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体験に必要なのは右脳と左脳

サントリー美術館で現在開催されているinformation or inspiration?展に行ってきた。
展示を見ている間中頭の中に”?(ハテナ)”が浮かび、少しずつ感じる”?(ハテナ)”が、両方の展示を見ることで!(ビックリ)に変わるこの展示は、「”体験”とは何か?」という問いを私に投げかけ、終わってからもずっと、誰かと話したい気持ちでいっぱいにさせられたので、見た勢いのまま、私が感じたことをnoteに書くことにした。

公式パンフレットの中で

「information」と「inspiration」の順路は、どちらから先に鑑賞しても、片方だけ楽しんで帰っても良く、それによって展示会の印象の個人差がおおきくなり、鑑賞者同士のコミュニケーションが誘発されることを願った

との言及があったため、こうして私が勝手な私の解釈を発信することも、この企画の狙いだと考えて書くことにする。

information or inspiration?展とは

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サントリー美術館と佐藤オオキ率いるデザインオフィス「nendo」との共同による、日本美術を紹介する展覧会。

人が美術作品を鑑賞するとき、その作品の背景にある過程や作者の意図などを知ることで生まれる感動と、理由もなく心が揺さぶられる感動、この2種類の感動があると仮定し、前者を「information(左脳的感動)」、後者を「inspiration(右脳的感動)」と位置づけ、「information」と「inspiration」という2つの展示空間の狭間に作品を配置する、「1つの展覧会のようで2つの楽しみ方ができる」構成となる。

美術手帖さんによるレポートはこちら

informationとinspirationそれぞれで感じる「違和感」

この展示には、「おや?」と思う部分がたくさんある。
その代表的なものを紹介したい。
▪️information
 1.情報が多すぎる
 2.タイトルと説明があっていない
▪️inspiration
 1.説明がなさすぎる
 2.作品のタイトルと作品が合っていない

◾️information
1.情報が多すぎる
informationという名が付くので、当然観客も作品の情報を期待する。それはそうなのだが、とにかく、説明書きの情報が多い
キャプションを読むのが大好きな私ですら、「え、長い」って思うくらい、すべての作品の説明が長い。作品と関係ない情報もたくさんある。

例えば、百人一首のうち2作が書かれた作品の説明がこちら。

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百人一首全部書いてある…
ちなみに、98首はこの作品と関係ない。いや、背景としてはもちろん関係あるんだろうけども…

2.大文字と説明文と展示が合っていない
大きな文字で書いてある文章は、大抵の場合は説明または作品の一番重要な部分であるはず。

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ただ、こちらの説明の大文字「見えない所にこそ、こだわる」についての説明が文中にはまったく出てこない。また、展示は一見、“見えない所”は特にない。

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◾️inspiration
1.説明がなさすぎる

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パンフレットには朱漆塗と書いてあるこの器。
赤色のライトで、器の色がまったくわからない。え、これ器の美しさが伝わらな…え?

2.作品のタイトルと作品があっていない

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写真映えするこの展示。この作品のタイトルは、「藍色徳利」。ただ、この徳利は黒で、藍色ではない。実は、徳利ですらない。(形が徳利なだけで、中に何も入れられない)

その違和感をどうしたのか

上記に書いた違和感は、だいたい両方の展示を見たら答えのようなものを得られるような展示になっている。双方を行き来することで、「そういうことか!」となる。

ただ、ふと気がついた。
最初の違和感を私はどうした?」と。

inspirationの少なすぎる説明も、informationの多すぎる情報も、最初は少し戸惑った。ただ、段々と「こういう展示かな?」とその違和感を流していってしまっていた。

説明文の中のトリビア的な過多な情報を「よくわからんけど、へー」と受け止め、読み飛ばしていく。手渡されたパンフレットの展示のタイトルと、目の前の展示がそもそも違うものである、ということを、普通に受け止めていく。大文字と合っていない説明文も、なんかそういうものか、と思う。

例えば、「薩摩切子 紅色被三段重」のinformationの説明文に書いてある「不完全な美しさ」は、

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inspirationの展示の「完全な美しさ」(同じ形のモチーフ、鏡を使って、すべてを対象にする美しさ)

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との対比によって、手作り感と時代を感じさせる美しさの説明だと私は解釈した。

けれど、大文字と合っていないキャプションを読み飛ばした人からしたら、それぞれの展示の意味は届かなかったかもしれない。(私の解釈が合っていれば、の話だけど)

「そういう展示でしょ」
「面白いことするなー、意味わからんけど」

と、違和感を受け止める思考を停止した。
この展示は、そういう自分の安易な思考停止に気がつかせてくれた展示だった。

伝わる、ということ

informationの多すぎる情報も、inspirationの少なすぎる情報も、それを元にどういう風に作品を楽しめばいいのか、ということを見る側が処理できない、という点で共通している。

日常的に触れる情報は、多くの場合、読み手のことを考えて、どういう風に受け止められるべきか、というのが設計されている。
そういう設計のない「事実」が目の前にあるとき、その解釈は見る人に任されるように思える。つまり、自由な解釈が生まれるように想定される。
けれど実際は、たぶん、「なにも伝わらない」可能性のほうが圧倒的に高い

例えば、とても残念なことに、最初に「朱漆塗瓶子」を見た私に最初の感想を聞かれても何も出てこない

ただ、informationの説明文を読んだあとの私は、

下地の漆が見えているところが、柄みたいでいいよね。味が出てくるってこういうことかな。下に漆が塗ってあって、時間が経ってもこういう楽しみ方ができるように作ってあるんだとしたらすごい。

ぐらいは言える。

どういうことを、どういう風に見るものなのか、多くの人はその指針がないと、作り手の意図は、残念だけど「伝わらない」という結果にしかならない危険性がある、ということを体験した。

inspirationは、見方を制限したり、視点を固定することで、「ここを見て!」ということをある程度コントロールしようとしていた気がするけれど、それは、見る側からすると、ちょっと流してしまう違和感だったり、不自由な指示でしかなく、どこをどう見たらいいのか、というところまでを体験だけで伝えるのがいかに難しいのか、がわかった。

つまり、筋道だった説明と直感の両方、言い換えれば右脳と左脳の両方の情報が組み合わさってはじめて「伝わる」ということになる
普段意識していないが、情報には、右脳を刺激する要素と左脳を刺激する要素とがあり、そのどちらをどう刺激するのか、を設計しないと、意図は伝わらない。
筋道だった説明だけでも、直感だけでも、意図した体験は生み出せない。
どう感じさせ、どう説明するのか。そのバランスを考えて、初めて体験の設計になる。

information or inspirationではなく、information and inspirationが必要なのだ。

解釈の余白の力

今回の展示は、すべて、「こういうものだ」という明確な説明がない、解釈に余白がたくさんある展示だった。
なので、上記はあくまで、私の解釈でしかなく、他の人は全く違うことを感じたかもしれない。

私は、その余白の作り方こそが、この展示の面白いところだと思った。
この展示の意図がなんなのか、この作品の意図がなんなのか、人に話したくなるし、話すほどに好きになっていく。

うっかりこんなに長文のnoteを書くほどに。

どんな風に見えて、どんな風に感じたのか、ぜひ違う見方をした人がいれば語りあいたい。
冒頭に書いたように、それこそが、本展示の狙いのようだしね。


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