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理想と現実のギャップに苦しむマン

先日のこと、簡単な遊びみたいなテストを受けた。
手を組んだ時の親指について、左右どちらが上か。
腕を組んだ時に左右どちらが上か。
この2つのテストで性格がわかるというのだから驚きだ。
仕事であればエビデンスを求めるところだが、
ここは素直に受け入れることにした。

それによると、私は理想と現実のギャップに苦しむタイプらしい。
頭ではそ、そんなバナナ!バナナシェイク!と思ったが、
心のどこかで引っかかる部分があった。

自分の意図しないところで評価された経験はないだろうか。
狙ってやったことが評価されるのは良いものだが、
時々狙ってもいないことが意外な評価になって返ってくることがある。

「あの時言ってくれた言葉に救われたんだよね」なんて言われるとする。
言われたことなどないが。
「ああ、あの時ね」なんて言いつつも、
言ったか言わないかさえ覚えていないパティーンである。

noteを続けていても思うことがある。
考え抜いて考え抜いて発射した渾身の一作、魂の叫びよりも、
ちゃらんぽらんな気持ちで思いのままに書いた記事の方が、
アクセスやいいね!が多かったりする。

なんでだろう。
なんでだろう。
ななななんでだろう。

そこで気づいたことがあった。
つまり私は自分自身の強みを履き違えているのではないかと。

もちろん狙って予想通りの評価を得たことはある。
しかし狙っていないのに評価された時のこのもやっと感を
どうしろというのだろうか。

コミュニケーションとは自分がいて相手がいて成立する。
刺さる人と刺さらない人がいるということも承知している。
それぞれの価値観や人生経験があり、
それを元に良し悪しを判断するからだ。

しかしそれを理由にしたくはないのだ。
なぜ狙っていない部分が評価されるのか私にはわからない。
アウトオブコントロールな分野で自分が一人歩きしているような
感覚になるのだ。

いや待て。
これは新しい自分の発見なのではないか。
自分が気付かなかった良い部分を他人が気付き、評価してくれる。
これは自分という未知の生物の新たな部分の発見であるのではないか。

アハン!
イヤンアハン!
そこはアカン!
やるぞ!やるぞ仕事!
やらされ仕事からやるぞ仕事!

自分自身について、自分が知れる自分なぞたかが知れているのかもしれない。
他人に新しい自分を見つけてもらうことは恥ずかしいことではなく、
コロンブスが新大陸を発見したような、
感動で流れ落ちた涙をその情熱で蒸発させるような、
そういった背中では美女振り返ったらブスみたいな感じなのかもしれない。

理想と現実のギャップに苦しむ方がいいじゃないか。
理想と現実が同じであれば悩むこともないが、
そのギャップが与えてくれる新しい自分に気づくことはできない。

ビバ!ギャップ!
フィレンツェフィレンツェ!
グラッチェ&チンチン!


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