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京都国立博物館名品ギャラリー「生誕290年 円山応挙」展(2024)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

つい先ごろ終了してしまいましたが、京都国立博物館において2024年2月14日から3月24日まで開催されておりました「平常展示」である「名品ギャラリー」を拝覧して参りました。そのうちの一つが「生誕290年 円山応挙」展でした。

平常展示ということで、チラシ(フライヤー)やポスター、看板などが作成されていたわけでもありませんでしたので、館内の案内写真を弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影させて頂いた写真を掲載させて頂きます。

なお、見出し画像は、京都国立博物館の入口手前に掲示されていた名品ギャラリー案内になります。

本展、展示作品は合計8作でしたので、規模としては小さいものだと思います。

これらの作品には、かつて実際に拝見したことがある作品もあれば、そうでない作品もありました。

展示作品数が少なく、また展示リストも京都国立博物館ウェブサイトの名品ギャラリーのページに掲載されているだけで、印刷された展示リストや解説などの頒布もありませんでしたので、弊方の手書きメモから、つらつらヲタトークをさせて頂きたいと思います。

展示室は、先ほどの写真のフロア案内の「4」の部屋、すなわち、平成知新館2階の近世絵画を展示する第4展示室でした。

基本的には、第1展示室から第2展示室側が「上手(かみて)」になるようで、第4展示室においても、第3展示室側の壁面展示ケースが「上手」となるようでした。

この「上手」から、中央の正面の壁面展示ケース、そして「下手(しもて)」になる第5展示室側の壁面展示ケースの順で、8つの作品が展示されておりました。

名品ギャラリーのページに掲載される展示リストには、特に作品番号的なものは配番されておりませんでしたが、作品の展示順序は展示リストの上から順に対応しておりました。

本記事の作成の便宜上、弊方で勝手に作品番号を付与させて頂きます。なお、当然ですが、展示室内は写真撮影禁止でしたので、作品の写真はございません。

(1)虎図(龍虎図のうち) 1幅(掛軸作品)

弊方、この作品を拝見するの初めてで、写真でも拝見したことはないと思います。

この作品は、水墨画であり、かつ、応挙先生が「応挙」を名乗る前、「仙嶺」時代の作品でした。この「虎図」は「龍図」と対幅になっているそうで、「龍図」の展示はありませんでしたが、その作者は、応挙先生ではなく、応挙先生の孫にあたる円山応震先生だそうです。

作品自体は、応挙先生の虎図としては、お馴染みの感じです。さすがの応挙先生も本物の虎は拝見されたことがないそうなので、虎っぽくて猫っぽくてという感じのお馴染みの虎さんでした。

「仙嶺」時代の作品を拝見することがあまりこともあり、落款をメモさせて頂きました。

画面左下に「平安仙嶺」と款記があり、その下横くらいに、朱文方印「平安人氐字仲均」と、その下に、白文方印「僊嶺」とありました。

なお、応挙先生の落款の解読に関しては、兵庫県立歴史博物館にて1994年に開催された「没後200年記念 円山応挙展」図録に収録されている「円山応挙落款印譜」およびその目録、並びに、兵庫県立歴史博物館の木村重圭先生(当時)による「『円山応挙落款印譜』について」を参考とさせて頂いております(同展図録133-170ページ)。

写真が少なくてなんだか寂しいので、「没後200年記念 円山応挙展」図録を弊方の微妙なガラケー的なガラホで雑に撮影させて頂いたものを、僭越ながら掲載させて頂きます。

ちなみにこの図録、本記事の投稿時点でも兵庫県立歴史博物館で入手可能です。僭越ながら兵庫県立歴史博物館の図録販売のページにリンクを張らせて頂きます(かなり下の方です)。

(2)虎図 1幅(掛軸作品)

この作品(2)は、作品(1)と同じく虎さんを描いた作品ではあるものの、水墨ではなく彩色の作品でした。応挙先生の虎図としては、作品(1)と同様に、典型的な「応挙の虎図」という感じだったと思います。

ご参考までに、弊方の主観ですが、構図が異なるものの作品(1)や作品(2)と比較的近い印象の作品が、文化庁の「文化遺産オンライン」に登録されておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

リンク先は「虎嘯生風図(こしょうせいふうず)」で、この作品では、虎さんが画面向かって右側に横向いて「なんかいうた?」みたいな感じですが(弊方主観)、作品(1)や作品(2)はというと、いずれも、微妙な方向は異なると思いますが、虎さんはいずれも概ね正面を向いて「どうも~虎です~」みたいな感じでした(弊方主観)。

なお、作品(2)の落款ですが、画面右下に「明和丁亥夏日/平安/藤應擧寫」と款記がありました。 “/”は改行というか1行ずらした位置の記載であることを意図します。この款記のすぐ下に、白文方印「應擧之印」とそのすぐ下に白文方印「仲選」とありました。「没後200年記念 円山応挙展」図録の「円山応挙落款印譜」によれば、最もベタな落款印譜のような感じです。

(3)芙蓉飛雁・寒菊水禽図 2幅(掛軸作品)

この作品は重要美術品に指定されていた(されている)かなり有名な作品であり、弊方もかつて拝見したことがあります。例えば、別冊太陽205の『円山応挙 日本絵画の破壊と想像』の60-61ページにも掲載されております。

派手な作品という感じではありませんが、応挙先生の花鳥画としては、描写力炸裂の激萌え作品と弊方表明させて頂きたいと思います、

ちなみに落款ですが、右幅の「芙蓉飛雁図」の方は画面右下に、左幅の「寒菊水禽図」の方は画面左下に、それぞれ「癸巳仲秋寫/應擧」と款記があり、その下に白文方印「應擧之印」・白文方印「仲選」とありました。印譜は作品(2)と同じですね。

(4)双鹿図屏風 二曲一隻

この作品は、京都国立博物館蔵で「谷口豊三郎氏寄贈」と記載されておりました。この作品と後述の作品(7)は京都国立博物館蔵と明記されていますが、他の作品には明記がありません。そうすると、所蔵者の明記のない作品は、恐らく個人蔵であると推定されます。他館蔵であれば所蔵館のお名前を掲載することに差支えがないと思われるためです。

この作品(4)もかなり有名だと思います。弊方もかつて拝見したことがあります。例えば、愛知県美術館にて2017年10月6日から11月19日にかけて開催された「開館25周年記念 長沢芦雪展」で、芦雪先生の作品と対比されるかたちで展示されておりました。同展図録であれば作品番号33で、芦雪先生の作品である作品番号34の「双鹿図」と対比して展示されておりました。別冊太陽205の『円山応挙 日本絵画の破壊と想像』でも125ページに掲載されております。

この作品の落款ですが、第1扇の右側中央の少し下くらいに「天明癸卯仲秋寫/平安/應擧」と款記があり、その下に白文方印「應擧之印」・白文方印「仲選」とありました。印譜は作品(2)・(3)と同じでした。

「文化遺産オンライン」にも、この作品が登録されておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

ここで、この作品(4)について、今まで気づいていなかった、というよりも、確認することができなかった、おっさん激萌えポイントについて僭越ながらヲタトークさせて頂きます。

投稿済の下記の記事にて表明させて頂いておりますが、弊方、屏風の裏愛好家」でして、隙あらば屏風の裏を覗こうとするヘンタイさんなのです。

本展では、作品(4)の「双鹿図屏風」は、第3展示室側の壁面展示ケースの最も奥に展示されておりました。

弊方、美術関係愛好家あるあるでお馴染みの「ギャラリースコープ」または「ミュージアムスコープ」を愛用させて頂いております(片眼が見えないという理由もあるのですが)。そこで、作品の右側の少し離れた位置から、ギャラリースコープを駆使して「双鹿図屏風」の裏を覗き見させて頂きました。

ふつう、屏風の裏といえば、たいてい地味目な模様の唐紙か無地の紙が張られていることが多いのですが、なんと本作品では、本作品の屏風の裏には、紅葉の葉っぱっぽいモチーフと金砂子っぽい描写が確認できました。いやん、もぉ、おっさん激萌え!!!

全く参考にならない激萌えポイントで、たいへん申し訳ありませんでした。

(5)雲龍図屏風 六曲一雙

この作品は、あまりにも有名だと思います。日本国の重要文化財に指定されております。さすがに強烈な迫力がある超絶激萌え作品でした。弊方が本展にお伺いしたときも、多くの方々が、この巨大作品の全貌が把握できるような少し離れた位置から、じっくりと眺めていらしたのが印象的でした。

めちゃくちゃ有名な作品なので、落款をいちいち書く必要はないと思いますが、いちおう記録させて頂きますと、右隻では、第1扇右下に「安永癸巳仲夏寫/應擧」の款記と、その下に白文方印「應擧之印」・白文方印「仲選」とありました。印譜は作品(2)~(4)と同じでした。

なお、この作品、その一部が、別冊太陽205の『円山応挙 日本絵画の破壊と想像』の表紙に採用されております。ご参考までに、『円山応挙 日本絵画の破壊と想像』の表紙図録を弊方の微妙なガラケー的なガラホで雑に撮影させて頂いたものを、僭越ながら掲載させて頂きます。

(6)唐美人図 1幅(掛軸作品)

この作品は、弊方にとっては、たいへん衝撃的な作品でした。ということで、本記事のトリとして後述させて頂きます。

(7)龍門図 3幅(掛軸作品)

この作品も、作品(5)「雲龍図屏風」とともに有名な作品であると思います。京都国立博物館蔵で重要美術品です。別冊太陽205の『円山応挙 日本絵画の破壊と想像』にも第131ページに掲載されております。

明治の元勲のお一人、井上馨侯の旧蔵品だそうです。

この作品は3幅対ですが、中央の滝昇りする鯉さん(オーマイガットトゥギャザーでお馴染みのシャンプーハットの恋さんではございません)と、左右の悠然と泳がれる鯉さんとで本紙(画面)のサイズが異なり、中央幅が左右幅に比べて細めで縦長であることから、元々は中央幅と左右幅とが別の作品であったと考えられるそうです。

落款ですが、右幅は、画面右下「應擧」その下に白文方印「應擧之印」、左幅は、画面左下「應擧」その下に白文方印「應擧之印」、中央幅は、画面右下「寛政癸丑初夏寫源應擧」その下に白文方印「應擧」でした。

(8)梅林雪暁図 1幅(掛軸作品)

この作品については、弊方、過去に拝見した記憶がなく、弊方が所有する過去の展覧会図録や一般書籍を調べた限りでは掲載は確認できませんでした。

応挙先生の山水画はかなり現存すると思われますが、展覧会図録や一般書籍では、人物画や動物画、あるいは「水の流れ」を描写した作品が注目されるようです。

そのため、応挙先生の展覧会や一般書籍では、山水画関係の展示や掲載は比較的少ない印象を持っております。ただし、「真景図」については、「写生」と絡めてそれなりの展示や掲載があるようです。

本作は「真景図」という感じではなく、山水画といってよいのではないか、というのが弊方の所感です。

なお、「真景図」って何でんねん? とお思いになるかもしれませんが、安直にインターネットを検索すると、山口県下関市の下関市立美術館にて2022年8月20日から10月16日にかけて開催されておりました特別展「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」のアーカイブのページが分かりやすいかと思います。僭越ながら同ページにリンクを張らせて頂きます。

ちなみに、弊方、この展覧会にお伺いしております。緑内障に起因する5~6回目? だったかの手術を受けて、退院して比較的間もない時期に、眼帯した状態でこの展覧会にお伺いしたという、アホなことをしましたので、色んな意味で思い出深い展覧会でした。僭越ながら同展図録の表紙を微妙なガラケー的なガラホで撮影させて頂いた写真を掲載させて頂きます。

なお、作品(8)の落款ですが、画面右上の中央上側に「天明壬寅暮秋寫/應擧」の款記、その下に白文方印「應擧之印」・白文方印「仲選」でした。印譜は作品(2)~(4)と同じでした。

さて、本投稿のトリとして後回しにさせて頂いた作品(6)「唐美人図」です。

まずは、作品(6)の展示解説を、弊方が書き写したメモの翻刻を僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

応挙の美人図の典型を示す優品。人物表情、たたずまいは気品に満ち、髪飾りから着衣、調度品まで良品の顔料によってきわめて繊細に描かれている。特に、極細線で丹念に描かれた頭髪は圧巻である。西王母のようでもあるが、前漢成帝の女官班倢伃《はんしょうよ》の可能性もある。班倢伃は失寵を象徴する女性として詩に詠まれ、本作同様に波濤《はとう》図屏風を背に座す類例として、小田海僊の作がある。五十歳頃の作と見られる。

京都国立博物館2024年名品ギャラリー(2月14日-3月24日)「生誕290年 円山応挙」展
「唐美人図」展示解説 《》内はルビ

なお、本作の落款は、画面右の中央少し下に「平安/源応挙」の款記があり、その下に朱文方印「應擧」とありました。

弊方は、これまで本作品を拝見したことが記憶が全くありません。手持ちの過去の展覧会図録にも掲載はありませんし、一般書籍にも掲載はありませんでした。

先ほど申し上げました通り、本展は写真撮影禁止ですので、もちろん写真はありません。京博のウェブサイトにも画像は掲載されておりませんでした。過去の図録や書籍にも掲載がありませんでした。

初公開とは銘打たれておりませんでしたが、あまり公開されたことのない個人蔵作品ではないか、と弊方妄想しております。

弊方が、本作品を拝見したところを、文章により強引に再現したいと思います。

中国風衣装をお召しになったの美女が、おそらく「牀」に該当する台床の上に座しておられました。

「牀」は、一般的な脚4本の形態ではなく、周囲が朱色の豪華そうな枠に覆われており、枠内には白描で花々が装飾されておりました。白描の花々は玉によるレリーフなのかもしれません。「牀」の上面は、その外周がやはり朱色の枠で囲まれており、その上面内側は緑色で幾何学模様の布地が張られているように見えました。

このような朱色と緑色と白のコントラストが美しい「牀」の上に、美女が座しておられるのですが、直に座られているわけではなく、紺柄の豪華な裂の上に、さらに、桜色っぽい色から薄紫色っぽい色が混在した豪華な花柄の裂を重ねて座しておられました。

この美女は、画面左斜め上向きに向いておられ、その衣装は見るからに豪華な描写でした。そのお顔は、明確な微笑ではないのですが、うっすらと微笑んでおられるような、アルカイックスマイルのような表情で、満足気にも見えるような表情をされているように見えました。

美女の髪は、展示解説にありますように、非常に繊細な髪の描写がなされており、髪飾りは、鳥と花をあしらった装飾のあるカチューシャ状のもので、鳥の装飾から花の枝が伸びるようなデザインでした。

鳥と花をあしらった髪飾りは見かけた記憶がありますが、本作のように枝が伸びるようなデザインは見たことないなぁ、と思っていたら、似たような髪飾りを描いた応挙先生の作品が存在していました。

2003年から2004年にかけて、大阪市立美術館、福島県立美術館、江戸東京博物館を巡回した「特別展 円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦」展図録に掲載される3幅対の「西王母龍虎図」の中央幅に描かれる「西王母」です。

引用の範疇に入ると思いますので、「特別展 円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦」展図録から、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した写真を、髪飾りを中心にバストショットにトリミングしたものを僭越ながら掲載させて頂きます。

この「西王母龍虎図」は、1786年(天明六年)の作品ということで、応挙先生54歳(数え)頃の作品と考えられます。髪飾りだけでなく表情も衣装の豪華さも、本作「唐美人図」によく似ている気がします。

しかしながら、「西王母龍虎図」では、背後に従者と思われる人物を従えていたり、背景の描写がなかったりすることに加え、美女が何となく自信を持っているように見えることから、本作とは受ける印象が違うと弊方思いました。

ここで、本作「唐美人図」に戻ると、美女が腰かける「牀」の下は、大理石の大判タイルが敷き詰められていた床だったのですが、この大理石のタイルは、おそらく水墨だと思われますが、非常に見事な描写で、座する美女に匹敵するほどに非常に美しいと思いました。

背景の「画中画」である波濤図屏風ですが、詳細に描かれているのは下部のみで、上に向かうにともなって徐々に薄くなって消えていく見事なグラデーション描写となっておりました。下部の波濤の描写は、応挙先生お得意の見事な荒波のように見えました。

全体的な印象として、「牀」に座す美女は満ち足りた表情で上を向いており、たいへん幸せそうに見えるのですが、その背後の波濤図屏風が上に向かって消えていく描写が、何か不安感を誘導するように思えるという、あらゆる描写が詳細で見事に調和しているにもかかわらず、何となく不穏な雰囲気を感じるというものでした。

この弊方の印象に基づけば、この「唐美人図」に描かれている女性は、作品解説の通り、班倢伃さまではないか、と思いました。

偉大なる西王母様といえば、西方の崑崙山に君臨する、仙人というより「神」という感じの存在だというのが弊方の心象ですので、本作のような描写にならず、先ほどの「西王母龍虎図」のような描写になるのではないか、と思いました。

なお、展示解説で挙げられていた、小田海僊先生の「班倢伃」図ですが、奇しくも下関市立美術館にて1995年に開催された「小田海僊展」図録に掲載されておりました。

先ほどの「山水画と風景画のあいだ」展にお伺いしたときに、下関市立美術館で購入させて頂きました。こちらも引用の範疇に入ると思いますので、僭越ながら「小田海僊展」図録の該当ページを弊方の微妙なガラケー的なガラホで雑に撮影させて頂いた写真を掲載させて頂きます。

下関市立美術館「小田海僊展」図録第62ページ 作品番号43「班倢伃図」

小田海僊先生の「班倢伃図」と、本展展示の「唐美人図」とを比較すると、構図はかなり似ていると思いました。ただし、応挙先生の「唐美人図」では、美女は琴を持っておらず、左腕を乗せている帙入りの書物もなく、「牀」は四つ脚型ではなく、美女の衣装はずっと装飾的で、床は余白的な表現ではなく、「牀」を除いてさまざまな調度品等も描かれておりませんでした。

上記の写真では見えないかもしれませんが、小田海僊先生の「班倢伃図」では、背景の屏風の波濤図は非常にうっすらとした描写であり、応挙先生の「唐美人図」のように明確な波濤図という感じではありません。

逆に、小田海僊先生の「班倢伃図」では、屏風は全体的に明確に描かれていますが、応挙先生の「唐美人図」では、先ほどの通り、下側が明確に描かれているものの上側は徐々に薄く消失していく描写となっております。

全体的な対比による印象ですが、小田海僊先生の「班倢伃図」は、いわゆる「つまりたる絵」(by 狩野探幽先生)であり、全体的に落ち着いた調和を感じるのですが、応挙先生の「唐美人図」は、凄まじい微細な描写であるにもかかわらず、画面上部に大胆な余白のある「つまらない絵」(by 狩野探幽先生)であり、そのためなのか不穏な雰囲気を醸し出すように思えました。

いずれにせよ、この作品(6)の「唐美人図」は、弊方が展覧会や図録、書籍等で拝見したことのある近世美人画の中でも、もぉ異色というか凄まじいというか強烈というか、おっさん激萌えこの上なし、という作品でした。

もぉ、応挙先生ったら! バ・ケ・モ・ノ♡♡♡

応挙先生の作品で、この「唐美人図」に近い雰囲気の作品はないのか、と思って手持ちの図録や一般書籍を調べましたところ、先ほどの「没後200年記念 円山応挙展」図録に収録の作品番号31「楊貴妃図」が、非常に近いように思いました(同展図録第76ページ)。

この作品、応挙先生50歳の作品だそうで、その色彩は鮮やかなものではなく、髪飾りも異なるものの、制作年代も同じころで、その表情や背景の詳細な描写、髪の繊細な描写、余白の効果などを見ると、雰囲気として本作「唐美人図」にすごく似ている感じがしました。

なお、こちらの作品に関しては、雰囲気が似ているという程度で、引用とは言い難いかなぁと思いまして、弊方の微妙なガラケー的なガラホにより写真撮影して掲載することはは差し控えさせて頂きます。ぜひ、兵庫県立歴史博物館にて「没後200年記念 円山応挙展」図録をご購入頂ければと思います。

軽い内容にする予定が、めちゃくちゃ長くなってしまいました。たいへん申し訳ありませんでした。最後まで閲覧頂きまして、まことにありがとうございました。

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