見出し画像

弱者という名の強者

 最近、ネットを見てると相変わらず迷惑な人達が跋扈しているようで、時事系の動画を見ながらため息をつく日々です。飲食店や宿泊施設での迷惑行為、果てはほとんど犯罪の推奨動画まで。
 そんな中で、ひときわ目を引いたのが映画館における車いす利用者の“わがまま”について、でした。

“わがまま”と書きました。当事者の文章を見るに、恐らく本人は受けてしかるべき“配慮”だと思っていて、尚且つ社会的にはそれはいきすぎた“要望”であるように感じたからです。
 何があったか簡単に書くと、車いす用のスペースがないシアター(しかも一番アクセスしやすい座席ですら四段の階段経由)で一人で行った車いす利用の女性が、帰りに支配人から「ほかの劇場をご利用いただいた方がお互いいいのでは」と言われたとのことで悔しい胸の内を吐露しておいででした。それは悔しいでしょう。今まで何度か一人で利用して、こんなことを言われたのは初めてだったそうですから。
 でも、ちょっと待ってください。車いす利用者が一人で階段を上がれるわけがありませんよね? つまり、これまで劇場スタッフさんに抱えてもらうなどしているはずです。これはあくまで劇場側の“善意”であり、“義務”ではないのです。お写真を見るにスリムな女性でいらっしゃいましたが、それにしたって車いすごと抱えるのは素人にはとても難しいことです。ご本人だけを抱えるにしても危険が伴います。現に、この方は過去にバスの運転手さんに横抱き(お姫様抱っこ)での乗降を依頼して転倒させています。ご本人も痛かったでしょうが、運転手さんもぎっくり腰を患うことになりました。こういった事故が起こった際の責任問題があるため、車いす乗降の専用設備がない限り介助を請け負っているバス会社はほとんどありません。路線バスなどは専用の設備がある場合もありますが、長距離バスでそういった設備を備えているバス会社は実に少ないのです。
 そういった際に、じゃあ、どうすべきか。
 ヘルパーさんを雇うなり、諦めるなり、選択肢はあります。少なくとも車いす弱者であることを振りかざして他者に負担を強いることは選択肢に入りません。

 この方の記事を読んでいると、とある議員さんとか今度立候補するかもな方のような車いすユーザーが頭をよぎります。彼らは“自分の要望は叶えられてしかるべき”という信念のもとに生きておいでのようです。それは別に車いすユーザーに限った話ではなく、社会的に“弱者”と呼ばれる方たちの中には一定数この考え方をお持ちの方がいるようです。
 障害があるから、持病があるから、未成年だから、年長者だから、故意じゃないから、歩行者だからなどなど。
 席を譲る、道を譲る、場所を譲るといったことは、状況が許せば誰にでもできる配慮です。もっと踏み込めば脱輪してしまった車いすを周囲に声掛けして戻す、目が不自由な方に肘を貸す、耳が不自由な方が音に気付かずに危険に突っ込もうとしたら止める。こういったことも一歩踏み込む勇気と余裕があればできるでしょう。
 けれど、それは決して当然のこととして要求していいことではないのです。なのに、どうもこの国はハンディキャップを武器にして一般的な人々を虐げる傾向にあるようです。
 それが、私には許せないのです。してもらって当然じゃない。できないことはできないのが当然で、それを周りに強いて叶えさせることは当然のことではない。
 そういった輩は社会的弱者でも何でもなく、ただのモンスターです。
 私がなぜこの件について書こうと思ったか。それは、こういったモンスターが悪目立ちすることでごく一般的な良識ある弱者の方々まで同じように見られてしまうことを懸念しているからです。

 私自身、手帳持ちです。息子もそうです。カテゴリは違いますが、障がい者です。だからといって手帳を武器のように振りかざすことはしません。ほとんどの人はそうだと思います。

 えー……引き続き書きたいことがあるのですが、疲れて今日はここまでにとどめておきたいと思います。後日改めて有料記事で書こうかなと思います。

 そんなわけで追記を。
 結構具体的な話をするので有料記事とさせていただきます。

ここから先は

1,247字
この記事のみ ¥ 200

読んでいただくだけでも十分嬉しいですが、サポートいただくとおいしいものを食べたりして幸せになれます。私が。