」と問い質されたのであろう。

『天皇の美術史5』第100ページ第12-16行

おぉぉぉ! すげー!! 在中先生、アラフォーですでに京都では “レジェンド” やったんですね!!!

ラピュタは本当にあったんだ! (by STUDIO GHIBLI)みたいに、禁裏の偉い方々にとっては、原在中ってほんまにおったんや! という感じやったんでしょうか。

ということで、偉大なる原在中先生に敬意を表して「18世紀京都画壇ラピュタ先生」という迷惑な名誉称号を弊方から一方的に奉りたいと思います。

さて18世紀京都でも謎めいていた原在中先生ですが、本展「原派、ここに在り」展図録の第1章(第7ページ)にも記載されているのですが、現代でも未だにはっきりしないことが多いそうです。

例えば、在中先生は「仏画を山本探淵に学び、円山応挙または石田幽汀に師事したといわれています。」(同展図録第7ページ第6-7行)。寛政の御所(内裏)造営時に在中先生が提出した願書では、師系は円山応挙先生の弟子となっていたそうですが、石田幽汀先生の弟子とする説も根強いようです。

一方、仏画の師とされる山本探淵先生は、生没年不詳とのことですが、『平安人物志』では、文化十年版(1813)、文政五年版(1822)、文政十三年版(1830)にお名前が掲載されております。在中先生は先ほどのとおり安永四年版(1775)から文政十三年版にまで掲載されていますので、山本探淵先生は、在中先生と同世代もしくは下の世代である可能性が高そうです。

さらに、寛政の御所(内裏)造営時に、在中先生とともに席画採用された6名の中に、山本守礼先生の弟子「橋本左内」という方がおられます。なお「橋本左内」先生といえば幕末の福井藩の志士の方が著名ですが、年代的に全く違いますので、明らかに同姓同名の別人だと思われます。実は、この絵師の「橋本左内」先生が山本探淵先生だという説があります(『天皇の美術史5』第61ページ表4の第16項)。

そうであれば「橋本左内」先生は在中先生と席画採用で「同期」になりますので、『平安人物志』の掲載年度にも合致しそうです。そうすると山本探淵先生が在中先生の仏画の師匠、というのはちょっと考えにくいように思います。全く別人の同姓同名の「仏画師」山本探淵先生がおられた可能性も否定はできないのですが。

なお、本展「原派、ここに在り」展図録も、本記事の投稿時点でも京都文化博物館にて絶賛販売中であるそうで、京都文化博物館の過去の展覧会図録の2018年以降のぺージに、僭越ながらリンクを張らせて頂きます(本記事の投稿時点でいちばん下です)。

本展図録と先ほどの敦賀市立博物館の図録とをご購入頂ければ、掲載作品がほとんど被っていないと思われ、たいへんお得であると思われますので、原派にご興味のお有りの同志諸姉諸兄には、強く強くおススメさせて頂きたいと思います。

僭越ながら、京都文化博物館「原派、ここに在り」展図録も、弊方の微妙なガラケー的ガラホで撮影させて頂いた雑な写真を下記に掲載させて頂きます。

また、同展の出品目録が別途作成されておりましたので、こちらについても、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

ありゃりゃ?! ここまでヲタトークしておいていまさらながらなのですが、本展「原派、ここに在り」展に関して、ほとんど何も触れておりませんですね。たいへん申し訳ありません。

すでにかなり長くなっておりますので、1点だけ触れさせて頂きたいと思います。聖護院門跡蔵の作品番号9「花鳥図屏風」です。原在中先生作の六曲一雙の屏風作品です。

この作品は、その一部が本展チラシ(フライヤー)にも採用されております。弊方の微妙なガラケー的なガラホで雑に撮影した写真を掲載させて頂こうかと思いましたが、引用としては微妙である上に、冒頭でリンクを張らせて頂いた、総合展示のアーカイブにチラシ(フライヤー)の画像がありました。お手数ですが、そちらをご参考頂ければと思います。

この作品の解説を、「原派、ここに在り」展図録から下記の通り引用させて頂きます。

四季折々の草花や群れ遊ぶ鳥の姿を描いた、優美な作品である。・・・(中略)・・・、鳥たちは互いに顔を向け合って鳴き交わす。・・・(中略)・・・ すでに多田羅多起子氏が指摘するように、隅金具には菊の御門と房飾りがあしらわれている。本屏風は、天明の大火のあと三年間の仮皇居となった聖護院に対し、光格天皇が恩賞として与えた品のひとつとされる。

「原派、ここに在り」展図録第68ページ上段第9行、同第10-11行、同第13-15行

弊方、植物に関して詳しくないので何ともいえないので、飽くまで弊方の微妙で雑な知識による雑な所感ですが、「花鳥図屏風」に描かれている植物は、季節の移ろいに合致しているわけではないような感じがしました。

本作品「花鳥図屏風」では、四季の変化よりも、上記の引用にある「鳥たちは互いに顔を向け合って鳴き交わす。」というところに主題が置かれているのではないか、と弊方妄想いたしました。

この作品は文政十二年、西暦でいうと1829年に制作されたということですので、原在中先生が80歳頃、光格天皇が60歳頃、光格天皇の同母弟である聖護院宮盈仁入道親王が58歳頃の作品になります。母君でいらっしゃる大江磐代君は1812年にご逝去されています。

大江磐代君は、光格天皇と盈仁入道親王のお父上である閑院宮典仁親王がお亡くなりになったあと出家され、蓮上院と称されて盈仁入道親王の計らいで聖護院近くにおいて余生を送られたそうです。

この点に関しては、鳥取県倉吉市の倉吉博物館で開催された「大江磐代君顕彰展」のリーフレットと思しきPDFが、倉吉市のウェブサイトにアーカイブとして残されていたのですが、リンク切れになっておりました。たいへん残念です。

寛政の御所造営の期間は、1789年から1805年にわたるようですが、聖護院宮盈仁入道親王は「花鳥図屏風」制作の翌年1830年に逝去されているそうです。そうすると、弊方的には、仮御所の恩賞にしては期間が空きすぎているような気がします。

盈仁入道親王の晩年のご状況はインターネットでの安直な検索ではわかりませんでしたが、もしかすると、前年の1829年くらいには盈仁入道親王の体調はかなりお悪かったかもしれません。

また、光格天皇のお立場では、当時としては異例の身分の低いお方でいらした、母君の大江磐代君を積極的に庇護されることは難しかったのかもしれません。

そうであるが故に、同母弟である盈仁入道親王が母君を庇護されたことに光格天皇はたいへん感謝されていて、そのお気持ちを伝えるために、兄と弟が顔を向け合って親しく言葉を交わすようなありさまを鳥たちに仮託した作品を、80歳を迎えても絶好調でいらした、レジェンド原在中先生に発注されたのではないか、というのは、弊方の妄想が炸裂し過ぎでしょうか。

ということで、相変わらず長くなってしまいましたが、もうそろそろ開き直りたいと思います。最後までご閲覧頂きましてありがとうございました。


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