教育は、誰を主体にした言葉なのか、という話。
20代を過ごしたのがベネッセという通信教育の会社だった。企業だから、言い出せばそれはそれはいろいろあるけれど、総じて「この会社には出会えてよかった」と思うし、20代のあいだに社会人として鍛えてもらえたのは、本当によかったと思っている。
よかったと思うことの一つに、「言葉や表現にこだわる」という姿勢を叩き込まれたことがある。(もしかしてそう思っているのは、私だけ?)
企画を練っていて、会議をしていて、赤ペン先生や会員(子どもたち)の目に触れる文章(=メッセージ)を考えていて、いつも「ちょっと待てよ」って、私も、私だけじゃなく会社の誰もが立ち止まる表現があった。
例えば、こんなの。
「〜させる」
使役の言葉、ね。
子どもに〇〇させる、赤ペン先生に〇〇させる・・・
企画書の、とくに「ねらい」的なところに、書いちゃいそうでしょう?でも、これを使わないように意識していたのは、暗黙の認識として、誰を主体とした企画なのか、誰かに「させる」のではなく対等な存在なんだ、ということを常に常に自分に問えと、言われていたんじゃないかと思う。ここを間違うと、企画の成果と課題をふりかえる「総括」のシーンで、いろいろと間違うことになるわけ。
企画がうまくいかなかった。
なぜなら、子どもが〇〇してくれなかったから。
こういう総括をしちゃうと、確実に、上司から怒らる。
それ、すんごい他責だからね。
失敗した原因は自分にあるんじゃないの?
そうそう。
他人のせいじゃないんだよ!
・・・と、そんな20代を過ごした会社を退職して、まもなく13年が経とうとしているという・・・で、10年前からはキャリア教育の仕事をしていて、ふと気づくと・・・
オイオイ!
学校って「児童生徒に〇〇させる」って表現、めっちゃくちゃ多いじゃん!!
それも目標とかねらいのところ!!
私たちはキャリア教育コーディネーターだから、学校の先生のお作法に則っていろんな文書を作成するわけなんだけど、都度都度、なんか、気持ち悪い・・・その上、10年も経つと、その気持ち悪さを、うっかり忘れる自分すら登場していることに気づく・・・
あっぶないなぁ、と思う。
言葉や表現には、自分の本心とか本質が表出する。それも無意識に。
教育って、子どもたちが主人公じゃないの?
ココ、忘れたらダメだよね。
松倉由紀
キャリア教育コーディネーター・教育研修プランナー。1975年長野県上田市生まれ。静岡大学人文学部社会学科卒業。地元での就職に失敗(4か月めで退職届!)ののち、大手通信教育会社、人材派遣会社、コンサルティングファームを経て現職。キャリア教育の領域で教育プログラム開発と「しくみ作り」をする「企画屋」であり「風呂敷たたみ屋」。2016年4月個人事業主から法人成り(株)ax-factory(https://ax-factory.wixsite.com/corporate)を設立。
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